「桜の降る道」③
四月十一日
東京の景色は、地方都市だった故郷よりも遥かに移り変わりが早かった。
渋谷駅まで徒歩十五分の位置にある集合住宅に入居した治哉の目の前で、短期間で様々な変化が起こった。春は様々な事業が興り、自分と同様移住者も多く街に集まってくる。
住み始めて間もない頃、スクランブル交差点に出るまでの裏通りはあちこちで工事が行われ、通行規制が掛かって迷路のようだった。また、アパート前にあったコインランドリーの跡地と思われる廃墟は取り壊され、近傍の住宅地へ続く草の小径には砂利が敷かれて舗装された。
廃墟が取り壊された後は、その向こうに見えていた高層建築物が、頻繁にその屋上からクレーンを覗かせるようになった。更に、それらが養生シートを纏い始めると、次の月にはもう煙の如く建物がなくなっている事もあった。
人の流れも、風景の移ろう様も、本当に河水のようだった。
本格的な上京前から感じていた通り、治哉は人の多く、その癖顔見知りも居ない土地で、自己の存在が果てしなく希釈されたように思った。移り変わる景色の、水溶性とも取れる性質に自らが同化したかのように、私生活がある種の「流れ」と化している事を体感した。
最初の数ヶ月は、個人の生活に習慣を生み出すうちに蕩尽された。日に三度の食事や洗濯など、以前は家族によって行われていた営みが自分の生活行動となった。仕送り以外で家賃の支払いを賄う為のアルバイトは当然の事、自主性の強い大学の風を己の味方とするにも、随分と長い期間を要した。そして今でも、それを完全に味方とする事が出来たか否かは怪しい。
たまには立ち止まる事が必要だろ、と、登呂徹宏に言われた。
彼は、最初にゼミへ振り分けられ、時間割を組む事になった時、たまたま治哉の隣の席に座った男子学生だった。必修単位と移動時間の都合がどうしても合わない、と治哉に相談してきたのがきっかけで、組み方を真似してもいいかと問われて了承した為、多くの授業で彼とは一緒になる事が多かった。その縁から連絡先を交換し、今では最も行動を共にする友人となっていた。
しかし、たとえ立ち止まったとしても、それが自分の羽休めになるのかといえば、そうとも言えないようだった。
目を休めようと遠くを眺めようにも、景色が安定しない事には何も変わらない。動くものが、自分から世界に移っただけだ。
自分が外に行く時は、大抵普遍的な、かつ持続的ものを探しているのだろう。そして、何処を探しても自分が変遷の一部から逸脱出来ないのだと悟った時、それ故の大都市での生きづらさを覚えた時、独りでの生活は限りなく自己の内側へ拡張するようだった。
「と、これがまあ大学の一年間だよ」
二年次の始業から三日後、定食屋のカウンター席に並びながら、徹宏が言った。
「一年目はまあ、普通に通過ってところだな。けど、それにしても早い、早すぎる。そして普通すぎる感じだった。ドラマとか見ると、授業の光景の方が少ないように思うんだけどなあ」
「普通な事は、いい事じゃないか」
治哉は運ばれてきた餃子を小皿に移し、酢醤油に浸す。
徹宏は箸を振りながら、
「駄目だよ、普通すぎちゃ。このままじゃ大学生活まで、単なる将来への踏み台になっちゃうじゃないか」
と言った。
青春とは、人生の一区切りに付けられた時期の名前ではないのか、と治哉は首を捻る。定食屋のあるビルの上層では、今日もまた改装工事の金属質な音が絶え間なく反響していた。
「彼女が居ないと青春始まらないって」
徹宏は言う。
「それを『持つ事』を大前提にするのは、どうかと思うけど?」
「余裕そうに言ってるけどさあ、治哉は大丈夫なのかよ?」
「大丈夫って?」
「大学生活に彼女は不要か?」
「そりゃ、居たら楽しいんだろうけどさ……」
治哉は呟き、曖昧に語尾を濁す。
高校卒業と上京後、治哉は陽性な性格の徹宏と早々に親しくなり、自分にも何かしら、当然のように異性との「出逢い」があると思っていた。だが、怱怱たる繁忙のうちに季節は過ぎていき、無根拠な当然などありはしない事を知った。そして、何故高校時代、あれ程相田陽子に自分から声を掛ける事を躊躇っていたのだろう、と不思議に思い、彼女に思考が向くのを懸命に留めようとした。
そして、それが無理だという事に気付いたのは、大分後になってからだった。
自分に出逢いがないから、彼女の事を思い出すのではない。清算をつけたつもりだった彼女との思い出が、自分にとっての執着となっているせいで、徹宏のように真剣になれないのだった。
小学校から中学時代、そして高校、更に細分すれば日単位で、人は遭逢と離別を繰り返している。それは、一期一会の消耗ともいえる事だった。以前陽子に尋ねられた時に考えたように、往来で擦れ違うという出会い方をした為に、邂逅となる前に浪費された出会いもあるだろう。それを引き摺ってしまう事が、自分にとって何を意味しているのかを、治哉は何度も自分に問うた。
「また、前の彼女の事考えてた?」
徹宏は、黙り込んだ治哉を怪訝に思ったらしく、肘で肩をつついてきた。治哉は箸で掴みかけていた餃子を口に押し込む。唾液が溜まっていたのか、酢の味がいつもよりも苦く感じた。
「あの人は、彼女じゃないってば」
「彼女だろう、花火大会にまで行ったんだから」
「じゃあ、僕たちが例外だったって事だ」
「どうでもいいじゃん、呼び方なんて。いいなあ、治哉は。俺もそういう事、高校のうちにしたかったんだけどなあ」
「今じゃ音信不通だよ。機種変するって言ってたし、多分もう連絡は取れないんじゃないかな」
「勿体ない事するねえ、お前も」
徹宏が溜め息を吐くのを聞きながら、治哉は最終的な結論を思い出す。
悪くはない距離間だった。それがずっと続いて欲しくて、だが、それ以上のものを自分から求める事はなかった。それは未だに変わっていないし、この先も変わる事はないと思った。
東京に出てきてから、治哉の中には郷愁の如くぼんやりとした、鬱勃と心を駆り立てるような、横溢しそうな感情の渦が飼われていた。そしてその中央に、無意識のうちに陽子が据えられていた。自ら結論付けた事に対して、矛盾でも優柔でもないとは信じたかったが、自我を整理する時間は与えられなかった。
「結局さ」
徹宏は、彼自身が食べていたラーメンセットのスープを飲み干し、手を打って治哉に尋ねた。食後の挨拶にも、話を締め括る仕草にも捉えられた。
「その子は治哉にとって、どういう人だったの?」
「……友達だよ」
既往の返答を、治哉はまたここでも返した。