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第68話【翡翠色の予感】

月光邸の庭園にある、よく手入れされた砂利道を私はゆっくりと歩いていた。午後の日差しは肌に心地よい暖かさで降り注ぎ、風が庭に咲き誇る薔薇の甘やかな香りを運んでくる。

足元に視線をやれば真新しい革靴が小さな砂利を軽く踏みしめている。時折小鳥のさえずりが近くで聞こえ、その音さえもがこの広大な邸宅の静寂を際立たせていた。数日前の事など、夢の出来事の様に遠い。壱月のお説教も今となっては殆ど気にならない。確かにあの時は辟易としたし、足はパンパンになったけれどそれも今はどうでもいい。

むしろ、普段はあまり感情を見せない壱月があそこまで真剣に怒った事の方が私にとっては余程面白かった。彼の労力が無駄になったなんて事は頭の片隅にもなく、次は何をして彼を驚かせてみようかと密かに企む程の余裕さえ生まれていた。


「あーあ。こんなに気持ちがいいのに、何か刺激が足りないのよね…!」


ぽつりと呟いた、その時だった。


「この様な場所で物思いに耽るとは珍しい事ですね、羽闇嬢。」


「ひゃっ…!」


背後からひやりとする程美しい声が響いた途端、心臓が大きく跳ねた。それは私の耳に心地良く、壱月とはまた違う種類の何処か冷たさを帯びた声。この声は――!ゆっくりと後ろを振り返ると、そこに立っていたのは一葉さんだった。完璧に着こなされた着物が庭の深い緑と澄んだ空の青に鮮やかに映えている。陽光が彼の艶やかな翡翠色の髪に煌めく。切れ長の瞳の奥には底知れない静けさが宿る。しかし、その静けさの裏には何か鋭いものが潜んでいる様なそんな予感を抱かせる。彼は婚約者候補の中でも最年長であり、他の誰とも違う落ち着いた雰囲気は独特の存在感を放っていた。


「一葉さん…!?どうして此処に…?」


私の問い掛けに、一葉さんは唇の端を僅かに吊り上げた。普段は余り見せない含みのある笑み。それが私の好奇心を静かに刺激し、同時に背筋に微かな緊張感を走らせた。彼とはこれまで深く話す機会がなかった。顔を合わせれば挨拶を交わす位で、華弦と親しげに話している姿を見た事の方が余程多い気がする。だからこそ、彼の静かな視線を受けるとどうにも落ち着かない。この人は、私の考えている事をどれ程見抜いているんだろう?


「窓から君の姿が見えたので。それに、少しばかり君に用事がありまして。」


「よ、用事ですか…?」


ふと、壱月の言葉が脳裏をよぎった。

『婚約破棄などと申し出たら一体どうするおつもりでしたか!?』……あの時の彼の真剣な顔が頭に浮かぶ。冷静沈着な一葉さんが、私に『月姫に相応しくない』なんて冷たく言い放つなんて事は…ない、とは言い切れない。そういえば、初めて会った時もあまり関わらないで欲しいと言われていたのを思い出す。でも、婚約者候補の中で一番常識がありそうな彼にもし本気で失望されていたらどうしよう…。そんな不安が胸の奥をチクリと刺した。

私の頭の中では、楽観的な思考と何処か期待にも似たスリルが奇妙に混じり合っていた。一葉さんの無表情さは、まるで難解なパズルを突きつけられた様な困惑を私の心にもたらした。


「えっと…その、用事というのは…?」


恐る恐る、続きを促した。喉が乾き、生唾をゴクリと飲み込む。

一葉さんは私の内心を見透かしたかの様に、ふっと小さな笑みを零した。その笑みは先程よりも微かに柔らかいものだったが、やはり完全に感情を読み取る事は出来なかった。隠された意図を匂わせている、絶妙な表情だ。


「フッ…そこまでお心を悩ませる必要はありませんよ、羽闇嬢。」


そう言って彼は私に一歩、また一歩と近づいた。

そして、私の耳元にそっと囁く様にはっきりと聞こえる声で告げた。


「次のデートの相手を私にして頂きたい、と。それが、僕の用事です。」


「……え?」


拍子抜けしたというのはまさにこの事だろう。期待していた、あるいは少しだけ恐れていた重苦しい言葉とは全く違うまさかの提案。思わず間の抜けた声が出た。婚約破棄じゃなくて、デート!?一瞬にして私の頭の中の警報は遠くへ消え去っていき、庭園の風が心地よく頬を撫でていった。


「デートって…一葉さんと、ですか?」


私はもう一度、確認する様に尋ねた。


「はい。夜空、鳳鞠、華弦とのデートは既に終えられていると伺っております。残るは僕と海紀の二人だけでしょう。」


一葉さんはそう言って、優雅に腕を組んだ。彼の所作の一つ一つは常に絵になり、周囲の風景さえもが彼の存在を引き立てる背景と化す。

確かに夜空君、鳳鞠君、華弦とのデートは既に済んでいる。それぞれのデートは個性豊かで、私にとって新しい発見の連続だった。夜空君は真面目ながらもほっこりとした優しさが、鳳鞠君は明るい笑顔と天真爛漫さが、そして華弦は自由奔放な言動の中に隠された温かさが印象的だった。

残る婚約者候補は碓氷さんと一葉さんだけ。成る程、遂に彼の番という事か。


「…で、如何ですか?」


「も、勿論大丈夫です!宜しくお願いします…!」


私は満面の笑みで即答した。新しいデートへの期待が私の心を一気に高揚させる。一葉さんとのデートか。彼の考えている事はいつも予測不可能だから、どんな展開になるのだろう?これまでの彼との関わりが少なかったからこそ、彼を知りたい。それに、華弦とも親しげな一葉さんの素顔ってどんななんだろう?


「良かったです。ですが、生憎暫くは僕の方で多忙な日々が続きましてね…。」


一葉さんはそう言うと、少し残念そうな表情を浮かべた。その言葉の響きの中に、何か特別な意味が込められている様な気がした。彼が関わる『多忙』とは、一体どんな内容なのだろう?


「ですから、日時などの詳細につきましては追って改めてご連絡させて頂きます。宜しいですか?」


「分かりました。連絡待ってますね!」


私の返事を確認すると、一葉さんは再び意味ありげな笑みを私に向けた。彼の瞳の奥で微かに光が揺れる。その光は私を未来へと誘う灯火の様でもあり、同時に何か隠された意図を秘めている様でもあった。


「では、失礼します。羽闇嬢。」


そう言い残して、彼は背を向けると庭園を静かに去っていった。その完璧な後ろ姿はあっという間に遠ざかっていく。


「…ふぅ、緊張したー!心臓に悪い事言ってくれるなあ。」


彼の姿が完全に視界から消えた後、私は大きく息を吐き出し、張り詰めていた肩の力を完全に抜いた。庭園の穏やかな風がようやく落ち着きを取り戻した私の頬を優しく撫でる。一葉さんの突然の登場とまさかのデートの申し込み。

あの落ち着き払った彼が私に直接そんな事を言ってくるなんて想像もしなかった展開だった。


「デートかあ……。」


ぽつりと呟き、私は空を見上げた。青い空には白い雲がゆっくりと流れていく。一葉さんの纏う独特の雰囲気、底の見えない瞳、そしてあの含みのある笑み…どれもが私をそっと試している様に感じられた。そして予想の斜め上をいく提案をして去っていったあの姿…。


「何か、意味があるのかな…?」


婚約者候補とのデートは、いわば月光家の定めた決めた掟の様なものだ。建前上は自由意志での選択とはいえ、実際は形式的な側面が強い。

これまでの候補者達は皆、その()()()を果たすべく真摯に、楽しげに私と向き合ってくれた。だが、一葉さんはこれまでこのデートという制度自体にあまり乗り気ではない様子だった。碓氷さんもそうだ。そんな彼が何故、今になって自らデートを申し出てきたのだろうか。

月姫としての私の力を試しているのか。それとも残りの候補者として、単に適当に役目を果たしにきただけなのか。もしかして、私の普段の行動を見かねて何か言いたげなのかもしれない。私は再び、一葉さんが消えていった砂利道をぼんやりと見つめた。一葉さんの姿は既に見えない。あの人には一体どんな秘密が隠されているんだろう。そして、私とのデートで彼は何をしようとしているのだろう?

期待とほんの少しの不安が入り混じった奇妙な高揚感が、私の胸の奥で静かに波打っていた。

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