表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
未分類  作者: 藍原センシ
71/71

「辛夷」③

  ③ 浬、孝樹


 三月中旬、二年次最後の登校日だった。

 三年生は既に、月が替わって間もなく卒業していた。修了式とホームルームだけのその日、この学校では成績通知表は郵送されて来るシステムだったので、もう出席日数は足りているからという事で登校して来ない生徒も三分の一程居たものの、浬は律儀に登校した。

 午前だけで放課となり、いつものように一人で帰途に就こうとした時、唐突に背後から肩を叩かれた。

「よっ、浬。一緒に帰ろうぜ」

 孝樹だった。今日もまた、朝、教室に入った時に先に来ていた彼──今日は練習もなかったはずだが、彼の早い登校は最早癖のようなものになっている──から「おはよう」と挨拶をされたきり、特に雑談などもしていなかった。

 席替えでは最後まで、浬と孝樹が再び近くの席になる事はなかった。

 心臓が跳ね、勢い良く振り返った拍子に、後髪の先端がぴしりと彼の顔に当たってしまった。

「痛てっ!?」

「ご、ごめん……」

 二年への進級から伸ばしていた髪は、最近ではようやくヘアゴムで束ねられるようになった。冬休み明け、初めて髪を束ねて登校した時、クラスメイトからは当たり前のように意外そうに話題にされ、「似合っている」などと言われた。孝樹もその中の一人として「いいな」と言ったが、その時浬の中では、彼にそのように触れて貰えた事への喜びと、クラスの他の者たちが上げる声よりももっと特別な言葉を彼から掛けては貰えないだろうか、という相反する思いが両立していた。

 それが具体的にはどのような言葉なのかは、上手く言えないが。

「孝樹はいいの? 部の皆とは……」

「いいんだ。俺だって別に、四六時中あいつらとずっと一緒に居るって訳でもねえんだしさ」

 本当に、彼と帰るのはいつぶりだろう。

 何故か周囲を見回し、誰もこちらを見ていない事を確認してから、浬は「それじゃあ」と小声で言った。小中学校の頃までは二人で帰る事など珍しくなかったし、それに特別な事など何もなかった。

 人目を気にするような自分の態度に、浬は、きっと皆からすれば、今でもきっとこの自分たちのやり取りは、珍しい事でも何でもない事のように映っているのだろうなと思った。

 その事を思うと、妙に安心するようでも、微かに落胆するようでもあった。後者の理由は、前者よりもずっと分からない。

 自分が、皆にこの気持ちを知られて欲しいのか、知られて欲しくないのかすらも分からなかった。もしも知られたのなら、入間浬が逸見孝樹を好きだ、という事はきっとある種の”既成事実”となる。クラスの皆であれば、たとえ自分がそうだとしても否定せず受け入れるだろう、とも思う。

 しかしそれは同時に、一つの終わりを意味してもいた。

 しばしば、あっけらかんとした調子で、この学内では起こり得ない異性との交際について話に花を咲かせるクラスメイトたち。夜、部屋のすぐ外を通る孝樹と彼のチームメイトたちとの談笑。

 孝樹から「一緒に帰ろう」と言われた時、浬は心が弾み、浮足立つような気持ちを禁じ得なかった。

 しかしそれと同時に、ごく自然な調子で自分に声を掛けてきた彼を恨めしく思う気持ちも、その裏を通り魔のようにさっと行き過ぎた。


 浬に「一緒に帰ろう」と言った時、孝樹は精一杯、部の皆に対して声を掛けるのと同じような調子でそれを口にし、あたかもそれが自分の勇気ある行動のような気分になっていた。

 誘ってから、一つの大きな事をやり遂げたような達成感を感じている自分を、孝樹は「何も特別な事をした訳ではないのだぞ」と心の中で叱った。

 中浦から連絡が来る事はもうないだろう、と思いながら、冬休みが明けて初めて登校した時、浬は今年度に入ってから伸ばし続けていた髪を一本に束ねていた。孝樹は他のクラスメイトたちがそうするように、その事については触れ、「いいな」と当たり障りのない感想を述べた。

 それからはずっと、見ている事を浬本人に、そして他のクラスメイトたちにも悟られないように盗み見るようにしながら、ずっと「綺麗だな」という事を考え続けていた。

 中浦から想いを仄めかされ、冬の間に連絡が来るだろう、と思っている間に、その裏で浮沈を繰り返していた浬へのただならぬ感情は、いよいよはっきりと、形あるものとして自覚されるようになった。

 一月から二月にかけて、登校して彼と「おはよう」という短いやり取りを交わすだけの間にも、落ち着いた気分になれないでいた。中浦の態度を思い出し、あれはまさに今の自分の暗示だった、と思うと、俄かに彼女本人ではない何か──「誰か」ではなく──から当て擦りを受けているような気になった。最早、否定のしようがないのだ、と思い、訳もなく泣きたくなった。

「孝樹、最近はどう、練習?」

 校門を出、並んで歩き出した時、浬がそう話し掛けてきた。

 孝樹は「ん?」と彼の方を見、「あ、ああ」とややぎこちなく返事をした。

「相変わらず忙しいよ。ウィンターカップは無理だったけど、三年になったらすぐにインターハイの地区予選だし。皆進路、進路っていうけど、大学選んでる時間なんかないっつうの」

「スポーツ推薦とか狙ったりはしないの?」

「どうだろうな。それで入ったはいいけど、周りのレベルが高すぎて着いて行けないとかなったら困るじゃん? スポーツ推薦だと大体、大学側から『どうですか』って来る訳だし」

「……県外に行ったりとか、しないよね?」

 何故そのような事を聞くのだ、と思ってから、孝樹は急に後頭部を殴られたかのような感覚を覚えた。

 このような会話を交わしている間にも、孝樹は浬の長い髪を盗み見続けている。伸ばした分、念入りにケアをしているのだろう、それは艶やかで、まだ冷たい風に靡く度にシャンプーの香りが仄かに鼻を掠めた。

 いつしか浬の名を一人で居る時に口にすると、心が有形で存在しているのだとしたらそれを柔らかいもので撫ぜられているような感じがしていたものだったが、中浦の心を想像し、それが自分が浬に対して感じているその感覚と等しいものだと気付いた時、どうしようか、と思った。

 いや、今でもそう思い続けていた。自分のその気持ちは、ややもすれば清浄な浬を汚すような(たぐい)のものではないか、と思ったからだ。

 咄嗟に、彼の言葉に返事が出来なくなり、何かを言わなければ、と思うと、喉が詰まったようになって吃ってしまった。

 口を突いたのは、

「……ちょっと、寄り道して行くか?」

 我ながら、思わせぶりとしか思えない言葉だった。

 先程の浬からの問いに対するものとしては、的外れな言葉だ。


 今年も暖冬だったが、桜の蕾が綻ぶにはやはりまだ早かった。

 孝樹に「寄り道」に誘われ、少し遠回りして通った道は、大通りを渡って住宅街に入ったすぐの所の掘沿いだった。等間隔に背凭れのないベンチが並び、堀を挟んで桜並木が続いている。

 浬は以前、この場所で三月上旬に桜を見た記憶があるような気がするが、もしかしたら気のせいかもしれないと思った。

 道に入りかけた時、不意にふわりと甘い香りが漂った。おや、と思い、辺りを見回すと、すぐにその香源が分かった。

 堀の向こうに建ち並ぶ家々の一つに、道にせり出すようにして大きな白い花を付けた木の植わっているものがあった。その花が、秋になると教室の窓から入って来る金木犀の香りの如く甘やかに匂っているのだ。

「白木蓮かな?」

 浬が呟くと、孝樹は「えっ?」と首を傾げた。こちらが何を指して言ったのか、分からなかったらしい。

 浬は手を伸ばし、堀の向こうの木を指差した。孝樹はそちらへと視線を向け、「ああ」と肯く。「いや、辛夷(こぶし)の花じゃないか?」

 孝樹が花の名前を知っている事を、浬は少々意外に思った。

「いい香りだね」

 きっと四月になり、この道の桜が満開になっても、あの白い花はきっと咲き続けているだろう。だが、きっとそれは、圧倒的な春の象徴の前に霞んで見えなくなり、香りも今よりも遠いものに感じられるようになるに違いない。

「向こうに渡ろうか?」

 浬は、道の半ば程で向こう岸へと架けられた、欄干の低い石橋を示しながら言ってみた。しかし、孝樹は首を振り、

「いや、いいよ」

 と言った。


 遠回りをしたからといって、何かが起こるだろうとは期待していなかった。

 貨物列車の高架下を抜け、所々に畑の広がる住宅街を横切ると、小学校の頃の通学路に出た。浬の家は、ここからではやや戻った場所になる。

 車が来ない事を確かめて道路を渡り、路傍の駐車場の前まで来てから、孝樹と浬は足を止めた。小学生の頃、この駐車場はまだアスファルトを敷かれてはおらず、草が伸び放題の空地で、自分たちはここでよく遊んだ。

「それじゃあ、また休み明けに」

 浬が、そう言って軽く手を挙げた。

「ああ」孝樹も手を挙げ返した。「またな」

 浬は手を振りながら、髪を靡かせて身を翻す。その振り返る間際の一瞬、彼の肩がはっとする程薄く見えた。

 風が吹き抜けた。

 その時何故、自分が動いていたのか、孝樹は分からなかった。

「浬」

 孝樹は足を踏み出し、帰路の方を向いた彼の背にそう呼び掛けていた。浬はびくりとしたようにその背を震わせ、足を止める。今し方、こちらの向きに吹いた風の軌跡を追うように振り向いた。

「孝樹?」

「ごめん、もう少しだけ」

 言った自分の声が、酷く震えていた。発した自分でも、泣き出しそうな声だ、と思い、慌てて口を閉じた。

 閉じてから、浬の戸惑ったような目と視線が一瞬(まぐわ)った。

 咄嗟に逸らしかけ、その瞬間、何故か彼の両の瞳も微かに潤いを持っているように見えた。

「帰らないと」

 浬が言う。

「少しでいいんだ。頼む、ここに居てくれ」

「訳が分からないよ」

 小刻みに首を振る彼の頰が上気し、微かに震えていた。彼はどうしてそのような顔になっているのか、と思った時、孝樹は半ば自棄(やけ)気味に叫んでいた。もう、引き返せなかった。

「俺だって分からないよ!」


 何故、彼はそのような顔をするのだろう。

 突発的に花粉に襲われたかのように、孝樹の表情は歪んでいた。口の()がひくひくと痙攣し、目の周りが赤い。

「分からないって、何……?」

 浬は尋ねる。

 ──いや、分かっていた。きっと自分も、彼と同じ顔をしている。孝樹の声が上擦る度に、浬は、ああ、と泣きたいような気分になる。いつから、自分は気付いていたのだろうか、と思った。

「俺、今までずっと──」

「駄目だ!」

 浬は首を振った。

「駄目だよ孝樹、俺は……」


「駄目って事はない!」

 孝樹は言い募った。

「浬がそう思ってくれたからじゃない! 俺は……俺が」

「俺のせいだ」

「違う!」

 そうだ、違う。孝樹は心の中で繰り返す。

 もしも彼が、想ってくれていなかったとしても。全てが自分の勘違いだったとしても、自分はこの気持ちを否定しなかっただろう。中浦の時と同じだ、これは他の誰でもない、自分の事なのだから。

「本当に違う。だって、俺──」

 伸ばそうとしたこちらの右手に対して、彼が押し留めるかのように自らの左手を出した。

 彼の(てのひら)に、指先が触れる。

 柔らかい、と思った時、彼の指がぱっと開いた。


          *   *   *


 指の腹が触れ合った、と思うと、どちらからともなく、その指同士を横に滑らせていた。

 微かにかさついた音が鳴る。指間に微かな熱と圧力が加わる。

 壊れ物でも扱うかのように丁寧に、互いの指はゆっくりとそれぞれの手の甲の方に折り畳まれ、静かに止まった。

 指を絡め合い、掌を触れ合わせながら、二人は(しば)しそこに立っていた。


          *   *   *


「……ねえ、孝樹」

「……何だ?」

「どうしたんだろうね、俺たち?」

「さあな。多分、何でもない事なんだろう」

「だけどきっと皆は、そうは思わない」

「いいよ、そんな事」

「そうかな?」

「そうだよ」


 孝樹と手を繋いだまま、浬はゆっくりと歩き出した。

 歩いている方向が、自宅の方でも、彼の家の方でもない事に気付いたのは、歩調が合ってからやや暫し経った後の事だった。

 これで良かったのだ、という思いが、海嘯の如く(どよ)みを上げ、去来した。午後の(うら)らかな日差しがアスファルトに照り映えて、風だけは冷たい春の外気が白っぽく(なず)んで見えた。

 ──来るだろうと思っていた一つの終わりが、遂にやって来たのだ。

 自分たちは、今まで居た場所ではない何処かへ移動したのだ。それは、ある意味では逃亡でもあり、またある意味では、二人だけの世界から逃げなかったという事でもあった。

 部屋の窓の外を通る、孝樹とチームメイトたちの和気藹々としたお喋りの声がちらりと脳裏を()ぎった。また、教室で異性との恋愛話を楽しそうに行っているクラスメイトたちの事も。

 自分は今、いちばん叶えたいと思っていた願いを叶えた。

 そして同時に、もう一つ、それではないもう一つの場所を、手に入れる前に失ったのだと思った。


 浬の柔らかな手の温もりを感じながら歩き出した時、先程まで孝樹の胸奥に渦巻いていた情動は静かに凪いでいた。

 彼の手に触れ、指を絡められた時、今にも皮膚を突き破って溢れ出しそうな程になっていた感情の波が、膨れ上がったままぴたりと停止した。それは崩れ落ちるでもなく、電灯を消すかのようにぱっと消失した。

 代わりに、入学式を終えた帰り道のような、これからどうなるのだろう、という期待とも不安ともつかない、もしくはそれらが入り混じったような気持ちが静かにその空白を満たした。

 ──何とか出来る、という、確信に程近い予感があった。

 何がそうなのかは、孝樹自身にも分からない。

 自分のこの想いによって、きっと傷ついたであろう人が居た。選択の権利、否、義務は自分にあり、或いは別の選択をした先の未来では、人並みの──大多数にとっての──祝福を受けていたかもしれない。

 それでも、後悔はなかった。

 後悔はなかったけれど、自分が得たものと失ったものは何だったのだろう。

 春昼の仄めく日光を浴び、また少しずつ伸び始めた二人分の影が並んで歩くのを眺めながらそう考えた時、鼻先をふとあの花の香りが掠めて通ったように感じた。孝樹は、それが舞い落ちる様をちらりと思い浮かべる。



(辛夷 終)

「辛夷」はこれにて終了です。折口信夫「口ぶえ」に着想を得たと述べましたが、似ているようでやはり別物になりました。ただ萌えて頂くのも結構です(上手く書けたという前提での話になります)が、本作では同時に想いを叶える事は他の何かを手放す事になる、という事も意図しています。

 YouTubeで楽曲のMVを視聴していると、花が登場する度にその花言葉から考察をされているコメントがよく見られます。作者も、特定の花の名前を登場させる時に花言葉を全く意識しないという方の方が少ないだろうと思われるので本作でも紹介しておきますと、辛夷の花には友情、信頼、歓迎、愛らしさ、自然の愛といった花言葉があるそうです。もうそれっぽいですが、この花が作中でどのように扱われているかに二人の関係と選択の示唆があります。とはいえ詳細な解説は作者が行うようなものではないと思われる為、特に語る事はしません。

 それから、本作には「香り」に関する記述が随所に登場しています。冒頭の秋の金木犀や、浬の縮毛矯正剤やシャンプーなど、読みながら想像して頂けたら嬉しいです。


 こういった作品には好き嫌いが分かれそうですが──というフレーズを、昨年投稿した「花園の霊」の「後書き」にも書いたような気がします。が、今回は特にデリケートで、好きな方は本当に好き、無理な方は本当に無理というジャンルだったように思います。私自身は好きなので(嫌いだったら書きません)、お読み下さった方々にも楽しんで頂けたら幸いです。

 最後までお付き合い下さりありがとうございました。連載の方も宜しくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ