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第70話【成長の歌声】

特訓ルームはまだ夜明け前の深い静寂に包まれていた。私はその空気を感じながらゆっくりと、深く、数回呼吸を繰り返す。肺いっぱいに吸い込む澄んだ空気が張り詰めた私の心臓の鼓動を少しだけ穏やかにしてくれた。特訓ルームの隅には、いつもの様に壱月が控えている。彼の立ち姿は常に完璧で、感情の読めない表情は私の緊張を和らげると同時に無意識のうちに背筋を伸ばさせる不思議な安心感を与えてくれる。


「…ルナ•ラディアンス。」


呪文を唱えると月の光が私の体を優しく包み込み、眩い輝きと共に私は月姫へと姿を変えた。その手のひらには、神秘的な輝きを放つ月白色のマイクが握りしめられている。


「それでは、羽闇様。準備は宜しいでしょうか。」


壱月の静かで凛とした丁寧な声が、耳に優しく届く。私はひんやりとしたマイクの感触を確かめる様に軽く持ち直し、小さく頷きを返した。


「うん…大丈夫。いつでもいけるよ、壱月。」


部屋の中央には、既に有栖川さんが薙刀を構えて立っている。彼女の鋭い眼差しが、私をまっすぐに見つめる。瞳の奥には、私への限りない期待と月姫としての使命を全うさせようとする確固たる意志が宿っているのが分かった。その視線に私は僅かな緊張を覚えたが、この特訓を乗り越える事への強い決意を芽生えさせる。


「いくわよ、羽闇さん。貴方の感情と歌声がどれ程深く繋がり、その歌を何処まで繊細に力強く制御出来るか……貴方の真の実力を此処で見せて頂戴。私も手加減はしないわ。」


有栖川さんの言葉は私に静かな覚悟を促した。


「はい!宜しくお願いします、有栖川さん。」


私はマイクを構え、歌声に全神経を集中させる。深く呼吸を整え、心の奥底に眠る、私自身の最も純粋な感情を呼び起こす様に意識した。

これまでの特訓の日々が、脳裏を駆け巡る。最初は月姫としての力の制御はおろか、常に自分の歌声に感情を込める事すらままならなかった。有栖川さんの厳しく、時に容赦ない指導に私は何度も心が折れそうになった。弱音を吐きそうになった日も数えきれない。

私は心を込めて歌い始めた。私の歌声は澄み切ったクリスタルの様に淀みなく特訓ルームに響き渡り、空間全体を震わせる。以前よりもずっと安定していて、光の粒子は私の感情に呼応する様に繊細かつ力強く、有栖川さんへと向かっていった。攻撃の歌なのに、今は不思議と優しい気持ちで歌えている。怒りや焦りといった負の感情ではなく、純粋に、彼女の薙刀の攻撃を無力化する事だけを願う気持ちが私の歌声に乗せられていく。心を込めれば込める程歌声が私の魂と一体になり、力が満ちていく様な圧倒的な感覚があった。歌声が強まるにつれて私の体からも光の粒子が溢れ出し、特訓ルーム全体が淡い光に包まれていく。

薙刀を構えた有栖川さんは私の歌が生み出す光の波動を巧みに受け流し、時に弾き飛ばしながらしなやかな体捌きで私へと近づいてくる。無駄のない動きで私の歌を躱し、正確無比な軌道で私を追い詰める。その度に私の歌声は更に研ぎ澄まされ、光の粒子は密度を増していく。薙刀の穂先があと僅かで私に届きそうになる瞬間が何度かあったが、その度に私は歌声に力を込め、間一髪でそれを躱す。

壱月もまた、その静かな瞳で私達二人の攻防の一部始終を見守っていた。彼の表情はまさに冷静沈着そのものだが、その眼差しからは微かな緊張と私の成長を見極めようとする執事としての職務への揺るぎない忠実さが感じられた。


「…羽闇様、素晴らしいご成長で御座います。」


壱月が小さく、明確に呟くのが聞こえた。その声は研ぎ澄まされた私の集中力に届き、私の歌声は益々力強く、安定していく。集中力は極限まで研ぎ澄まされ、歌声と光の粒子が完全に一体となり、有栖川さんの動きを徐々に制限し始める。薙刀が私の歌の圧力に耐えかね、微かに震えているのが見て取れた。これは本当に私の歌の力なのだろうか。


「羽闇さん、その調子よ…!」


有栖川さんの声が私の歌に更なる力を与える。

次の瞬間、彼女が薙刀を大きく振り上げ、私に渾身の一撃を繰り出そうとした――その時だった。

カラン、と。

乾いた金属音が静まり返った部屋中に響き渡った。

私の歌声が、有栖川さんの薙刀の存在を書き換えてしまったかの様にその銀色の鋭い刃はいつの間にか元の一本簪の姿に戻り、床に転がり落ちていた。その瞬間、私の体から全ての力がふっと抜け落ちる感覚に襲われた。

私は歌を止め、きょとんとしながらその場に立ち尽くした。床に転がる一本簪とそれを拾い上げた有栖川さんを交互に見つめる。何が起こったのか、まだ完全に理解が追いつかない。


「え、今、何が……?」


頭の中は疑問符でいっぱいだった。

有栖川さんはその簪をそっと掌に乗せた。いつもの冷静な表情の中に、何処か満足げな色が浮かんでいるのが見て取れる。


「…合格よ、羽闇さん。貴方は月姫として、次へと繋がる確かな一歩を踏み出したわ。」


その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中は一瞬、真っ白になった。


「え…?本当に、合格……?」


私はまだ実感が湧かないまま、呆然と口を開いた。この数か月の厳しい特訓の日々…そして何度も感じた自分の無力さ。それが全て、この一瞬に報われた様だった。喜びと安堵が押し寄せ、壱月の方に顔を向ける。彼は口元に薄い微笑みを浮かべ、静かに小さく拍手をしてくれていた。


「おめでとう御座います、羽闇様。目覚ましいご成長で御座いました。」


壱月が淡々と告げた。

その声には執事らしい感情の起伏のなさが感じられたが、そのまっすぐな視線には私への確かな敬意が宿っているのが分かった。


「ありがとう御座います、有栖川さん…!壱月もありがとう!」


ようやく実感が湧いてきた私は、満面の笑顔で二人に感謝の言葉を伝えた。喜びで胸がいっぱいになり、言葉が震えるのを止められなかった。


「ええ、よくやったわね。貴方は以前よりもずっと心を込めて歌えるようになったし、歌のコントロールも格段に上手くなっているわ。特に、薙刀を簪に戻したあの現象……見事だったわ。月の力が只々攻撃や防御だけでなく、物質の形態にまで影響を与える事を貴方は証明したのよ。それは貴方が月姫としての力を新たな次元で理解し始めている証拠よ。」


有栖川さんはそう言ってくれたものの、すぐにいつもの真面目な顔に戻った。その表情は私の成長を喜びつつも、既に次の段階を見据えているかの様だ。その視線が私に新たな課題を突きつけているのが分かった。


「だけど、歌のコントロールはもう少し特訓した方が良いわね。そして何より、今の貴方が持っている月姫の歌はまだ二曲しかない。一つは貴方のお母様から託された癒しの歌だったわね。そしてもう一つは貴方の身に宿った攻撃の歌…。月姫として今後の戦いに挑むには、この二曲だけでは限界があるわ。戦闘に使える歌は他にないのかしら?」


「あ、はい…。今持ってるのは、まだその二曲しかなくて…。」


私の言葉に、有栖川さんは少し考え込む様に首を傾げた。


「そう…。貴方の歌は、貴方自身の心が強く影響する…感情が歌の源となるのよ。それなら、羽闇さん。新しい歌を作ってみるのはどうかしら?貴方自身の力で、月姫としての歌を創造するのよ。」


有栖川さんの提案に私は目を丸くした。

新しい歌?私にそんな事が出来るのだろうか。でも、もし私だけの歌を作れたら…。その可能性に、私の胸は静かに高鳴った。それは、まだ見ぬ未来への希望の光の様に思えた。

私だけの歌。それがどんな歌になるのか今はまだ想像も出来ないけれど、その響きは私の心を強く惹きつけた。

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