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第75話【失望の烙印-夜啼艶Side-】

ずっしりと重い瞼を無理やり押し上げる。

視界に最初に飛び込んできたのは、酷く朧げな光を放つ天井だった。見慣れた筈のその天井は決して粗末なものではない。遥か上方に広がる空間には精緻な曲線を描くレリーフが幾重にも施され、その間を縫う様に張り巡らされた金色の装飾が薄闇の中でも鈍く、だが確かに煌めいていた。

此処は、紛う事なき埜唖様のアジトだ。豪華絢爛な装飾が私の心に重くのし掛かる。この贅沢な空間に横たわる自分の姿が余りにも場違いで、無力なものに思えた。


「ぐっ…!」


私の脇腹に走る鋭い痛みが全身を蝕む様にじわじわと広がる。藤鷹華弦の剣が、確かにこの身を貫いたのだ。そして、あの甘美な香りに感覚や思考を痺れさせられた後遺症だろうか…全身を伝う冷や汗が、私が生きている事や屈辱的な敗北が現実である事を嫌という程突きつけてくる。あの男と月光羽闇の逢引の終わりを狙って任務を完璧に実行する筈が、藤鷹華弦の予想外の抵抗や香りを放つ剣、そして突然現れた壱月萱の銃弾。これらの要因によって、私の計算が見事に狂わされた。

私は一体どうやってこのアジトまで戻ってきたのか、記憶が曖昧だ。激痛と意識の混濁の中で只々本能のままに這い戻ったのか、誰かの助けがあったのか…思考の片隅でそんな疑問がちらつくが、痛みがそれを掻き消す。

ゆっくりと軋む身体を起こすと身体は上質な毛布に包まれており、脇腹の傷口は丁寧に手当てが施されているのが分かった。


「…ようやく目が覚めたか、艶よ。」


「っ…!」


その時、部屋の奥から冷徹な声が響いた。低く、空間全体を支配するかの様な抗いがたい圧を感じる。振り返るまでもなく、その主が誰であるかを知っていた。

昏冥宮埜唖様―私達の組織のボスだ。


「埜唖様…!」


薄闇の中に浮かび上がる彼の姿は、いつもと変わらず圧倒的な存在感を放っていた。豪華な装飾が施された椅子に深く、ゆったりと腰掛けている。

私に向けられた彼の暗黒色の瞳は、冷たい氷そのものだった。私に対する失望か、あるいは怒りなのか。その口元に浮かぶ微かな歪みが彼の内なる苛立ちを物語っていた。


「藤鷹華弦に敗れ、羽闇を捕らえる事すら出来なかったか。任務に失敗したにも関わらず、よくもぬけぬけと生きて戻ってきたものだな…。」


埜唖様の一言一言が、私のプライドを深く抉る。私は今まで彼の為だけに生きてきた。彼の目的を果たす為にその冷徹な命令に従い、全てを捧げてきた。それが私にとっての唯一の価値であり、存在意義だった。それなのにこの様だ。無様に敵に敗れ、任務に失敗し…生きて帰ってきた。


「…申し訳ありません、埜唖様。この夜啼艶、弁解の余地も御座いません…!」


私はそれ以上の言葉を紡ぐ事が出来なかった。言い訳など埜唖様には通用しない。任務は任務、結局は結果が全てなのだ。深々と頭を垂れ、彼の冷たい視線が私を貫くのを受け入れた。絶望感が私を支配する。今は只、ひたすらに彼の次の言葉を待つしかない。

やがて、その沈黙を破るかの様に埜唖様の声が響いた。


「麗夢だけでなく、お前までこの私を失望させるとはな…艶。お前を信じた私が甘かった。」


麗夢の名が出た事、そして何よりも『失望した』という一言が私のプライドを粉々に砕く。

以前に麗夢は月光羽闇の捕獲に失敗し、埜唖様の信頼を失った。あの女と同列に語られる事が私にとって最大の侮辱だった。私は麗夢とは違う…そうずっと信じて、努めてきた。それをこの一言で否定されたのだ。全身の力が一瞬にして抜けていく感覚に陥る。


「…っ、埜唖様…!その様な…」


反論しようと顔を上げかけたが、埜唖様の冷たい視線に射抜かれ、言葉は喉の奥で詰まった。彼の瞳には、私がこれまで見た事のない程の深い失望の色が浮かんでいた。私は頭を垂れたまま、彼の言葉が私を焼き尽くすのを受け止めるしかなかった。悔しさに奥歯を強く噛み締め、ギリギリと音を立てる。


「処分は後日伝える…お前はこのまま休んでいろ。これ以上、無様な姿を晒すな。」


その宣告は私にとって死刑宣告にも等しかった。

この組織において、任務に失敗し、存在価値を失えば待っているのは残酷な()()だ。

動きたくとも動けない。この身は彼に()()と断じられたまま、この場に留まるしかない。それでも、私は諦めるわけにはいかなかった。この身に刻み込まれた、埜唖様への忠誠と私の使命…それを失う事だけは何としても避けなければ。

彼は玉座から立ち上がると、部屋を出て行こうとする。その背中に向かって私は懇願する。震える声が、この広すぎる空間に虚しく響く。


「お待ち下さい、埜唖様!どうか……どうか、もう一度チャンスを!この私に、もう一度だけ…ご命令を!お願いします…!」


私は地面に這いつくばってでも縋りつきたい衝動に駆られていた。しかしそれすらも叶わず、身体はベッドの上で痛みに耐えながら声を張り上げるのが精一杯だった。喉が引き攣る。

するとその瞬間、耳障りな笑い声が部屋の入口付近から響いた。


「あっはははは!おいおい、艶…!お前ってマジで惨めだなぁ!?負けて帰ってきて、それでもまだチャンスが欲しい?はんっ、笑わせるぜ!」


荒々しくも中性的なその声は、私の懇願をはっきりと嘲笑っていた。声のした方へと顔を向けると、部屋の入口にスラリとした長身の影が立っていた。その正体に私の全身が硬直する。


終哉(しゅうや)…!何故貴方が此処に…!?」


「はぁ?そりゃあ此処は俺等のアジトなんだから、いんのは当然だろーが。ついでにお前のその惨めな姿を見てみたいと思ってよぉ。」


禍魂(かこん) 終哉(しゅうや)。私と同じく、埜唖様の直属の部下。

身体に吸い付く様な黒いスキニーパンツに無数のスタッズが打ち込まれた黒い革のベスト。その下から覗く紺色のアシンメトリーな裾のシャツが、動く度に銀色のチェーンを鈍く光らせている。鋭く切れ上がった目元に、碧色の瞳。紫色の髪はワックスで軽く揉み込まれ、毛先がツンツンと跳ねている。肩まで伸びた襟足が首筋に沿い、目元にかかるかかからないかの絶妙な長さの前髪が彼女の顔をシャープに縁取っていた。中性的な容姿故に青年と見間違えそうになるが、彼女はれっきとした()()だ。その口元には棒付きのキャンディが咥えられており、甘ったるい香りが部屋に漂ってくる。

終哉は私を軽蔑した瞳で一瞥すると、大袈裟に肩をすくめた。


「…ったくよー。麗夢の次はお前もかよ、艶。弱ぇ癖に自分が強いって勘違いしてっからそーなるんだよ。情けねぇ声まで出しちまって、見てらんねーな…!」



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