第58話【照れ隠しの行方】
医務室の白い天井が、単調な広がりを見せていた。
つい数時間前まで、部屋を満たしていた張り詰めた空気と月の姫たる私に課せられた『定め』という名の重すぎる現実。それらが嘘であったかの様にオレンジ色の柔らかな夕日が窓から差し込み、微かな消毒液の匂いだけが空間を漂っている。
隣のベッドからは、華弦の静かな気配が伝わってくるばかりだ。他の婚約者候補達は既にそれぞれの部屋へ戻っており、今は私と華弦の二人きりだった。
心臓の奥底にあの時突きつけられた『二十五歳』『女の子』『死』という、あまりにも冷たい言葉がこびりついて離れなかった。
私の存在が、誰かを危険に晒すかもしれないという不安が静かに胸を締め付ける。それは、重すぎる運命の鎖に雁字樅に縛られている様な息苦しい感覚だった。早く伴侶を選ばなければならない……それも、残された時間は少ない。そして選ぶ事は、その相手を危険な渦に巻き込む事と同義かもしれないのだ。そんな思考の淵に沈みそうになった、その時だった。
「ねーえ、羽闇ちゃん♪ 」
その沈黙を破ったのは、ベッドから身を起こした華弦だった。彼は私に視線を向け、いつもの飄々とした笑みを浮かべていた。その瞳の奥には何か面白がる様な悪戯っぽい光が宿っているのが見て取れる。
「な…何?華弦。お腹でも空いた?」
「違う違う。…そういえば、今思い出しちゃったんだけどさ〜?あの時、艶ちゃんに襲撃される直前...僕達、もう少しでキスしそうだったよね?」
彼の言葉を聞いた瞬間、ぶわっと顔に熱が集まるのを感じた。心臓が激しく脈打つ。脳裏にあの夜の庭園のライトに照らされていた光景が鮮やかに蘇る。ふっと微笑んだ華弦が私を見つめながらゆっくりと顔を近づけてきたあの瞬間の事だ。
「……え、えっと…何言ってるの、華弦…!そんな事あったっけ…!?」
声が上ずり、熱を持った頬を隠す様に私は思わず顔を背けた。どうにかこの話題を終わらせたいという一心で、必死に目線を泳がせる。
「ハハッ!そんなに照れなくてもいいのに〜♪羽闇ちゃんってば顔真っ赤だよ?ほら、耳まで!」
「て、照れてないしっ!赤くもない!」
私の慌てた抵抗を見て、華弦は更に面白そうに笑った。彼の笑い声が張り詰めていた私の心を微かに解きほぐすようでもあり、同時に私の恥ずかしさを増幅させる。容赦ない指摘に、私の顔は一層熱くなる。耳まで赤くなっているのが自分でも分かった。この人は、どうしてこうも人の心の弱いところを突くのが好きなのだろう。
「でも、とぼけたって駄目だよ?あの時、羽闇ちゃんも何だかドキドキしてくれてるのが僕にもちゃんと伝わってきた気がしたんだから♪」
「だ、だから、違うってば!」
更に追及されて、私はもうどうしていいか分からなくなる。声が僅かに焦りが混じった。その反応に華弦は更に畳み掛け、今度は私の心臓を直接掴む様な言葉を放った。
「それにさ、これだけじゃないんだよねぇ♪僕が毒でフラフラになって、邸まで運ばれてた時…『ずっとそばにいるから…!』って言ってくれたのも覚えてるよ? 羽闇ちゃん、凄く必死な声だったよねぇ?」
あの夜のどうしようもない恐怖と、只々彼に生きていてほしいと願った切実な思いが蘇る。口から出まかせではなかった。心からの願いだったのだ。彼が、それを私の必死な声で言ったというところまで覚えているなんて。華弦は更に追い討ちを仕掛けてくる。
「…これは確か、萱君も聞いてたみたいだけど♪」
「っ…!!」
完全に思考が停止した。恥ずかしさとか焦りとか、色々な感情がごちゃ混ぜになって言葉が喉につかえてしまう。
「ち、違うわよ…!そんな…別に、深い意味じゃなくて……!か、華弦が、危なかったから…!」
必死で否定しようとするけれど混乱してしまい、声が震えてしまう。そして、顔を手で覆いたくなる衝動に駆られた。華弦はそんな私の様子を見て、笑みを深める。
「ふふっ♪何その可愛い反応〜!言葉が全然纏まってないよ?」
「ゔっ…!え、と…!」
私の混乱を見て楽しんでいるのが、ありありと伝わってくる。
「でもさ、『ずっとそばにいるから』なんて必死な声で言っちゃう位、僕の事心配してくれてたんだよね?それってさ…やっぱり特別な気持ちが芽生えたって事なんじゃないの〜!?」
華弦の言葉に私はもう反論する気力もなくなってきた。確かに特別な気持ちと言われれば、そうなのかもしれない。命を懸けて守ってくれた華弦に対して、何も感じないわけがないのだから。
「…もう……分かったわよ…。」
私は観念して、深い溜め息を一つ吐いた。そして、俯いたまま小さな声で呟いた。きっと、顔は文字通り茹で蛸みたいになっているに違いない。
「……言ったわよ、言いました!だって、華弦が心配だったんだから仕方ないじゃない…!」
少しだけ、語尾に拗ねた様な響きが混ざってしまっていた。これは多分、これ以上からかわないでほしいという願いを込めた最後の抵抗だ。
「アハハッ!やっぱり認めちゃった〜!『心配だったんだから仕方ないじゃない』ってその言い方!超可愛いんだけど♪」
不承不承の返事に華弦は私を指差し、声を上げて楽しそうに笑った。屈託のない、でも少し意地の悪い笑い声が医務室に響く。
「うんうん、良いよ良いよ。素直に認めてくれて嬉しいなぁ。これで、羽闇ちゃんの未来の旦那様は僕で決まりかな!こんなに僕の事ばっかり考えてくれて、心配してくれて、そばにいたいって思ってくれてるんだもん♪もう両想い決定ー!」
彼の言葉は私の心をくすぐるようでもあり、私の心臓を早鐘のように打たせる。彼の言う『両想い』とは少し違う気もするが、命を懸けて守ってくれた華弦に対して特別な感情がないわけではない。
「だから!」
私は顔を上げ、華弦をまっすぐ見た。顔はまだ熱いけれど、此処でちゃんと言っておかないといけないだろう。
「決めてないってば!華弦が大変だったから心配した、それは本当よ。でも、それと伴侶を決める事は全く別!」
私の声には先程までの照れや動揺とは違う、少しだけ真剣な響きが混じっていた。これは私の未来を決める事…簡単には決められない。それに、あの定めを思い出した今、誰かを選ぶという事はその人をどれだけ危険に晒す事になるのだろうか。
「私はまだ誰を選ぶか決めてないんだから!勝手に決めつけないでよね!」
私の真剣な否定に華弦はわざとらしく拗ねてみせた。そして、ベッドの上で大袈裟に頬を膨らませる。
「えー? ひどーい!あんなに看病してくれてたのに〜!?僕、拗ねちゃったもんね!プンプン!」
「…華弦、最近少し鳳鞠君に似てきてない…?」
その様子は怪我をしている事を忘れてしまう程に元気そうでおかしくて、でもまだ私の心臓は高鳴っていた。華弦は私と話す時は本当に楽しそうだ。こんな風にほんの一瞬でも彼と他愛ないやり取りができる時間が、定めの重圧や外の脅威から私をほんの少しだけ解放してくれる気がした。
第58話お読み頂きありがとう御座います!
今回は、華弦が羽闇をとことんからかう回でした!
重苦しい現実から、ほんの少し羽闇を解放してくれた華弦の存在。彼のちょっぴり意地悪な一面と羽闇の可愛らしい反応を楽しんで頂けたら嬉しいです。
次回もお楽しみに!