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第71話【創造の葛藤、謎めいた約束】

身体が鉛の様に重い。夜明け前の特訓を終え、限界まで張り詰めていた意識が緩んだ途端に全身の筋肉が悲鳴を上げ始める。

特に普段使わない体幹を意識した動きが多かった為か、腹筋と背筋がじんじんと熱を持っていた。それでも、有栖川さんの厳しい指導のおかげで昨日よりも確実に自分の歌や動きにキレが増したのを感じる。この成長が、いつか『月姫』としての私を支える力になるのだと信じていた。

着用していたトレーニングウェアに汗のべたつきはなく、さらりとしているもののやはり特訓を終えたばかりの服を着続ける気にはなれなかった。一刻も早く着替えたくて、ふらつきながらも自室へと急いだ。クローゼットの扉を大きく開け放ち、視界に飛び込んできたのは水色のワンピース。それを手に取ると、私はそのワンピースに着替えた。柔らかな肌触りのコットン生地が体を優しく包み込み、ようやく呼吸が楽になるのを感じた。

ベッドにどさりと腰を下ろすと、今日の特訓で有栖川さんが言った言葉が私の頭の中で繰り返される。


『新しい歌を作ってみるのはどうかしら?貴方自身の力で、月姫としての歌を創造するのよ。』


新しい歌。私だけの歌。その響きは、確かに心の奥底を揺さぶる魅力を秘めていた。だけど同時に、まるで巨大な壁が目の前に立ちはだかった様な途方もない不安が押し寄せてくる。これまで私が歌ってきた癒しの歌は亡き母から受け継いだものだし、攻撃の歌は最初の戦いの時に自然と身に宿ったものだった。どちらも私が文字通りゼロから生み出したわけじゃない。有栖川さんは『感情が歌の源になる』と言っていたけれど、一体どんな感情を込めれば新しい歌が生まれるのか?どんなメロディで言葉を紡げばいいのだろう?何から手をつければいいのかも全く分からない。頭の中は何処までも漠然とした不安でいっぱいだ。ぐるぐると同じ思考が迷路に迷い込んだ様に繰り返される。『創造』という言葉があまりにも遠くて、重く感じられる。私に、そんな大それた事が出来るのだろうか?

どれ位そうしていただろうか、時計の針がもうすぐ朝の七時を指そうとしている。窓の外を見ると既に陽は昇り、朝の柔らかな光が部屋の隅々まで差し込んでいた。空は澄み切った青色で、遠くから小鳥の囀りが微かに聞こえる。その穏やかな光景とは裏腹に、私の心はまだ重苦しい不安に覆われていた。

すると、不意に部屋の扉からコンコンと控えめながらも確かなノックが聞こえた。私の思考はそこでプツリと途切れる。


「は、はーい?どうぞー。」


反射的に返事をすると、扉がゆっくりとした手つきで開かれる。そこに立っていたのは一葉さんだった。スラリとした長身が、朝の光を受けてシルエットとなって浮かび上がる。彼の表情は穏やかな笑みを浮かべていたが、その瞳の奥にはいつもと変わらない静かな深みが宿っている。


「…一葉さん?」


「失礼。少しお時間を頂いても宜しいですか、羽闇嬢。」


彼の声は相変わらずひやりとする程美しく、澄んだ泉の底から響いてくる様だ。


「あ、はい!勿論です…!」


私が思わず上ずった声で頷くと、一葉さんは流れる動きで部屋の中へ足を踏み入れた。彼が近づくにつれて、清涼感のある伽羅の様な香りがふわりと漂う。その香りは、彼の持つ独特の雰囲気を更に際立たせていた。


「…以前のデートについてですが、詳細をお待たせしてしまい申し訳ありません。」


その声には確かに謝罪の響きが込められているけれど、何処か形式的で真意が掴めない。そういえば確かに以前、私は一葉さんとデートの約束をしていた。そして彼は暫くの間多忙の為、日時は追って連絡すると言っていたのを思い出す。


「い…いえいえ、そんな。大丈夫ですっ…!お忙しいと聞いていましたし、お気になさらず…!」


慌てて恐縮すると、一葉さんは小さく笑った。


「ありがとう御座います。…さて、それでは本題に入りましょうか。デートの日程についてですが、来週の土曜日の午前十時は如何でしょうか?」


具体的な日付と時間を提示されて、急に現実味を帯びてくる。その日は特に予定はなかった筈だ。新しい歌の創造で煮詰まっている今の私には、少し気分転換が必要だと感じていたところだ。


「来週の土曜日ですよね…はい、大丈夫です。その日は特に予定は無いので空いてますよ!」


私はどもりながらもそう答えると、一葉さんの切れ長の瞳が微かに細められたように見えた。それは納得したというよりは何かを読み取った、あるいは期待通りの反応と思っていた様なそんな曖昧な視線だった。


「それは結構。では、当日改めてお迎えに上がりますので。」


そう言うと一葉さんは一礼し、踵を返して部屋を辞去しようと扉に向かう。彼の背中を見送ろうとしたその時、はっと閃いた。


「あ、あの…ちょっと、一葉さんっ!」


慌てて呼び止めた。一番肝心なことを聞き忘れていることに、今になって気付いたからだ。


「ん?何ですか?」


彼はドアノブに手を掛けたまま、ゆっくりと振り返った。彼の表情は先程までの笑みとは違う、はっきりと見て取れる悪戯っぽい笑みだった。その笑顔の裏に何か深い意図が隠されている様に感じ、私は少しだけ背筋がゾクッとした。


「まだ日程と時間しか聞いていないので…。デートの場所はもう決められているんですか?」


「フッ…それは当日のお楽しみですよ。きっと君を素敵な場所へご案内致しましょう。ですが、何も怪しい場所へ連れて行くわけではありませんので警戒はしなくとも大丈夫ですよ。」


その言葉に私は少しだけ頬を膨らませてしまう。期待と不安が入り混じった、複雑な気持ちだ。


「いや…でも、当日まで教えてくれないのはちょっと…。何か持ち物とか服装とか、準備しておく事とかないんですか?」


「心配には及びません、普段通りで充分です。では、僕はこれで。」


そう言い残すと、一葉さんは静かに扉を閉めて部屋を後にした。彼の退室で、部屋には再び静寂が戻ってきた。しかし、先程まで感じていた重苦しい空気は少しだけ軽くなった気がする。


「当日のお楽しみ、かあ…。」


残された私は彼が去った扉を見つめながら、これから始まるであろうデートへの期待とまだ見ぬ場所への好奇心で胸がじんわりと温かくなるのを感じた。新しい歌の悩みはまだ解決していないけれど、一葉さんの突然の訪問と謎めいた言葉が私の心を少しだけ軽くしてくれた。彼の言う『素敵な場所』とは、一体どんな所なのだろう?そして、そこで何が起こるのだろうか。彼には何か底知れない思惑が隠されている様な、そんな漠然とした違和感が残った。

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