第33話【深淵の覗き合い -壱月萱side-】
※このエピソードには、性的なニュアンスを含むと捉えられる可能性のある描写が含まれています(R15程度)。
直接的な性的描写は御座いませんが、苦手な方はご注意下さい。
藤鷹様の後に続き、廊下を進む。靴音が静かに響き、緊張感を際立たせる。行き着いたのは、彼の自室。
「さ、入って♪」
「…失礼致します。」
いつものように礼儀正しく頭を下げ、促されるまま私は静かに足を踏み入れた。心臓は平静を装いつつも微かに高鳴っている。部屋に入ると扉が閉まり、鍵が掛けられた。藤鷹様の鋭い視線が私を射抜く。藤鷹様と二人きり。閉ざされた空間。これから始まるであろう会話の内容を、私は冷静に予測しようとしていた。
「(…彼の意図は何か。あるいは何を把握しているのか。)」
藤鷹様の言葉は、常に罠が潜んでいる。まずは彼の真意を探らなければ。動揺を悟られれば終わりだ。
「(…あらゆる話題に対応できるよう、心の準備を。)」
私は感情を押し殺し、執事としての仮面を完璧に被る。そして藤鷹様の言葉を一言一句聞き漏らさぬよう、意識を集中させた。
「…さて、萱君。まずは君と羽闇ちゃんの関係について聞きたいんだけど。」
藤鷹様の問い掛けは予想していたよりも早く、そして直接的だった。だが、この話題が出る事は想定内の一部でもある。
「(…だが、どちらの事を言っている?羽闇様への個人的な感情か、それとも…)」
私の胸には、二つの可能性が浮かび上がっていた。一つは『羽闇様に関する個人的な感情』について。そしてもう一つは、『羽闇様に関する私が抱えている秘密』について。
「(…どちらにせよ、油断は禁物。)」
私は平静を装い、努めて穏やかに答える。
「…私は羽闇様の従者です。主の安全を守り、おそばでお仕えする事が私の務めで御座います。」
淀みのない、完璧な答え。しかし、内心では藤鷹様の次の言葉を待ち構えていた。藤鷹様の目が私の心の奥底を探る。その視線は私を射抜く様だ。
「ふぅん、相変わらずの優等生な答えだね♪でも、本当にそれだけかい?君が羽闇ちゃんの事を只の主として見ているとは到底思えないんだけどな。」
藤鷹様の洞察力に、私は言葉を失った。
「例えば…今日の入浴介助。あれは、只の務めとして行った事なのかい?」
やはり、この話が来たか。先程から藤鷹様はこの件について様々な角度から問い質してくる。
これは単なる確認ではない、彼は明らかに何かを探ろうとしている。そして、パズルのピースを埋める様に私の言葉を吟味している。
「…はい。」
そう答えるのが精一杯だった。声が普段よりも低く、硬くなってしまったのが自分でも分かった。
「…本当に?羽闇ちゃんの無防備な姿を見て、何も思わなかったわけ?例えば…普段は隠されている部分とか、間近で見てドキドキしたり色々想像しちゃったりしたんじゃないの?」
「…。」
藤鷹様の言葉に心臓が激しく脈打つ。確かに、羽闇様は心だけでなくお身体も美しかった。
普段は従者として感情を表に出さない様に努めているが、あの時ばかりは心の奥底に封じ込めていた感情が溢れ出しそうになった。私は何も答えず、静かに藤鷹様を見つめ返した。
「君が羽闇ちゃんを大切に思っているのは、よく分かっているつもりさ。でも、その気持ちが只の忠誠心なのか、それとも…」
藤鷹様はそこで言葉を区切り、意味ありげな笑みを浮かべた。
「…それとも、何でしょうか?」
私はそう問い返したが、その声は普段の冷静さとは異なり、僅かに震えていた。冷や汗が背中を伝い、心臓が早鐘の様に打ち始める。
「(…何を言おうとしているのか。藤鷹様は一体、どこまで…?)」
藤鷹様の言葉は、私の心の奥底に潜む感情を抉り出そうとしている。
「…それは、君自身が一番よく分かっているんじゃないかな。…ねえ、萱君?」
藤鷹様はそう言うと私の肩に手を置いた。その指先は蛇の様に私の肌を這い、ゾクリと鳥肌が立つ。彼の視線が獲物を品定めする様に全身を舐め回す。その瞬間、私の意識は急速に覚醒した。
「(…まずい、このままでは全てを悟られてしまう。…此処でこの男を始末するしか…!)」
私は藤鷹様が次の言葉を紡ぐよりも早く懐に手を伸ばしかけたが、その動きは寸前で止めた。
「…なーんて、冗談さ。そんなに警戒しないでよ♪」
藤鷹様の声はいつもの様に穏やかで、余裕に満ちていた。しかし、その言葉とは裏腹に彼の瞳の奥には鋭い光が宿っている。
藤鷹様の言葉に一瞬でも気を取られた自分を呪った。この男は常に人の心を弄び、相手の隙を突く。そんな男に一瞬でも隙を見せた事が、何よりも悔しかった。
「…私は只、羽闇様にお仕えする。その為ならば手段を選ばざるを得ません…例え、彼女の婚約者候補様であろうと。」
私は懐から手を離し、低い声で警告した。すると、藤鷹様の瞳が僅かに細められる。
「…分かった。分かったから、そんなに殺気立たないでよ。萱君♪」
藤鷹様の言葉に私は何も答えなかった。しかし、私の心には拭い去れない不安が残っていた。
「…申し訳御座いません、先程は少々感情的になっておりました。ご無礼をお許し下さい。」
私は静かに頭を下げ、藤鷹様に謝罪した。
「…気にしないで。それに、もう何も聞かないよ。今のところはね。」
藤鷹様はそう言いながら、椅子に深く腰掛けた。
だが、私は藤鷹様の言葉の真意を測りかねていた。彼の言動や行動には常に裏があり、決して額面通りに受け取る事は出来ない。
「…だけど、これだけは忘れないで欲しいんだけど。僕は常に羽闇ちゃんの味方だ。そして、羽闇ちゃんを傷つける者は決して許さない。」
藤鷹様の瞳はこれまで見た事のない程深く、暗く輝いていた。そして、その彼の言葉に体が硬直してしまう。
「…承知致しました。羽闇様の安寧は、私も常々願っております。」
私はそう呟き、藤鷹様の視線から逃れる為にゆっくりと頭を下げた。表面上は平静を装ったままだが、内側では心の重石が増し、全身から力が抜け落ちぐったりと肩を落としていた。
「…そっか、ならいいんだ。時間をとらせて悪かったね。さーて、羽闇ちゃんが待ってるしそろそろ戻るとしようか♪」
藤鷹様はそう言いながら椅子から立ち上がると、ゆったりとした仕草で背を向けた。
「…承知致しました。」
私は静かに立ち尽くしたまま、藤鷹様の後に続いた。その間も、私の意識は藤鷹様の背中から一瞬たりとも離れる事はなかった。
「(羽闇様…。)」
私はその名を心の中で呟き、拳を握りしめた。指先が掌に食い込み、爪が肉を裂く感触が辛うじて私を現実に繋ぎ止めていた。怒りと焦燥が沸騰したマグマの様に私の内側で渦巻いている。今にもこの静寂を、この男の背中を、全てを叩き壊してしまいたい衝動に駆られていた。
その衝動を必死に抑え込みながら藤鷹様の背中を追い、羽闇様の部屋へと向かった。
33話お読み頂きありがとう御座います!
月光家の執事・壱月萱視点でお届けしました。
華弦と壱月のやり取りは、まるで心理戦。華弦は壱月の本心に迫り、壱月は冷静を装って躱します。この二人の間に流れる緊張感が、物語の大きな見どころです!
次回もお楽しみに!