第81話【洞察の眼】
私は行き先も告げられないまま、壱月が運転する車に揺られていた。柔らかなシートに身を沈め、窓の外を流れる見慣れた景色をぼんやりと眺める。
助手席に座る一葉さんは、いつもの様に涼やかな表情で前を見据えていた。
沈黙が続く。車内にはエンジンの静かな音だけが響き、何だか空気が重い。
「(うーん…気まずい。何か話した方がいいのかな…?)」
そう頭の片隅で考えつつも、気の利いた話題が何も思いつかない。それに正直なところ、私の頭の中は月姫の新たな課題でいっぱいだった。歌の創造なんて、何処から始めたらいいのか全く分からない。しかし、そればかりを考えていると一葉さんにも失礼に当たるだろう。今はデートに集中した方が良さそうだ。
それにしても、本当にどんな場所に連れて行ってくれるのだろう?以前に怪しい場所ではないとは聞かされているが、もしかして嘘だったりして…いやいや、彼に限ってそんな事はないだろう。彼の誠実な人柄を思えば、それは杞憂に過ぎない筈だ。
すると、不意に一葉さんの穏やかな声が沈黙を破るかの様に私に声を掛けた。
「そういえば、羽闇嬢。」
彼の呼びかけに私の心臓が小さく跳ね、ぴんと背筋が伸びる。
「は、はいっ…!何ですか?」
思わず、普段よりも少し高い声で返事をしてしまう。
一葉さんはゆっくりと此方に顔を向ける。彼の表情は特に変わる事なく、ただ静かに私を見つめ返している。
「今日の君の装いは、いつもとは少し趣が異なりますね。初夏の陽光に映える、軽やかでありながらも上品な色合い…それがまた君の秘めたる魅力を引き出している様に見えます。僕好みで大変よくお似合いだ。」
その言葉に私の頬は自然と熱くなった。壱月が選んでくれた今回のコーディネートは、自分では少し大人びていると感じていたけれど、一葉さんにそう言われると急に自信が湧いてくるのを感じる。
彼の様な感性の持ち主に褒められるなんて、滅多にない事だ。心臓がドキドキと高鳴り、全身の血が熱くなるのを感じる。私は照れ隠しに、そっと指先でスカートの裾を撫でた。
「え、あ、ありがとう御座います…。実はこれ…壱月が選んでくれたんですけど、私には少し大人っぽいんじゃないかって思ってたんです。でも、一葉さんにそう言って貰えて良かったです…!」
私がそう答えると、一葉さんは更に言葉を続けた。彼の視線が私の耳元に光るイヤリングへと向けられる。そして、鼻を僅かに動かすと目を細めた。
「…その耳元の輝きは、もしや夜空が作ったものですか?彼の作品にしては些か華やかさに欠ける様にも思えますが、羽闇嬢の可憐さを引き立てるには充分でしょう。中に封じ込められた黄金の砂が、君の動きに合わせて微かに揺らめき、まるで小さな星々が耳元で瞬いているかの様だ。そして、この仄かに香る甘い芳香は……華弦の作った香水でしょうか?彼の奔放な性格がよく表れていますが、君の纏う雰囲気に不思議と溶け込んでいますね。華弦は昔からよく香水を作っていましたが、まさかこれ程までに傑作を生み出すとは…彼の才能にはいつも驚かされますねぇ。」
彼のその鋭い洞察力には感心させられる。何より、夜空君と華弦の想いが込められたプレゼントを一葉さんが理解して褒めてくれた事がとても嬉しかった。
「凄い…!一葉さんには全部お見通しなんですね!はい、このイヤリングは夜空君が作ってくれたものなんです。香水は華弦がつけてくれたものでして…二人からのちょっとしたプレゼントなんです。」
私は恥ずかしさを誤魔化そうと、そっと耳元のイヤリングに触れながら答えた。
夜空君が心を込めて作ってくれた、星屑を閉じ込めた様な輝きを放つガラスドームのイヤリング。そして、うなじの辺りからは華弦がつけてくれた、甘く神秘的な香水の匂いが微かに漂ってくる。その全てが、今の私の姿を彩る大切な一部だ。彼らが私の出発を気に掛けてくれた事、そしてこんな素敵なプレゼントをくれた事に改めて感謝の気持ちが込み上がる。
「やはりそうですか。確かにあの二人らしい贈り物ですね。特に華弦の香水は、彼の感情がそのまま香りに映し出されていますね―独占欲と惜しみない愛情が。」
一葉さんはここで、ふっと微かに口元を緩めた。
穏やかで揶揄する様な悪意は感じられないその表情に、私はそこに少しだけドキリとした。
「一葉さんの今日の格好もカッコいいですね!私、一葉さんの着物姿しか見た事がなかったから…何だか新鮮に感じます。」
私の素直な感想に、涼しげな表情に戻った一葉さんは「ありがとうございます」とだけ言ってくれた。その落ち着いた返答もまた、彼らしいなと感じるのだった。
車内の気まずい沈黙はすっかり消え去り、心地よい空気に包まれていた。
車が一葉さんの言葉通り、市街地へと差し掛かった頃だ。車窓からは、休日で賑わう街並みがちらちらと見え隠れする。行き交う人々、立ち並ぶお洒落なお店…街の活気が車内からも伝わってくる。
その時、運転席の壱月がバックミラー越しにちらりと此方を確認した。そして、静かに一葉さんに声を掛けた。
「…一葉様。恐縮ながら、間もなく駅の方面に差し掛かりますがこのまま目的地へ向かって宜しかったでしょうか?」
その問いに、一葉さんは迷いなく頷いた。
「ええ、萱。それで構いませんよ、目的地は駅前ですから。」
一葉さんと壱月のやり取りを聞きながら、私は思わず首を傾げた。
「(駅?駅前でデートするのかな?確かにあの辺りはお店が沢山あるけど…。)」
そういえば以前、華弦に『デートの場所は絶対に壱月に言ってはいけない』と強く言われていたのを思い出した。その時の華弦の真剣な顔が脳裏にちらつく。しかし、壱月は既にデートの場所を把握している様子だ。
秘密にされていたのは結局私だけなのではないかという考えが頭をよぎる。このデート、本当に大丈夫なのだろうか?壱月は私に嘘をついているわけではないだろうけど、もしかしたら彼も一葉さんとグルで何かを隠しているのかもしれない…。
不安に駆られた私は思い切って、壱月に問い掛けた。
「あ…あのさ、壱月…。もしかしてデートの場所、一葉さんから聞いていたの?私、何も聞かされてないから少し気になってて…。」
「はい、羽闇様。つい先程、駅前のデパートに向かうとお伺いしました。」
壱月は普段と変わらぬ穏やかな表情のまま、淀みなく答えた。