第66話【騒動の終息?意外な一面①-壱月萱Side-】
月の姫様であらせられる羽闇様を、何度目になるか分からない溜息と共に自室へとお戻しした。
重厚な扉が静かに閉まる音を聞き届け、私は壁に背を預けた。全身からどっと力が抜け落ちていく感覚に襲われ、張り詰めていた糸がようやく緩んだ様だった。瞼を閉じ、深く息を吐く。頭の奥が鈍い痛みを訴えていた。
「(あの小娘め…無駄な労力を。)」
脳裏を過ったのは、執事としてはあるまじき…しかし偽りない本音だった。
先程まで対峙していた羽闇様の顔が、瞼の裏に焼き付いている。私の厳しく、理路整然とした説教を何処か遠い事の様に聞き流し、足の痺れを訴え、どうにかこの場を切り抜けようと必死に取り繕っていたあの様子。そして、最終的には反省したフリをしながら最後に私に向けた瞳。あの様子では全く反省などしていないだろう。
「……やれやれだ。」
もう一度、深い溜息を吐いた。
月光家に…そして羽闇様に仕える執事として、私は歴代の月姫達の資料にも目を通してきた。過去の姫様達は皆、それなりの覚悟を持ってこの立場を受け入れ、使命を果たしてきた。だが、私が守るべき現在の月姫様は…悪戯に興じ、『幽霊騒ぎ』を起こして使用人達を怯えさせ、厳しく叱責されても何処吹く風だ。心身共に休まる暇がない日々を送っているというのに、まさかその全ての元凶が…私が仕える命を懸けて守るべき羽闇様ご本人だったとは。
しかし、彼女の様子を眺めていて薄々は勘付いてはいた。
「(一体、どうすればあの方の『月姫様としての自覚』なるものが芽生えるのだ…!)」
重い体を壁から離し、姿勢を正す。執事服の皺を払い、乱れていないか確認する。執事たるもの、常にどんな時も疲労は外見に出してはならない。
夜はまだ長い。山積する執務を片付ける前に優先すべき事がある。屋敷中に広まった『幽霊騒ぎ』の鎮静化だ。使用人達の間で真剣に囁かれ、恐怖と不安を募らせていた奇妙な現象の正体を伝え、彼らを安心させなければならない。月姫様の品格に関わる為、言葉を選びながら最大限の配慮をもって伝える必要があった。
執務室を後にした私は磨き上げられた廊下を静かに進む。広大な屋敷の中に、私の足音だけが僅かに響く。壁に飾られた高価な絵画、磨き抜かれた調度品…全てが完璧に管理されているこの屋敷、この静寂が、羽闇様の悪戯によって僅かに揺らいだ事を肌で感じる。使用人たちの怯えた気配は、まだ完全に消えてはいない。
「あの、少し宜しいですか?小鳥遊さん。」
丁度、目の前を通り掛かったメイド―小鳥遊さんに声を掛けた。私の声に小鳥遊さんはびくりと肩を震わせ、慌てて振り返る。最近の使用人たちは皆、どこか怯えた様子で、足音さえ立てるのを恐れているかのようだった。彼女の瞳には、まだ『幽霊』への恐れが宿っている。
「あ、壱月様。私に何か御用でしょうか…?」
小鳥遊さんは不安げな表情で私を見つめる。
私は努めて落ち着いた、いつもの執事としての声音で話し始めた。
「ええ、実は皆様に少々お伝えしたい事が御座いまして。先日から屋敷内で発生しておりました不審な現象についてですが…原因は特定され、無事に解決致しました。どうぞご安心下さい。」
そこまで伝えると、小鳥遊さんは目を見開き、ほっとした様に胸を撫で下ろした。
「まあ、本当で御座いますか!それは良かったです…!皆さん、大変怖がっておりましたから…!」
その安堵の表情を見て、私は内心微かに息をつく。執事としての役目は、こうした屋敷内の平穏を保つ事にもある。
「ご迷惑をお掛け致しました。そして、原因についてなのですが…」
私は一瞬、言葉を選んだ。
羽闇様の悪戯。執事として、これをどう伝えるべきか。相手は使用人。
羽闇様の立場を傷つけず、慎重に真実を伝えなければ。
「誠に恐縮ながら、原因は…羽闇様の、その…些細な、悪戯によるものでして。」
そう告げると、小鳥遊さんは再び目を見開き、今度は驚愕に固まった。
「……え…?お、お嬢様が…ですか…?」
「……はい。」
私は頷いた。小鳥遊さんの反応は、信じられないといった様子だった。まさか自分達が幽霊だと怯えていた現象の元凶が、普段は落ち着いたご様子を見せる羽闇様だったとは想像もしていなかったのだろう。しかし私の真剣な表情を見て、それが真実であると悟った様だった。
「今後はこの様な事は御座いませんので、安心して職務に励んで頂くようにと他の皆様にもお伝え下さい。」
「は、はいっ!畏まりました。」
小鳥遊さんは深々と頭を下げた。
「ありがとう御座います、壱月様…!まさか『幽霊』の正体がお嬢様だったとは…何とも意外でしたね…。」
彼女は驚きと安堵の入り混じった表情で小走りにその場を離れていった。
「(やれやれ、まだ先は長いですね。)」
小鳥遊さんを見送った後、他の何人かの使用人にも同じように伝えながら廊下を進んでいく。
驚きはやがて安堵へと変わる。原因が『幽霊』という不確かなものではなく、身近な存在によるものだったという事実はある種の安心感を与えた。中には「お嬢様にその様な一面が…!?ふふ、何だか可愛らしいですね。」と、微笑ましいといった表情を見せる者もいた。
廊下の角を曲がったところで、向こうからゆっくりとした足取りで歩いてくる人物の姿が視界に入った。藤鷹華弦だ。
鮮やかな藤色の髪が、計算された優雅さで歩を進める度に僅かに揺れる。その整った顔立ちには、常に薄いヴェールを掛けた様な柔らかな笑みを浮かべている。先日の戦闘での怪我はもう殆ど癒えているのだろう。私に気付いた藤鷹様は、私を見るなりその笑みを一層深めた。その奥の瞳には何か面白い獲物を見つけた猟犬の様な光が宿っていた。
彼が羽闇様の婚約者候補の一人である以上、月光家の使用人として此処で無視するわけにもいかない。私は自然に足を止め、深々と頭を下げた。
「…藤鷹様。」
「やあ、萱君。お疲れ様♪」




