第31話【信頼と安らぎ】
脱衣場に戻ると、ひんやりとした空気が火照った体を冷ましていく。まだろくに立てない私は、壱月が用意してくれた椅子にそっと腰を下ろした。すると、壱月は用意されていた下着を手に取り、ゆっくりと私に近づいてくる。その様子に私は思わず息を呑んだ。
「…壱月?」
「それでは、羽闇様。お着替えの段取りは全て私が滞りなく行いますので動かずに、そのままお任せ下さいませ。」
壱月は躊躇う事なくショーツを私の肌にそっと触れさせた。洗い立てのリネンの様な香りが微かに漂い、繊細な手つきに思わず息を呑む。
「あの、着替えは自分で出来るから大丈夫…!」
「…なりません。まだお体が万全では御座いませんので。」
壱月は私の言葉を遮ると私の足にショーツをゆっくりと通し、優しく引き上げた。生地を広げ、腰回りにフィットさせていく。その動きは繊細で、普段よりも気を配っているのが伝わってきた。
ショーツを履き終えると壱月は間髪入れずに上の下着を手に取り、ゆっくりと私の背中に手を回していく。そして私の肌に触れるか触れないかという程にそっと、彼の細く白い指が背中のホックに触れる。カチリ、と小さな音が静かな部屋に響き、背中のホックが留められた。
次に壱月が手に取ったのは薄いピンク色のワンピースだった。丁寧に広げるとシワ一つない事をしっかりと確認し、ゆっくりと持ち上げる。
「失礼致します。」
そう囁くと、壱月はワンピースを私の頭から被せた。薄いピンク色の生地が肌に触れる度に、微かにひんやりとした感覚が走る。壱月は、生地が肌に引っ掛からない様に慎重に下ろしていく。ワンピースが腰まで下ろされると、次に腕を通し始めた。袖口を広げ、私の腕をゆっくりと袖に通していく。
背中のジッパーを閉じ、着用が終わると最後に私の腰にそっとベルトを巻き付ける。バックルを留め、ベルトの位置を微調整すると壱月は静かに頷いた。
「お着替えが完了致しました。続きまして、髪をお手入れ致します。此方へどうぞ。」
壱月に促され、私はゆっくりと立ち上がった。まだ少しふらつく足元に注意しながら彼の示す方向へと歩き出す。そこは脱衣場の一角に設けられた小さなドレッサーの前だった。椅子に腰掛けると、壱月は慣れた手つきでドレッサーの引き出しを開け、ドライヤーとヘアブラシを取り出す。ドライヤーのコードをコンセントに差し込み、ヘアブラシを手にすると私の背後に立った。
「羽闇様、まずは髪の毛をお梳かし致します。」
「う、うん。お願いします…。」
私の返事を聞くと、壱月はヘアブラシで私の髪を優しく梳き始めた。濡れた髪は少し重たく、ひんやりとした感触が首筋をくすぐる。髪が梳かれる度に、静かな音が響いた。ブラシが私の頭皮を優しく撫で、その感触が心地良い刺激となって、緊張していた身体がゆっくりと解きほぐされていく。
「…気持ちいい。壱月、髪を梳くのも上手いんだね…。」
思わず呟くと、壱月は微かに微笑んだ。その表情は穏やかで、何処か柔らかさを帯びていた。
「ありがとう御座います。力を入れすぎない様に、優しく梳いております。」
私は壱月の言葉に安堵し、再び目を閉じた。目を閉じると、先程までの緊張はもう何処か遠くへ行ってしまっていたかの様だった。ブラシが髪を梳く音は、まるで子守唄の様に私の心を穏やかに包み込んでいく。
「…髪を乾かしますので、少し温かい風を当てますね。」
壱月はドライヤーを手に取り、私の髪に向けると温かい風が濡れた髪を優しく撫で、少しずつ乾かしていく。ドライヤーをゆっくりと動かしながら髪全体に均等に風を当て、時折、冷風に切り替えて髪を冷ます。温風と冷風が交互に当たる事で髪がふんわりと立ち上がり、自然なボリュームが出る。
「…はい、終わりました。」
壱月の声が聞こえ、そっと目を開けた。目の前には鏡があり、そこに映った私は髪のおかげなのか、先程よりも明るい表情をしていた。壱月はヘアブラシで髪を軽く整え、髪の流れを確認する様に何度か視線を動かすと、私に問い掛ける。
「綺麗に乾いたと思うのですが、如何ですか?」
私は鏡の中の自分を見つめる。普段よりも髪がふんわりとしており、着用したワンピースによく合っていた。
「凄い…!完璧なんだけど!?」
「喜んで頂けて、光栄です。」
壱月は薄い微笑みを浮かべ、私を見つめ返した。その表情にはいつもの様に感情の波が殆ど見られなかったが、口元が僅かに緩み、その瞳の奥底には喜びの色が滲んでいるのを私は見逃さなかった。
「…それでは、そろそろお部屋にお戻りになりましょうか?」
壱月は、そう言って立ち上がるのを手伝うように手を差し伸べる。私はその手をそっと握り、ゆっくりと立ち上がった。
「今日のコーディネートも可愛いなぁ。何だか、前にしてもらった時の事を思い出しちゃった。」
「ええ。星宮様とのお出掛けの際も、その様な事が御座いましたね。」
壱月はそう答えると脱衣場のドアノブに手を掛けるが、扉を開ける前に私はそのまま話を続けた。
「あの時、本当に助かったんだよね。私ってお洒落とかあんまり詳しくないし。それなのに、急に夜空君とのデートが決まってたからさ〜。」
「…そうで御座いましたね。至らぬ点があり、申し訳御座いませんでした。大旦那様の指示により、星宮様とのデートをセッティングさせて頂いたのですが、急な事でご準備のお時間もなかったかと存じます。」
壱月は、少しだけ申し訳なさそうな表情を浮かべた。その表情には、戸惑いと私への気遣いが滲み出ていた。
「うん。でも、壱月が完璧にコーディネートしてくれたおかげで夜空君も喜んでくれたし、私も楽しくデート出来たんだよ。私一人だったら、着ていく服をどうしようってずっと悩んでたかも。まさかあんな事件に巻き込まれるとは思ったけどね…。今日も手伝ってくれてありがとう、壱月がいてくれたから助かったよ!」
「…お礼には及びません。羽闇様に喜んで頂けた事が、何よりで御座います。」
私は壱月の目をじっと見つめ、感謝の言葉を重ねた。壱月は一瞬戸惑った表情を見せたけれど、すぐにいつもの形式的な笑みではなく今まで見た事のない温かい笑顔へと変わった。その笑顔を見て、私も胸がいっぱいになった。
壱月は再びドアノブに手を掛け、扉を開けた。そこに広がっていたのは、紛れもない私の自室。しかし部屋の隅にあるテーブルの傍らの椅子には、まさかの見慣れた人物が優雅に腰掛けていた。その人物はまるで自分の部屋であるかの様に寛ぎ、手に持ったティーカップを静かに傾けている。
「…え、華弦…!?」
私は、思わず声を上げた。
31話お読み頂きありがとう御座います!
壱月の至れり尽くせりな看病回、如何でしたでしょうか?
壱月の手際の良さには私も感心を覚えました!まさに完璧な執事です(笑)
二人の距離が縮まっていくのを感じて頂けたら幸いです。
そして、部屋に戻るとまさかの華弦が……!?
次回もお楽しみに!




