第38話【譲れない領域】
「あれ? 返事がないのはもしかして、僕の言った事を忘れちゃったとか…そんな間抜けなわけないよねぇ。萱君?」
華弦の甘く、しかし何処か底冷えする様な声が私の広々とした自室にゆるやかに響いた。隠しきれない挑発とほんの僅かな苛立ちが混じっているその言葉は、壱月の耳にも明確に届いたらしく、彼の動きをぴたりと封じた。表情は見えないけれど、壱月の静止した姿からは平静を装いながらも、内心で何かが渦巻いている気配が感じられた。そして、私達に背を向けたままだった壱月は微かな衣擦れの音さえ立てずにゆっくりと振り返り、部屋の中央に立つ華弦へと静かに向き直った。
「…お言葉ですが、藤鷹様。羽闇様のお肌の露出は少々過多かと存じます。お風邪など召されては月光家にとって一大事に御座いますので、せめて薄手の上着一枚でも羽織らせて差し上げるのは如何でしょうか。」
室内の静けさを破る事もなく、壱月の声は静かに、しかし明確に響いた。その丁寧な言葉遣いには、相手への一定の敬意が払われているものの決して畏怖や追従の色は感じられない。その言葉を受けた華弦は愉快そうに片方の口角を上げ、挑戦的な目を壱月に向けた。
「ほほう?流石は優秀な執事様だねぇ。でもさ…その言い草だと、まるで僕が羽闇ちゃんに酷い仕打ちでもしているみたいじゃないか。そんなに信用がないのかなぁ、僕って?」
華弦の声はあくまでも明るく、笑顔も貼り付いたままだが言葉の端々には皮肉な響きが込められている。その声音の裏には、壱月の忠告に対する僅かな苛立ちとそれを面白がる様な余裕が共存している。彼は、壱月のする事為す事を内心では当てつけだと感じているのだろう。
「決してその様な意図は御座いません。私と致しましては、万全の備えを―」
言葉を続ける壱月に華弦はそれを遮るように、わざとらしく大げさに溜め息をついた。
「君は本当に空気が読めないねぇ。大体あそこは暖かい室内なんだから寒さなんて微塵も感じないさ。この際はっきり言わせて貰うけど、羽闇ちゃんを今回プロデュースするのは僕の役目だ。これ以上、僕等の邪魔をしないでよ。」
華弦の突き放した言葉は、一方的で有無を言わせない強さがあった。それは単に私のプロデュースに関する主導権を主張しているだけでなく、明確な線引きで壱月を自分の領域から排除しようとする排他的な響き。その言葉の端々には、壱月に対する明確な敵意が感じられたのだ。
「…出過ぎた真似をしてしまい申し訳御座いませんでした。以後、慎みます。」
壱月の謝罪は、まるで刃物で心を抉られる様な痛々しさがあった。彼はこみ上げてくる様々な感情を押し殺し、ゆっくりと深く頭を下げた。その端正な顔には堪えきれない程の苦渋の色が浮かんでおり、彼の握りしめられた拳は微かに震えている。普段あれ程までに完璧な彼がここまで卑屈にならざるを得ない状況とは一体何なのだろうか。壱月の痛ましそうな様子が私の胸を締め付ける。
そして、何よりも私の心を深く揺さぶったのはその後の華弦の行動だった。
「…よしよし、いい子だね♪分かれば宜しい。」
勝ち誇った底意地の悪い笑みを浮かべた華弦は、ゆっくりと壱月に近づき、何かを所有するかの様に壱月の頭を撫でた。その指先には温かさも労りの気持ちも微塵も感じられない。只、相手を自分の支配下に置いている事を誇示する冷たい感触だけが見て取れた。
その冷酷な眼差しを壱月からゆっくりと離すと、信じられない程に慈愛に満ちた甘い眼差しへと変わり、華弦は私へと顔を向けた。
「さ、愛しい羽闇ちゃん。素敵な装飾品も用意してあるんだ♪すぐに持ってきて貰うからそこの椅子に掛けて僕のそばで待っていようね♪」
華弦はそう言うと、部屋の隅に置かれた椅子を指し示した。私は彼の甘い誘いに抗う術もなく促されるままにその椅子へと歩を進め、そっと腰を下ろした。
暫くすると部屋の扉にノックが響き、開かれた扉の向こうから数人の使用人が数々の華やかな装飾品を運んで来た。
「失礼致します。藤鷹様、例のお品物をお持ち致しました。」
「ん、ありがと♪そこに並べてくれる?」
「畏まりました。」
華弦の指示により、使用人の一人がその装飾品を丁寧に目の前のテーブルの上に並べ出す。
「羽闇お嬢様、此方は藤鷹様がご用意された装飾品で御座います。」
「わぁ…!綺麗…!これ、本当に華弦が?」
テーブルの上には、ローズピンクのドレスによく映える繊細なシルバーのネックレスと雫型のルビーが揺れるイヤリング、そして小さなピンク色の薔薇のモチーフがあしらわれた髪飾りが並べられている。どれもこれも溜め息が出る程美しい。
「勿論♪せっかくこんなに素敵なドレスを着るんだから、装飾品も全て完璧にしなくちゃね!」
華弦はそう言って、丁寧にネックレスを私の首に掛け、イヤリングを耳につけてくれた。鏡に映る自分は、華弦の用意してくれたドレスとキラキラと輝くアクセサリーのおかげで何だかとても華やかに見える。
「羽闇ちゃんは本当に何をつけても似合うね♪髪飾りをつけるのは、彼女がやって来るまであともう少しだけ待っててくれるかな?」
「彼女?」
華弦の口から出た意味深な言葉に、私は思わず首を傾げる。 彼女とは一体誰の事だろう?この屋敷の住人だろうか。私の様子を見て、華弦は意味深な微笑みを浮かべた。
「失礼致します!」
その時、部屋に元気な声が響いた。声の主は、見慣れた可愛らしいメイド服を着た女の子だった。
「あれ、ダリア?」
彼女は月光邸で働くメイドの一人・花菱 ダリア。屋敷に来て間もない頃、右も左も分からなかった私に親切に話し掛けてくれたのがこのダリアだった。腰まで伸びた蜂蜜色の髪は三つ編みで後ろに一纏めにしており、ぱっちりとした桃色の瞳をキラキラと輝かせている。小柄な体格で、いつも明るく活発な彼女の姿を見るだけでまだ緊張する事の多いこの屋敷の中でほんの少し心が和むのを感じる。
「お待たせ致しました、羽闇お嬢様!藤鷹様から、本日お嬢様のお化粧と髪のお役目を仰せつかっております。精一杯、お嬢様の美しさを引き出すお手伝いをさせて頂きますので、どうぞ私にお任せ下さいませっ!」
ダリアはそう言いながら、私の周りをくるくると回り始める。その明るい笑顔はまるで太陽の様で、部屋の雰囲気を一気に明るくした。
第38話お読み頂きありがとう御座います!
華弦と壱月の対立、如何でしたでしょうか?そして新たなキャラクター・ダリアの明るい登場で、物語に新たな展開がありましたね。
次回もお楽しみに!