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第42話【仮面の下の貌-昏冥宮埜唖Side-】

フルール・ド・リュンヌの重厚な扉が背後で静かに閉まると、先程までの甘美な雰囲気は遠い異次元の出来事に感じられた。オレンジ色の街灯が照らす夜の静寂の中、先程まで顔に貼り付けていた穏やかな表情は緩慢な崩壊を迎えた砂の城の様に跡形もなく消え去る。今のこの顔には、微細な感情の動きさえ見られない。代わりに現れたのは、深淵を覗き込む冷酷さと鋭い眼光だけだった。

隣を歩く妖蝶姫もまた、その空気に呼応する様に纏っていた柔らかなヴェールを静かに脱ぎ捨て始める。光沢のある卯の花色の長い髪が夜風に妖しくたなびく。それは、先程までのおしとやかさとは裏腹に彼女の内に秘めた奔放さを物語っていた。憂いを帯びた瞳の奥に退屈そうな冷たい光が宿ると、美しい顔立ちは無垢な少女から蠱惑的な妖女へと変貌していった。


「フッ…随分と殊勝な面構えだったではないか、妖蝶姫。あれ程見事に猫を被るとは感心する。」


先に低い声で口を開いたのは私だった。レストランにいた時では決して表に出す事のなかった、地の底から響くような重い声。それは、私の本質を垣間見せるものだった。その言葉には妹への労いというよりも、彼女の演技に対する僅かな嘲弄と計画の成功に対する満足感が入り混じっていた。


「あら、お兄様こそ。あんな間の抜けた女の前では誰だって多少なりとも取り繕うものでしょう?それに、あの様な能天気な姿を見ているとつい面白がって構いたくなったのよ。」


妖蝶姫の声もまた、先程の甘美な響きを潜め、耳の奥に纏わりつく様な妖艶な低音へと変わった。彼女の細い指先は、夜風に冷えた自身の腕を撫でながら嘲る様な笑みを浮かべている。


「月光羽闇…月の姫とは随分と安っぽい名を頂戴しているものね。あんなにも凡庸な女が本当に月の力を宿しているなんて、到底信じられないわ。」


妖蝶姫はわざとらしく肩をすくめ、退屈そうに夜空を見上げる。その言葉には月の姫という特別な存在に対する畏敬の念は全くなく、むしろその肩書きを持つ羽闇本人への侮蔑と彼女が選ばれし者である事への強い疑問が隠そうもなく表れていた。


「フフ…そう言うな、我が妹よ。その凡庸な女が、私の花嫁となるのだぞ?そして、長年追い求めてきた月の力を手に入れる為の最も重要で不可欠な駒だ。」


妖蝶姫の嘲弄など、私の決意を揺るがすには至らない。私の声には確固たる自信が滲んでいる。レストランでのあの穏やかで友好的な態度は、全てはこの瞬間の為の入念な準備に過ぎなかった。美しい花には毒がある。警戒心の薄い獲物を油断させ、手に入れる為の巧妙で計算された策略だった。偶然を装った出会い、親しげな会話…そして妖蝶姫が浮かべていた別れを惜しむ笑顔。それら全てが、羽闇を私の掌の上で踊らせる完璧なシナリオの一部だったのだ。

愚かな獲物を嘲笑う様な冷たい光が、静かに私の瞳の奥で揺らめいた。愚かにも、あの女は私の作り上げた仮面を微塵も疑わなかった。警戒心の欠片もない、美しさと月の力だけが取り柄の操り人形。だが、それも良い。手に入れるまでの過程を楽しませてくれる、取るに足りない障害だと思えば良い。


「それにしても、あのハンカチ…中々効果的だったみたいね。」


妖蝶姫が退屈そうに呟いた。彼女の視線は、既に通り過ぎたレストランの方向をぼんやりと捉えている。


「ああ。あれは私の存在を彼女の意識の片隅に植え付ける為のささやかな種だ。彼女の目にだけ見える様に細工を施しておいた。」


以前から写真でしか見た事のなかった月光羽闇。しかし、ロビーで一瞬だけ垣間見た彼女は想像以上に魅力的だった。警戒心のない柔らかな笑顔。月の光を思わせる瞳は無垢で吸い込まれそうだ。そんな彼女だからこそ、容易く掌の上で転がせるだろう。そう確信すると同時に歪んだ愛情が湧き上がってきた。


「ふん、あんな子供騙しの小細工も見抜けないなんて本当に救いようがないわね。能天気な顔で見知らぬ男と楽しそうに笑い合って…想像するだけで反吐が出そうだわ。」


妖蝶姫の声には、隠しきれない嘲弄と彼女自身も認めたくない様な微かな苛立ちが滲んでいる。彼女にとって、羽闇の存在そのものが耐え難い程不快なのだろう。それは、兄の関心を奪う存在への複雑な感情の表れなのかもしれない。


「藤鷹華弦か。今頃、愚かな月の姫はあの男と二人きりで甘い言葉を囁き合っているのだろうな。」


想像すると、胸の奥が黒く染まっていく感覚に襲われる。他の男の隣でどんな表情をしているのだろうか。どんな言葉を交わしているのだろうか。想像するだけで抑え込んできた理性が悲鳴を上げる様だった。


「あの男もいずれは排除する。だが、今はまだ泳がせておく必要がある。警戒心の薄い獲物を油断させ、より深く罠に誘い込む為の格好の餌だ。」


私の手の内にある情報網は、既に羽闇の生活圏内に入り込み、彼女の身辺を隈なく捉えている。

月光邸に送り込んでいる()()()()からの報告は、些細な事まで逐一私の元に届けられている。彼女の日常、親しい友人関係、そして今夜のディナーの相手と場所。全ては、私が描いた計画通りに寸分の狂いもなく進行している。


「全く…お兄様はあんな女の何処にそんなに惹かれるのかしら。顔だって、私と比べれば別にどうという事もない。月姫なんて只の肩書きでしょう?もっと他に相応しい女性は幾らでもいるのに。」


兄である私が、何故その様な取るに足りない女に執着するのか妖蝶姫には到底理解出来ないのだろう。

彼女の言葉には、純粋な疑問と私の歪んだ嗜好に対する隠しきれない嫌悪感が滲んでいる。


「お前には分からないさ、妖蝶姫。あの愚かさこそが私を狂わせるのだ。無防備な笑顔、疑う事を知らない瞳…全てを手に入れたいと思わせる。そして手に入れた時、彼女は私のものになる…永遠に。」


私の声は夜の静寂に溶け込むように低く、甘美だった。それは理性的な思考を手放し、本能的な欲望に身を委ねる獣の咆哮に近い。その言葉には、狂おしい程の執着と決して誰にも渡さないという狂的な決意が込められていた。


「フッ…相変わらず趣味が悪いわね、お兄様。でも、まさか本気であの女を愛するつもりじゃないでしょうね?」


妖蝶姫は信じられないものを見る様な目で私を見つめた。その瞳には嘲弄の色だけでなく、僅かながら心配の色も混じっている。


「まさか。あの女は月の力を手に入れる為の、最も確実な道具だ。それ以上でもそれ以下でもない。」


嘘だ。確かに月の力は手に入れたい。それが本来の目的だったはずだ。しかし、心の奥底では月の力などどうでもいいと思っている自分がいる。只、あの愚かでどこか愛おしい月の姫をこの手で抱きしめたい。誰にも触れさせたくない。彼女を独占したいという歪んだ感情が、私の理性という鎖を今にも引き千切ろうとしていた。今頃、彼女は私以外の男と穏やかで幸せな夢を見ているはずだ。だが、それももうすぐ終わる。

夜空に浮かぶ冷たい光を放つ満月を見上げる。それは、これから始まる狂おしい愛と支配の物語を静かに残酷に暗示している。その光はまるで私の心の奥底に潜む、歪んだ欲望を照らし出すかの様に妖しく不気味に輝いていた。

第42話をお読み頂き、ありがとう御座います。

今回は、羽闇を狙う敵・昏冥宮埜唖の視点でお送りしました。

穏やかな時間の裏に隠された、彼の狂気じみた計画と執着。妹の妖蝶姫もまた、その本性を現しました。うーん、妖蝶姫は自分で描いていて特に怖かったです(笑)

今後、この兄妹がどう物語を動かすのか?是非ご期待下さい。

次回もお楽しみに!

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