「映画『シン・仮面ライダー』感想」
(初出 note、2023年7月30日)
最初に断っておくが、私は昭和四十六年にテレビ放送された『仮面ライダー』(初代)を観ていない。
故に「シン・ジャパン・ヒーロー・ユニバース」に於ける前作『シン・ウルトラマン』のような、原作にまつわる小ネタやオマージュがあっても、インターネットで検索をしなければ気付かないかもしれない。だから今回は、私が作品を視聴して率直に思った事、考えた事を感想として記す事にし、細かな原作リスペクトなどには触れない。「お前は何も分かっていない」などと言われてもどうしようもないので、あらかじめご了承願いたい。
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私が仮面ライダーシリーズを観始めたのは二〇一一年の『仮面ライダーオーズ/〇〇〇』で、俗に言う”卒業”をしたのは二〇一六年『仮面ライダーゴースト』であった。小学生時代の始まりと共にライダーの視聴を始め、また小学生時代が終わると共にライダーからも卒業した、といえる。当時、まだ幼い私は作中で取り上げられる欲望や絶望などのテーマを「難しい」と感じていたが、そこまで深刻なものとして作品を視聴せず、自分たちの世代が見る特撮ヒーローの一環として観ていたような気がする。だからこそ、ある時「仮面ライダーは悪の組織に人体改造を受けた」という元々の設定を知った時、驚愕と共に深刻さを知った。最近の作品では、初代のような苛烈なバックボーンの存在はあまり感じ取れないだけに、信じられないような印象を受けたのだと思う。
そして今回『シン・仮面ライダー』を観、ようやく「改造手術を受けた超人としてのライダー」を映像で見る事となった。『シン』では──初代がどうなのかは知らないが──、私の知っているライダーたちよりも変身の調子が軽く、荒唐無稽な世界観に存在する超人というより、人間なのだな、という認識が改められた。
無論、私たちはライダーの変身前の姿を知っているし、彼らの中身が人間である事も分かる。が、変身しての戦闘が始まるとつい、戦っているのは超常のヒーローだ、という風に人を忘れてしまう。絶対に、私だけではないように思う。
それはまた怪人も同じで、設定上「改造人間」であっても、外見が完全に人外の怪物なので、本来「悲しい存在」であるはずが嫌悪感を抱かせる「倒すべき敵」のように思えてくる。だが『シン』に登場したオーグメントたちは、多少人外のようであっても、見れば見る程「マスクを着けた人間」であり、それ故に「機密保持の為に存在の痕跡を消される=融解される」という描写に、SHOCKERという組織の残酷さが強調されていたようだった。
融解という怪人の最期は、初代『仮面ライダー』の初期に採られていた方法だという。作中の設定的には先程の機密保持の理由、実際には死体が残ると後味が悪いし子供向けに宜しくないという映倫の都合があったのだろうが、それは段々派手な爆発に置き換えられるようになっていった。
庵野監督によく言われる事であり、私自身も『シン・ゴジラ』や「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズを観た時に思った事だが、彼は爆発の演出を得意とする。『シン・仮面ライダー』にもあったが、怪人(オーグメント)の最期を敢えて機械の如き爆発ではなく、初期のように融解にした事に、私は「人間対人間の物語なのだな」という感慨を抱いた。
あと、本郷猛(池松壮亮さん)の髪が変身後も見えている点なども。
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この「人間対人間」を暗示させるライダーとオーグメントのデザインは、もう一つ私に考えさせる事があった。
少し話が逸れるかもしれないが、『仮面ライダーBLACK』にシャドームーンという敵が登場する。これは1号などとは異なり、脳まで完全に改造・掌握されてしまった”悪の仮面ライダー”で、ライバルとなるライダーが共闘する事の多い劇場版でも、彼だけは純粋に怪人側の存在として描かれる。ネット上で、「シャドームーンは怪人かライダーか」という論争が巻き起こった事もあり、私も興味深く読んだ事があったのだが、そこに「敵組織に改造され超人的な力を得たという点では1号なども同じで、その力を世界の破壊に使うか人々を守る事に使うかで、怪人かライダーかが決まる」という意見があった。
今回『シン』を観ながら私は、この定義について思い出した。作中で本郷や一文字隼人は最初「バッタオーグ」と呼ばれ、その後自発的に仮面ライダーを名乗るが、終盤で外見で登場する「大量発生型相変異バッタオーグ」は彼らと同じ外見でありながら、純然たるオーグメントとして彼らに襲い掛かる。
敵味方を、外見を始め「正義と悪」のように分けないのは、『シン』の敵組織であるSHOCKERにも布衍して言う事が出来る。
近年、少なくとも私がリアルタイムで視聴していた頃、敵が「百パーセント悪い奴ら」としては描かれなくなってきたのは、善悪二元論が忌避されがちになった昨今の良い風潮だとは思う。しかし、初代の「ショッカー」は分かりやすい悪の秘密結社であり、これをどのようにリメイクするのだろう、とは、視聴前に今作の敵が「SHOCKER」だと聞いた時から考えていた。
今作のSHOCKERは、秘密結社ではある。現実では錬金術師の集団「薔薇十字団」や、かつて英国に存在したという上流階級の淫蕩な快楽サークル「地獄の火クラブ」などのイメージがあってか、怪しい人々が非合法に悪い事をする集団、の印象がある「秘密結社」という言葉だが、『シン』のSHOCKERは大富豪が人類の幸福追求の為に創設したものだった。
澁澤龍彦の「秘密結社の輪郭」という文章から抜粋する。
ところで、アメリカの社会学者ノエル・ギストによると、秘密結社の目的はそれぞれ次のようなカテゴリーに分類される。
一、博愛主義
二、相互扶助
三、革命および改革
四、愛国主義
五、宗教
六、神秘主義および秘伝主義
七、軍国主義および騎士道
八、社会的接触
九、栄誉
十、禁酒(アメリカで、アル中患者再生のために結社が組織されたことがある)
十一、単なる娯楽
十二、犯罪
私が大雑把に解釈すると、社会的な法人グループに登録されていない組織であれば全て秘密結社といえる、という事だと思う。実際、博愛主義的な目的に結成される秘密結社もあるという事になるので。
だからこそ、今作のSHOCKERには一種の暗喩的なものを感じざるを得なかった。つまり、良かれという目的で始まった団体が、構成員の恣意的な理念曲解により危険思想に傾倒していく、というような。或いは、幸福の定義が独善的なものだったり、耳当たりのいい言葉を使う実態がエゴイズムに過ぎなかったり、など。現代はそういった社会問題になる組織的なものも増えているので、見るからに「悪いぜ」という悪の組織よりも現実的だな、と思った。旧統一教会(世界平和統一家庭連合)などにも言える。
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と、ここまで書いてきたが、感想というからには正直に、物足りなかった箇所についても述べておく必要があるだろう。
まず、大きな見せ場となるべき戦闘シーン、ハチオーグの辺りと相変異バッタオーグとバイクで渡り合う場面、それからイチロー/仮面ライダー第0号との最終決戦がことごとく暗く、見えづらかったのがやや残念だった。その中で激しい光の点滅などがあったので、直視しにくかった事もある(『シン・エヴァンゲリオン劇場版』などにもあったが、今作は特に凄かった)。
それと、尺の都合上仕方のない事かもしれないが、各オーグメントとの対決が一つ一つ短く、軽い感じがした点も挙げられる。敵の数はエヴァやウルトラマンとさほど変わっていないようだが、繋ぎの部分に問題があったのかな、と思う。だが、その分ヒューマンな演出に尺が割かれ、本郷と、ルリ子や一文字らとの印象的な場面が多く生み出されたのだろう。
実際に、ヒューマンドラマ的な演出は素晴らしかった。本郷のマスクの中でのルリ子、イチローの和解を観て思った事だが、エヴァの碇ゲンドウやウルトラマンのゾーフィもだが、庵野作品には現人類に諦観のようなものを抱き、自らの世界規模の計画を実行しようとする者たちがよく登場する。しかし彼らは、皆最終的には自らのプランを諦め、自分ではない者たちの動かす世界の行く末を見届けようとする。庵野作品の特徴として、人間のエゴや醜い部分を鋭く描くような部分も挙げられるが、究極的には庵野監督は、人の善性をちゃんと信じているのだなあ、と感じさせてくれるのが変わらず良い。
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最後になるが、「シン・ジャパン・ヒーロー・ユニバース」の作品に付く「シン」という言葉については、「真」「新」「神」など複数の意味があるそうだ。私は、今作の『シン・仮面ライダー』にのそれについては「真」の字を当て嵌めたいと思う。悲しい宿命を背負った改造人間たちの戦い、その本質が凝縮され、精錬された「これぞ仮面ライダー!」というような作品だった。