台風14号
「非常に大型な台風14号が関東地方に接近しています」
少しずつ残暑も陰を潜め始めた9月の暮れの昼下がり。ニュースキャスターの冷静な声が台風の到来を告げた。俺ははカップラーメンを啜るのもやめてテレビに食いついた。
1年に大抵30個ほどの台風が発生するらしいが、リアリティをもって感じられるのはその中でも1つや2つだろう。それ以外は他の地方での出来事だ。どうやらこの14号は俺の住む東京を直撃するリアリティのあるやつらしい。
伸びてしまったカップラーメンを一気に掻き込んで俺はふと窓の外を見た。少し高台にある2階の東向き窓からは東京の街が見える。雑多に並んだ灰色の箱が並び立つ街は今日も活気がない。いつもなら頭ひとつ抜けているスカイツリーも今日はその頭が靄の中に消えている。そして街と空の境界が曖昧に感じるくらい空は灰色に染まっていた。窓を開けるとヌメっと湿気が頬を撫でて、雨の匂いが鼻をついた。これは一雨来る予感がしたのでせっせと洗濯物を取り込んだ。取り込んだ洗濯物を二日前に取り込んだ洗濯物の山の上に放り投げる。山は少し高くなった。火山活動か、と自嘲気味に呟いてみるがそれは自分の行為を肯定するほどの力はなかった。
台風特集を終えたテレビは知らない芸能人の下世話なゴシップネタで盛り上がっていた。なんだかつまらなくなってテレビを切った。スマホを開けてメールボックスを見る。先週いくつか求人募集に応募してみたが採用の通知は来ていなかった。1つ舌打ちしてその辺に置いてあったタウンワークを手に取った。
思えば東京で夢を掴むんだと高校卒業を機に田舎を飛び出してきてはや3年。定職に就くこともできず、ただバイトで食いつなぐ毎日。田舎で両親の畑仕事でも手伝っていた方が幸せだったと何度も後悔した。今となってはもう東京にこだわる意味も分からない。学生の頃あれだけ輝いて見えた東京も今では暗く、ドス黒く、無機質で、冷淡な街にしか見えない。
先日兄貴からもう田舎に帰ってくるかと電話があった。電話口ではまだやれるさと啖呵を切ってみせたものの、内心その誘いに乗って田舎に帰るのもありだと思っていた。もうこれ以上、東京で頑張るほどの熱量はもうなくなっていた。
台風が過ぎ去ったら田舎に帰ろう。そう決心したのはその日の夜だった。夕方から激しく降り出した雨はノスタルジアを抱かせるには十分すぎた。きっとこれ以上東京にいても仕方ない。そんな諦めを雨がうまい具合に手助けしたのだ。
東京を離れるとなると賃貸やガスやらの解約手続きをしなければならない。その書類を探している最中にスマホがなった。兄貴だった。
「どした」
「いやーそっち台風来るらしいがら大丈夫がなと思っで」
「ハッ俺もう二十歳。子供じゃない」
「でも今回えれーデカい言うじゃない。おかあも心配しとるよ」
母の名を出されると弱いのは息子の性なのか、大丈夫と伝えてくれと兄貴に言った。そして自分の決断も話すことにした。
「あのさ」
「ん、なんだ」
「この台風が過ぎたらもう田舎帰ろうと思っとる」
「ん?話が読めん。帰省するってことか?」
「違う違う。もう東京の部屋解約して実家に戻るってこと」
「お前こないだまだやれるって言ってたのにどういう風の吹き回しじゃ。まあなんでもええわ、おかあに伝えとく」
「ありがとう」
詳しく詮索してこなかったのは兄貴の配慮か、それともこの前の言葉が空元気と見透かされていたのか。いずれにせよ兄貴には敵わない。
俺は窓の外を見た。激しく打ち付ける雨粒が濁す視界の向こうに夜の輝きを湛えた東京。それは今日に限ってひどく妖艶に映った。いざここを離れると決心すると、辟易とした景色さえも恋しく思える。じっとその景色を眺めていると急に眠くなってきたのでせっせと布団に入った。普段より随分と早い時間だったが小気味よく窓を叩く雨音に包まれて俺はあっさり眠りについた。
けたたましい町内放送で目が覚めた。時計を見るとまだ朝の5時だった。どうやら強風・大雨注意報が発令されたらしい。雨音のリズムは一層激しさを増していた。
テレビをつけると朝から台風情報一色だった。次々に渡される最新情報の原稿を読み上げるキャスターの目は死んでいる。無理もない。彼らは帰宅できなくなる可能性もある中、決死の覚悟で出勤しているのだ。
JRは既に午前から午後にかけて運転見合わせを決めたらしい。恐らく私鉄も止まるだろう。メトロもその煽りで止まりそうだ。台風はたった1つで東京という街を止めてしまえるのだから恐ろしい。
6時台ともなると少しづつ外の風が強くなってきた。窓枠がカタカタ音を立てる。外の木々はワッサワッサとここぞとばかりにダンスする。何かが飛んでくると困るので雨戸を閉めた。そうやって閉め切られた部屋のど真ん中で、俺はテレビの前に座り込んで暴風警報が出るのを心待ちにしていた。
小学生の頃なんかは暴風警報で休校になるのが楽しみで仕方なかった。何もない平日に台風が与ええてくれるひと時の安らぎは何にも替え難く、友達と遊べるわけでもないのにやたら待ち望んでしまうものだった。しかし今、定職のない俺にとって台風がもたらす休みなんてものは意味がないはずだった。毎日が休みみたいなものだから。
だが俺は待ち望んでいた。暴風警報が出れば俺は東京と切り離される。この街に接する必要がなくなる。俺が求めていたのは心の休業だったのかもしれない。
6時53分にめでたく暴風・大雨警報が発令された。その速報を見届けると安心したのか急に空腹感に襲われた。昨日冷蔵庫に突っ込んでおいたデカめのヨーグルト掴んで雑に封を切った。味のしないヨーグルトを口に運びながら引き続きテレビを見る。どうやら強風域の左側が房総半島にかかり始めたらしい。いよいよ大型台風は俺のもとに近づいてきていた。
14号がもたらす雨風の音を聞きながら俺はまた感傷に浸っていた。
初めて東京に来た日のこと。東京駅の丸の内口から見えた皇居と巨大なビル。憧れが目の前にある興奮と押し潰すように迫ってくる不安。この街で生きていくんだと固く誓った。
人生初めてのバイト。お客さんに言われた「ありがとう」の一言は上司の適当な「お疲れ」の何倍も効くのだと知った。それに東京人は意外と礼儀が良い。
東京は自分が思っていたほど夢が詰まった場所ではなかった。東京は自分が思っていたほど冷たい場所でもなかった。俺は東京が好きでもないし、嫌いでもない。
そういえばふと俺は外から雨音が聞こえなくなっていることに気が付いた。あれだけ雨戸を叩いていた雨の気配がない。風も止んでいるようだ。どうしたんだろう。建て付けの悪い雨戸をガラガラ開けた瞬間、眩いばかりの光が目の中に飛び込んできた。
晴れていた。
雲ひとつなく、ただ真っ青な空がそこにあった。荒れ狂う暴風雨の中、ただ一点の曇りもない空が見える場所。今俺はまさにそこにいた。
「すっげぇ…これが」
俺は思い切り息を吸い込んだ。雨で洗われて、澄み切った空気が肺一杯に流れ込んでくる。家の中の澱んだ空気も一気に外の空気と入れ替わった。ここでなら、生きていける気がした。
俺はベッドの上に投げ出していたスマホを取った。
「兄貴」
「どうした?」
「そっちに帰るって話なんだけどさ」
「うん」
「やっぱやめた」
「なんじゃ、また急に」
「なんかさ、今めっちゃ晴れてて」
「晴れてる?台風は?」
「いや、晴れてる。台風の目だ。晴れてるよ」
電話の向こうで兄貴が何やら言っている。でも俺はもう聞いていなかった。
今、俺の意識は目の前の青空に吸い込まれていた。
この空の下でなら、まだ俺は頑張れる気がした。