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第74話【迷いの夜と忠誠の梳き】

その日の夜。就寝前に自室のドレッサーで私はいつもの様に壱月に髪を梳いて貰っていた。サラサラと音を立てて梳かれる髪の感触が心地よくて、一日の特訓で凝り固まった身体が少しずつ解けていくのを感じる。

鏡に映る壱月の姿は穏やかで、その手つきは優しかった。その安心感に包まれながら私は少しだけ緊張しながらも口を開いた。


「あのさ…壱月。実はね、一葉さんとデートが決まったんだ。」


私の言葉に梳いていた手がぴたりと止まり、鏡越しに壱月と目が合った。彼の視線は一瞬だけ微かに揺らいだ様に見えたけれど、すぐに普段の落ち着いた表情に戻った。


「一葉様と…で御座いますか?」


恭しく返答する彼の声は静かで淀みがない。それでも、ほんの僅かに感じた間の取り方に私は何故か言い知れない戸惑いを覚えた。


「うん。それが来週の土曜日の午前十時なんだけど、その日は予定を入れないようにして欲しいのよ。」


私が具体的な日時を伝えると、壱月は小さく頷いた。


「承知致しました。来週の土曜日、午前十時で御座いますね。羽闇様のご予定を最優先し、その日時は他の業務を入れずに空けておきましょう。」


彼の淀みない返答に安堵しつつも、私はふと華弦から受けた忠告を思い出した。彼の言葉が耳の奥でこだまする。『月光家の使用人にも…特に萱君には絶対に教えてはいけないよ』——あの時の普段とは違う華弦の真剣な表情が脳裏に蘇る。

壱月は何も知らない筈だ。こんなにも尽くしてくれている彼に隠し事をしている事実に、胸の奥がきゅうと締め付けられた。


「ところで羽闇様、デートの場所はどちらで御座いますか?」


彼の問い掛けに私の心臓がドクンと大きく跳ねた。あの華弦の強い忠告が頭から離れない。それに一葉さんも『当日のお楽しみ』って言っていたし、どう答えるのが正解なんだろう…?私は言葉を濁そうと、思わず口ごもってしまった。


「えーっと……それがまだ、一葉さんからは教えて貰ってない、っていうか…。」


視線を泳がせながら、どうにかそれだけを絞り出した。この場を取り繕う様な私の曖昧な返答に、壱月の手は髪を梳くのを完全に止めていた。鏡越しに見える彼の表情は一瞬にして困惑の色を帯び、眉間の僅かな皺が彼の抱く感情を雄弁に物語っていた。


「左様で御座いますか…それは少々、困りましたね。車の送迎は私が担当させて頂いております故、それではルートが…。」


壱月の声は冷静なトーンを保ってはいるものの、そこに微かな戸惑いが混じっていた。執事としての彼の責務を思えば、それは当然の反応だっただろう。主の安全を第一に考える彼にとって、デートの場所を知らされないというのは文字通り困った事態なのだ。


「そ、そうだよね…壱月だって他にお仕事があるし。でも大丈夫!最悪、車には頼らないから…!」


私は慌てて付け加えた。確かに、壱月にはこれ以上心配や手間を掛けさせたくないという気持ちもあった。

しかし、私の安易な言葉はむしろ彼の表情を固くする。


「そういうわけにはいきません、羽闇様。」


ぴしゃりと、言い切る壱月に私は思わず硬直した。しかしその声には、執事としての揺るぎない覚悟と私の安全に対する絶対的な責任感が込められているのが分かった。


「月光家の使用人…特に執事である私の役目は、羽闇様のご安全を何よりも優先する事。万が一にも、星宮様や藤鷹様とのデートの時の様に予測不能な襲撃に遭われたらどうするおつもりで御座いますか?それに、羽闇様はまだ月姫様の力を完璧に使いこなせてはいないのですよ?」


私の脳裏にあの日の光景を鮮明に蘇らせる。あの恐怖がまるで昨日の事の様に思い出され、背筋が凍る。壱月の懸念は決して杞憂などではなかった。

それに、特訓中の身である私はまだ月姫の力を使いこなせていない。そんな中、もしまた襲撃なんてされたら…。


「でも、一葉さんはまだ内緒にしておきたいみたいだし…。それに、壱月にもこれ以上迷惑を掛けたくないから…」


私は必死に反論しようとするが、言葉尻は尻すぼみになる。一葉さんのプライベートな意向と壱月への申し訳なさ、そして華弦の忠告…いくつもの感情が入り混じって私の心の中で綱引きをしている。

私の言葉に壱月は深く、しかし静かに溜め息をついた。その溜め息は諦めにも似た響きを持っていたが、同時に何かを決意した重みも感じられた。


「…承知致しました。羽闇様がそう仰られるのであれば、私はそれに従うしか御座いません。」


渋々といった様子で、壱月は明確に私の意見を受け入れてくれた。

鏡越しに見た彼の瞳の奥には、変わらぬ忠誠心と私には計り知れない深い思索の影が揺れている様に見えた。彼はきっと、場所を知らされない中でも私を守る為の最善策を既に頭の中で巡らせているのだろう。そのプロフェッショナルな姿勢に私は改めて頭が下がる思いだった。

彼は何も言わずに、再びゆっくりとヘアブラシを髪に通し始める。


「ですが日程が決まった以上、優先するべき業務としていつでも対応できるよう準備を整えておきます。」


彼の声は静かだが、その言葉には揺るぎない決意が宿っていた。場所が不明でも、どんな状況にも対応出来る体制を整える。それが、彼のプロ意識なのだろう。その意識の高さに私は何も言えなかった。只、申し訳なさと彼への深い感謝が胸に去来する。


「ありがとう、壱月。」


鏡越しに微笑み掛けると、壱月は私の言葉に小さく目元を緩める。それは、彼が私の気持ちを理解してくれている証拠でもあった。


「いえ…羽闇様のお役に立てるのであれば、これ程の光栄は御座いません。」


「相変わらず言葉が上手いんだから。」


「本心で御座いますよ、羽闇様。」


彼の返答はいつもの恭しいものだったが、その声の響きには確かな温かさがあった。私がまだ普通の女の子だった頃には、こんなにも自分の身を案じてくれる人がいるなんて想像も出来なかった。月姫としての使命は重いけれど、壱月やダリア…そして婚約者候補達がいてくれる事が何よりも私の支えになっている。

髪がすっかり梳き終わり、艶やかに纏まったところで壱月はそっとヘアブラシを置いた。そして私の肩に優しく触れ、ベッドへ促す。


「それでは、羽闇様。もう遅う御座いますので、お休みになられて下さい。明日も厳しい特訓が待っておりますよ。」


「はーい。」


その言葉に私は素直に頷いた。日中の特訓の疲れと壱月との会話で張り詰めていた緊張感がようやく解け始めたのを感じる。椅子から立ち上がると、ふかふかのベッドへと向かう。

シーツの冷たさが心地よく、私はそのままベッドに身を沈めた。


「それでは…お休みなさいませ、羽闇様。」


「うん。お休み、壱月。」


彼の声が響くと同時に部屋の灯りが消え、窓のカーテンがそっと閉められる。部屋は瞬く間に、外の月明かりが僅かに差し込むだけの穏やかな闇に包まれた。

静寂の中で私は瞼を閉じる。思考はだんだんと遠のき、意識は穏やかな眠りの淵へと沈んでいく。

すやすやと穏やかな寝息を立て始めた私を壱月は暫くの間静かに見守ってくれていた気がした。

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