「反推理小説たらしめる要素」
(初出 note、2023年7月31日)
ミステリ(推理小説)は大きく分けて二つに分類されるらしい。「社会派」と「本格派」である。
細かい定義は省いて概要だけ述べるが、前者はとても現実的なミステリだ。何処かのアパートの一室などで殺人が起こり、警察などその分野専門の調査機関が地取調査や被害者周囲の人間関係などを洗い、犯人を見つけ出していく。この代表に挙げられるのは松本清張だとされる。
他方、後者は古典的なミステリで、密室殺人、非現実的な建造物、大規模なトリック、見立て殺人、奇抜な登場人物たち、名探偵といった要素を含む作品だ。日本での筆頭は江戸川乱歩だが、アガサ・クリスティやヴァン・ダイン、エドガー・アラン・ポーといった海外ミステリの大御所はほぼこの「本格派」に含まれる。つまり、現実的に考えて有り得ないような作品ながら、現実で処理出来るような筋が通った作品、とでも言うべきだろうか。
私は、ミステリというとやはり本格派の存在を思い浮かべる。しかし、この分類については綾辻行人さんの『十角館の殺人』を読むまで知らなかった。私が最初に読んだミステリ作品は知念実希人さんのデビュー作『レゾンデートル』で、その後も東野圭吾さんや誉田哲也さん、下村敦史さんなどを読んできたが、『十角館』を読んだ時は「言われてみれば」と目から鱗が落ちたような気がした。
ところで先日、私は中井英夫『虚無への供物』を読了し、日本ミステリ界にその存在を深々と刻みつけた三大奇書全てを読み切った。夢野久作『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』が並ぶこれらの三冊は「反推理小説(アンチ・ミステリ)」と呼ばれ、「ミステリでありながらミステリである事を否定する」小説、といわれる。
なるほど、分からん、というのが正直な感想だ。『ドグラ・マグラ』は作中で「探偵小説」と明言され、実際に起こった事件を主人公が推理しようとするし、『黒死館殺人事件』はお約束通り摩訶不思議な館が登場し、大掛かりな殺害方法も登場し、名探偵・法水麟太郎が推理を行う。『虚無への供物』もまた不可能犯罪が起こり、因縁のありそうな一家が現れ、新人歌手であり捜査機関とは何の関係もない奈々村久生を始め探偵役たちが推理を行う。どれも「本格派」の要素を持ち、立派に「ミステリ」のカテゴリに含まれるような小説である。
反推理小説という言葉は、中井英夫が初めて自分で使ったそうだ。
『虚無への供物』作中に登場する久生の台詞、及び中井が「塔晶夫」という筆名で本作を発表した際に書いたあとがきの一説を、順に引用する。
「むろん、探偵小説よ。それも、本格推理長編の型どおりの手順を踏んでいって、最後だけがちょっぴり違う──作中人物の、誰でもいいけど、一人がいきなり、くるりとふり返って、ページの外の”読者”に向って”あなたが犯人だ”って指さす、そんな小説にしたいの。ええ、さっきもいったように、真犯人はあたしたち御見物衆には違いないけど、それは”読者”も同じでしょう。この一九五四年から五五年にかけて、責任ある大人だった日本人なら全部犯人の資格がある筈だから」
そのせいであろうか、コロネーション・ブルースの愛娘、母方に遠くアズマホープの血を引くこのローラ嬢を引き連れながら私の考え続けていたのは、アンチ・ミステリー、反推理小説ということであった。
出口裕弘は解説で、この作品を推理小説として読んだ場合「動機が高級すぎる、あえていえば純文学的すぎる」「動機に推理小説的リアリティが欠けている」という印象を受けたと記している。私は端からアンチ・ミステリを読むつもりで(『黒死館』での失敗により)読んだのでさほど気にならなかったが、確かに犯人の動機に当たる箇所を読んだ時、「絶対に分からないだろう」と思った。未読の方も居られるかと思うので、敢えて伏せさせて頂く。
ミステリという型を利用しながら、序盤から久生が言っている通り従来の名探偵の推理からは逸脱しながら物語を展開していく、更には「創作では○○もありだけど現実では」という旨の台詞を作中人物がしばしば口に出したり、既存の古今東西に渡るミステリ小説を下敷きに推理する箇所があるなど、敢えてその「型」を逸脱していくような、すっきりと畳みきらずに違和感を覚えさせるのが、中井英夫のアンチ・ミステリなのだろうと思う。
『ドグラ・マグラ』『黒死館殺人事件』はそれ以前に書かれた小説であり、これらがアンチ・ミステリと呼ばれるのは「そういえばあの小説もそうだよな」という判断からの分類だろう。が、この二つがアンチ・ミステリと呼ばれる所以である「ミステリとして読んだ時の違和感」の原因は別の箇所にあるように思う。
前者は、まず探偵小説でありながら結論が分からない、というところにあると思われる。途中で死亡したと思われていた正木博士が登場する部分や、彼の言葉が更に謎を呼んだり、言葉の中に嘘が含まれていたり、など。最後も、これもまたネタバレにならないよう言葉を暈しておくが、今まで読んできたものを突然引っ繰り返すような展開が待っており、作中で最も大きな鍵となる主人公と呉一郎が同一人物か否か、という謎についても明かされたような、明かされていないような終わり方をする。奇抜な心理学が登場するのも要因だが、ミステリの体裁にしてミステリのような理路整然とした軸がない。
恐らく、作者の夢野久作が故人である以上、『ドグラ・マグラ』に於ける謎は「解釈」出来るだけであり、解ける事は永久にないのだと思う。私自身も自分なりの結論は出しているものの、それが正解かどうかという確証もないし、これは解説でもないので敢えて深くは語らない。
この小説は江戸川乱歩をして「わけのわからぬ小説」と言わしめたものだが、その混沌とした不気味さに引き込まれる。「ミステリ」には怪奇幻想というような意味合いもあるが、『ドグラ・マグラ』の本質はこちらにあり、それを探偵小説(しかも作中の設定では狂人が書いた)という状況設定に嵌め込んだ、そしてそのスケールの規模から嵌め込みきれず、逸脱した箇所があるからアンチ・ミステリの形となった、と私は考える。
喩えるなら、辻村深月さんの「スイッチ」(角川文庫『きのうの影踏み』収録)に描かれる違和感に近い。絶対の科学的な法則があり、因果があると暗黙のうちに思い込んでいる日常に、唐突に亀裂のようなものが現れる。突然血塗れの手を持つ老人や顔の半分が抉られた女、溶け崩れた車などが風景に紛れ込んでいるような、どうしても私たちの知っている知識では処理出来ないものがある。全貌が殊更に変化し、理屈が無視された訳ではないのに、あれ、何か普通のミステリと違うな、という、俄かには表白し難い印象を抱かせる。これが、『ドグラ・マグラ』がアンチ・ミステリである所以だろう。
他方、『黒死館殺人事件』の違和感は、犯罪学や心理学、医学、錬金術や占星術といった膨大な知識の列挙の合間に法水麟太郎の推理が埋没しており、その主客転倒のせいで話の筋が見えないという事だろう。三大奇書のうち私が最初に読んだものがこれだが、話が頭に入って来ない上に推理にまでそれらの衒学が持ち込まれ、読んでいて苦痛でしかなかった。私がアンチ・ミステリという言葉を知ったのもこれを読んだ時だったが、分かった今でももう一度読み返す気にはならないし、他の小栗作品にもこういったものが見られるので、意図的な構成というより単純に作者の悪癖だと思っている。もし意図的なものだったにしても、私は愚作という評価を変えようとは思えないが。
江戸川乱歩自身は「大作『黒死館』一篇は、論理の貴族主義者、抽象の詩人の比類なき情熱と、驚嘆すべき博学と、凄愴なる気魄とを以て、世界の探偵文学史上に、あらゆる流派を超越した一つの地位を要求することが出来るであろう」と賛辞を述べており、また同文中から引用するが「そこには、今も云う通り、百二百の探偵小説を組立てるに足る程の夥しい素材が転がっているのだ」とも言っている。
何故、私がこの膨大な衒学趣味的な記述が『黒死館』をアンチ・ミステリたらしめていると考えるのかというと、探偵小説に付き物であるフェア・プレイ精神の欠如である。作中での法水の推理は、ほぼ全てが雑学に基づいている。一般人の読み手には絶対に思いつかないような内容ばかりで、法水が得意げに推理を披露しても、私のような俗人は「ああ、そうか!」と納得するよりも「知らねえよ」という感想を抱いてしまう。しかもそれが何度も外れ、また別の知識で繰り返されるので、途中から「これはミステリの体を成していない」と思われ始める。
これは、作者が初めて小栗虫太郎のペンネームを使った「完全犯罪」という短編小説について九鬼紫郎も指摘している事でもある。こちらも私は同意見なのだが、探偵役のワシリー・ザロフが並べる知識が殆ど解決に直結しない。その上、真相もまた唐突に織り込まれたカルト的なもので、読み終わってもまるで謎が解けたような気がしなかった。
既存のミステリという型を使う以上、それを僅かに逸脱した形で完成させる、音楽でいうならわざと音を外すようなアンチ・ミステリの技法は、ある意味諸刃の剣になりかねない手法である。「新鮮」と思われる事もあるかもしれないが、一歩間違えれば失敗作を「そういう技法です」と言い張っているかのような見苦しい作品として断罪されてしまう。『ドグラ・マグラ』が、敢えて分類するなら探偵小説、という分け方になるのに対し、『黒死館』は小栗が大真面目にミステリとしてやっているようなので気持ち悪い事この上ない。
ここで、結論として私が「アンチ・ミステリをそれたらしめている要素」について明かす。それは、「これはアンチ・ミステリである」という明確な宣言であり、推理小説らしい枠を残しながらその「お約束」めいた規定を敢えて少し逸脱するという違和感である。無論、『ドグラ・マグラ』のような非現実的な設定を盛り込んだとしても、だからといって「何でもあり」にしてはいけない。『ドグラ・マグラ』にも、膨大な資料という形で推理のバックボーンとなる素材が列挙されており、「脳髄論」や「胎児の夢」などの理屈が、突然放り込まれた擬似科学のようなものにはなっていない。
身も蓋もない事をいえば、推理小説と銘打っていなくても、政治や企業の小説に含まれる組織の意図や陰謀、恋愛小説に於ける人物たちの心理的な駆け引きなど、創作物に起承転結が求められる以上、多くの小説は謎解きの要素を内包している。という事は、アンチ・ミステリは決して、娯楽として楽しめないものではないはずなのだ。いい逸脱の方法が掴めれば、検索エンジンに「アンチ・ミステリ」と入れた時「つまらない」と候補に出てくるような現状は改善されると思うのだが。
しかし、やはり『虚無への供物』を超える出来栄えのアンチ・ミステリは暫らく誕生しないのではないかな、とも思う。
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因みに私は、ミステリを書いた事はない。伝承と現実が交錯して謎を生み出すような怪談や、人々の思惑が重なり合うような作品は幾つも書いたが、それは現実世界の制度や地理、科学などを必要以上に深く考え、リアリティを追及してしまう私の悪癖により「辻褄合わせ」を行った結果である。謎解きを主体とするような複雑な作品は書けそうにないし、それ故にアンチ・ミステリを書いたりなどしたら、力量不足を表現技法と言い張るような醜さを露呈してしまうような気がする。
ので、偉そうな事をつらつらと述べた私だが今後自分がアンチ・ミステリを書く予定はない。ただ「反○○」という反骨精神、専門分野とする界隈の風潮に疑問を感じた故に内側から風刺的な作品を作るという挑戦は好物なので、近年蔓延している「異世界に転生した主人公が無双する」系の分野には一石を投じたいかな、などとは考えてみる。異世界ファンタジーなら、やはり私は一昔前に主流だった転生しないものの方が断然好きだ。だが、あまり揶揄するような作品を書くと東野圭吾さん『名探偵の掟』のような事になりそうなので止そう。
因みに三大奇書には、議論が分かれているが竹本健治さんの『匣の中の失楽』を加えて「四大奇書」と呼ぶ場合があるそうだ。これも気にならない事はないのだが、ドツボに嵌まるような気もするので当分はお預けかもしれない。