第51話【安堵の朝と二人の絆】
重苦しかった夜がようやく明け、月光邸の医務室には柔らかな朝の光が差し込んでいた。
清浄な白い壁に飾られた花瓶には朝一番で活けられたのだろう。色とりどりの花々が咲き誇り、その優しい香りが室内にふわりと漂う。私はその花々をそっと指先で撫でながら、ベッドに横たわる華弦を見つめていた。昨夜のあの激しい戦闘と絶望的な状況が嘘だったかの様に今は只、静寂が辺りを包んでいる。
聞こえるのは彼の浅く、時折詰まる様な寝息だけ。それが彼が確かに此処にいる事…まだ生きている事を静かに私に告げていた。白いシーツに横たわる彼の顔はまだ青白いけれど、痛みに歪む昨夜の表情よりはずっと穏やかだ。
ふと、華弦の長い睫毛が微かに震えた。私の視線はそこに釘付けになる。心臓がドクリと跳ね上がり、私は息を潜めて彼の顔を凝視した。そして、ゆっくりと華弦の深紅色の瞳がうっすらと開かれた。戸惑いを宿したその瞳は、すぐにぼんやりと室内の天井や壁を見回す。
「……ん…此処は…?」
息が漏れる様な掠れた声が華弦の唇から零れた。まだ意識が朦朧としており、自分が何処にいるのか、何が起こったのか分かっていない様子の彼の姿に、私の目に堪えていた涙腺が崩壊した。
視界がみるみるうちに滲んでいく。堪えきれずに溢れ出した温かい雫が止めどなく頬を伝い落ちる中、私はもう何も考えられず、衝動的にベッドの傍まで駆け寄ると華弦の体にそっと縋り付いた。
「華弦…!華弦……っ!」
震える声で何度も彼の名前を呼ぶ。薄い病衣越しに伝わる確かな温もりが、彼が生きている証だと肌で感じられた。その温もりに張り詰めていた全身の力がふっと抜け、堪えきれぬ安堵が私を満たしていく。突然の私の行動と泣きじゃくる様子に華弦は驚いた表情を浮かべながら私をじっと見つめた。
まだ完全に力が戻っていない様だったが、彼は戸惑いながらも空いている方の手で私の頭にそっと触れる。そして、大きな手が優しく私の頭を撫でてくれた。
「……羽闇ちゃん…?どうしたのさ、そんなに泣いちゃって……?もしかして…僕、何かやっちゃった?」
昨日の戦いの激しさを物語る掠れた声。それでも、その口調にはいつもの飄々とした様子の中には確かな温情が滲んでいた。心配そうな瞳が涙で濡れた私の頬を見つめている。
「……だって…だってぇ…!てっきり、死んじゃうかと思ったんだもん…!華弦が…っ、あんなに苦しそうで…っ!」
言葉に詰まりながら私は華弦の胸に顔を埋めた。
彼の甘くて落ち着いた匂いが、混乱し動揺していた私の心を少しずつ鎮めていく。
「…あー…成る程。随分心配掛けたみたいだね。」
華弦はそう言って、もう一度優しく私の頭を撫でた。
彼の声には昨夜の出来事を無事に乗り越え、こうして私が隣にいる事への微かな安堵感が宿っている様に聞こえた。
暫くそうして華弦の温もりを感じていると私の涙もようやく落ち着き、袖で目元をそっと拭った。華弦の無事を確認し、少し冷静になったところで大切な事を思い出す。
「…あっ、そうだ!華弦が目を覚ましたって壱月にちゃんと伝えに行かなきゃだ。他の皆もきっと心配してるだろうから。」
そう思った私は、華弦から少しだけ離れようとベッドから立ち上がろうとした。だが、その腕を伸ばしかけた瞬間、華弦のほんの僅かな力が私の腕をそっと捉えた。力なく、辛うじて掴んでいるといった様子だったけれど、その手が私を引き止めている事は確かだった。
「華弦…?どうしたの?」
ベッドに横たわったままの華弦が潤んだ瞳で私を見上げている。弱々しいけれど、彼のいつもの声とは違う、少し低い声が私の耳に届いた。
「……まだ、行かないでよ…。」
その瞳に宿る懇願に、私の心は強く震えた。
「……もう少しだけでいいから、こうして君と二人きりでいたいな…。」
彼の言葉はまだ怪我の影響が残る掠れた声で、何処か遠くで響いているみたいだった。無理をしているのは分かっている。でも、彼の青白い顔と弱々しくも確かに私の手を握る華弦の手にどうしようもない温かさが胸に満ちた。
思わずクスッと笑みが溢れると私は再び椅子に腰を下ろした。そして掴まれたままだった華弦の手を優しく握り返し、彼の髪をそっと撫でた。
「…華弦ってば…しょうがないなぁ。少しだけだからね。」
「ん、ありがと…。」
私の声には先程までの動揺はもう無かった。只、目の前にいる大切な人が無事でいてくれた事への感謝と彼のささやかな願いを叶えてあげたいという
思いだけが胸に残った。朝日は窓いっぱいに広がり、私達二人をその温かい光が優しく包み込んでいた。
暫くの間、言葉もなく、手を握り合いながらお互いの存在を感じていた。この静かな時間が昨夜の激しい出来事との対比で、より一層尊く感じられる。そして、私は改めて胸に込み上げてくる感謝の気持ちを伝えるべきだと思った。
「あのね、華弦。その…昨日は、ありがとう。」
真剣な声で私は彼の瞳を見つめた。
「華弦が、私を命懸けで守ってくれて…。あんなに危ない目に遭ったのに、最後まで私の事だけを考えてくれて…。華弦のおかげで私は助かったんだよ。」
言葉にすると昨夜の華弦の姿が鮮明に蘇る。
毒を受け、苦しみながらも私を守るために戦い続けた彼の姿。その強さ、そして何よりも優しさが私の心に強く迫った。
私の感謝の言葉に華弦は微かに顔を歪めながらもふわりと微笑んだ。その微笑みはまだ力なく、切なさを含んでいる様に見えた。
「ふふ…良いんだよ、羽闇ちゃん。当然の事をしただけさ。」
華弦のまだ掠れた声が、部屋に響いた。
「僕にとって、羽闇ちゃんは最愛の女の子なんだから。そういう存在を守るってのは男の子として当然だろ?それに、羽闇ちゃんが無事で良かったよ。君のその元気な姿を見れただけで僕は嬉しい。」
「っ…!」
『最愛の女の子』という言葉が私の胸にじんわりと染み渡る。心臓がドクンと大きく跳ね上がり、私の顔はみるみるうちに熱くなるのを感じた。
こんな状況なのに、華弦は惜しげもなく私への大切な気持ちを言葉にしてくれる。それが堪らなく嬉しくて、少し恥ずかしかった。
そんな私の反応を見て、華弦は病み上がりだというのに何処か楽しそうな表情を見せた。顔色はまだ青白いが、その瞳にはいつもの悪戯っぽい光が宿っている。
「…あれ~? もしかして照れちゃったのかい? かーわいい♪」
彼の少し息を切らしながらも紡がれるその言葉に、私の頬の熱は更に増した。
「も、もう…!からかわないでよ!」
「ふふっ、ごめんごめん。」
私は思わず、抗議する様に華弦をキッと睨む。
つい、少し拗ねた声が出てしまった。でも、病み上がりの彼がいつもの調子でからかってくれた事が、何よりの安心だった。
少しの軽口を叩き合った後、華弦は真剣そうな表情を浮かべる。私の頬の赤みがまだ引かないのを見ながら、彼は心配そうに問い掛けてきた。
「…それで?羽闇ちゃんは怪我とか無かった? 艶ちゃんとの戦闘中、僕ってば結構夢中になっちゃって羽闇ちゃんの事までちゃんと見れてなかったんだよね。もし何かあったらちゃんと教えてね。」
「えーっと…実はね、ちょっとだけ。華弦の所に駆け寄ろうとしてハイヒールを脱いで裸足のまま走った時に、足の裏を少し切っちゃったみたいなんだよね。」
私は華弦の問い掛けに一瞬躊躇したが、昨夜の出来事を正直に話すことにした。
「でもね、月光邸に戻ってから壱月がすぐに手当してくれたからもう大丈夫だよ!全然痛くないし、問題ないの。」
その言葉を聞いた華弦は一瞬目を丸くしたが、すぐに彼の顔には嬉しさと、そして困った様な複雑な表情が浮かんだ。
「そっか…羽闇ちゃんが、僕を助けようとして。それはそれで…とっても嬉しいな。」
彼の声には私の行動への純粋な喜びが込められていた。しかし、その喜びはすぐに心配へと色を変えた。
「でもさ…女の子なんだから怪我はいけないかな? 特に羽闇ちゃんは。大切な身体なんだから、ちゃんと守らなきゃ。」
弱々しいながらも、その声には私を案じる確かな思いが籠もっていた。
「次に何か危ない事があったら、無茶はしちゃいけないよ? その時は、僕がちゃんと羽闇ちゃんの足元までエスコートしてあげるからさ。」
それはまるで子供に言い聞かせている、優しくも少し釘を刺す様な口調だった。華弦の声には、私が彼の為に無茶をした事への喜びと私の身を案じる気持ちが同じだけ含まれていた。
「…うん、分かった。ありがとう、華弦。」
私は素直に頷くと、彼の手をもう少しだけ強く握り返した。医務室を満たす朝の光の中で、私達の間には確かな絆とお互いを大切に思う温かい気持ちが静かに広がっていた。
第51話読んで頂きありがとう御座います!
無事に華弦が目を覚ましてくれました!
意識が朦朧としながらも羽闇ちゃんを『最愛の女の子』と呼んだり、からかったりする余裕を見せる部分に注目して頂けたら嬉しいです。二人の『絆』がより一層深まるエピソードになったかと思います。
次回もお楽しみに!