「桜の降る道」②
* * *
駅の裏手にある商業ビルの、二階にあるファミリーレストランは昼時をやや過ぎているにも関わらず外まで客が並んでいた。今日が土曜日で、外出している人々が多いからかもしれない。
会食は無理か、と思った時、治哉はやや肩を落としかけている自身に気付き、何を今更、と考え直した。卒業式まで漕ぎつけ、今更何かが起こるとも考えていなかったし、また陽子に何らかの期待を向けていたとしても、それは畢竟、今までと同じ波長に過ぎないとも思っていた。
しかし、名簿を確認して「諦めよう」と口に出そうとした時、彼女が言った。
「まあいいか。帰ってからも、そんなにする事もないし」
「僕の事なら、そんなに気にしなくても……」
「どうせ電車降りても、それから四十分くらい家まで歩かなきゃいけないしね。お腹空くし、別に一本逃しても、S**駅の周りぶらぶらしていれば次の電車まで時間潰せるし」
「そっか……」
走ったのは何だったのだ、と思ったが、黙っていた。
名簿への記名を済ませた後、暫らく時間がありそうだったので、治哉と陽子は周辺のフロア内を散策した。休日で人の移動が多い為、縦に並んで歩く。
何度か共に校外学習に出た時、二人は横に並んで歩く事が殆どだった。その際の刹那的な高揚に於いて、治哉の中で、その作用力動を恋と単純に表白出来ない徴証は既に具現化しつつあった。
陽子と、手を繋ぎ合う事が出来たら?
自分はどのような気持ちになるだろう。また、周囲はどのような目で自分たちを見るのだろう。
治哉は部活動を行っていなかったが、陽子は陸上部に所属していた。男女混合の運動部で、誰もが認める学級での中心人物が多く所属しているそこで、彼女はごく普通に同級生の男子とも接触していた。とはいえそういった女子に帰属する、健康的すぎるような、ネコ科動物を彷彿とさせる溌剌さや、セクシュアルに開けっ広げな部分は感じられなかった。男子をあくまで友達以上の見方──「付き合い」ではなく、「見方」に留める──しかしておらず、自分のように、恋情でなくても不可避的に性意識を持ってしまいがちな十代後半に於いては稀有な少女だった。
それを、彼女の周辺に居る──恐らく、日常的な交友という意味では自分よりも深く彼女と関わっている男子生徒たちは気付いているのだろうか。気付いているにしても、そうでないにしても、自分以外にも彼女に何か特異な感情を向けている男は居るだろう。彼らは、もしも自分が本当に、陽子とそのような関係に至ったとしたら、どのような反応を返すのだろう。
但し、恋情か、生理的かつ不可避的な作用力動が先立った結果として彼女を好きになろうとしてるのかは、並んで歩いた時の手のささやかな距離を、無限にも近しいものと解釈し得るか否かの違いだと治哉は思った。
縦に並び、それを自分に問い質す余地も与えられないまま、治哉は彼女の後に着いて歩いた。
「歩き回っているだけだね」
フロア中央に位置するエスカレーターの周囲を一周したところで、陽子は苦笑交じりに言った。「ゲーセンとか、この階にはないもんなあ」
「長いっていっても、ファミレスの順番待ちをしている間にゲーセンに行くのはどうかと思うけど」
治哉が言うと、彼女は「冗談」と返す。
「榎木君、あんまりそういう所行ってもつまらなそうだし」
「わ、分かってた?」治哉は居心地が悪くなった。
初めて校外学習以外で共に外出した時は、主な目的は書店に行く事だった。一回目の校外学習に行く途中、二人に共通して好きな作家が居る事が分かり、本は購読をするか、図書館などで借りるか、といった話をしているうちに、治哉がよく足を運ぶここS**駅のとある書店の名を出し、今度一緒に行かないかと誘った事がこの関係の嚆矢でもあった。
結局、その日は昼食を挟んで一日中行動を共にしたのだが、それが逢引きやデートと呼べるようなものだったのかは微妙なものだった。午後からゲームセンターに入ったまではいいが、普段全くそういった施設を訪れない治哉は、陽子のプレイを傍で見守る事に終始した。彼女から教えて貰った対戦ゲームでも、吸収が遅かったせいで陽子に気を遣わせてしまったような気がする。その日の残り時間は、今と同じように周囲の店を歩き回り、カフェに入って解散した。
「榎木君は静かに過ごす方だもんね」
僕と居てもつまらないだろう、と冗談めかして言おうと思ったが、治哉にはそれが卑怯な問いのように感じられ、口を閉ざした。言葉を探しているうちに、陽子が続けて発言した。
「東京でも、近い所に本屋があるといいね」
「それは、心から思う」
「でも、本だけを友達にはしない事」
「僕ってそんなに、友達出来なさそうかな?」
「一回仲良くなると、凄く深いところまで行くタイプだと思うよ、榎木君は。でも、その最初のきっかけがなかなか掴めないタイプだとも思う」
「………」
治哉は、自分のその性情が、陽子本人を対象とした場合だけは当て嵌まらない、と胸中で呟いた。確かに自分自身には、そのような拱手の態度があるかもしれないと思う。しかし陽子との場合にそれが未だに続いているのは、彼女が異性だからだろうかと推論した。
ファミレスの前に戻って来た時、丁度自分たちの名前が呼ばれた。
* * *
結局、相田陽子は昼食が終わっても帰ろうとしなかった。
治哉も暇を乞う時宜を見出せないまま、彼女の彷徨に付き合うでもなく付き合っていた。彼女は治哉がいつまでも居る事を別段違和感に捉えてもいないのか、どの店を目指すでもなくある気ながら、ごく自然に話し掛けてくる。それに答えながら、治哉は卒業式が終わった後の”空白”を思い出していた。
あの時自分は何故、早く帰ろうとしなかったのだろう。そう考えれば考える程、自分はこうして陽子と式後に行動を共にする事を見越していたような気がしてならなかった。
自分は、最後に陽子と共に何をしたかったのだろうかと自問する。自分は春期休暇中に引っ越しの準備を済ませ、東京に旅立つ。今のままの関係で卒業すれば、恐らくもう彼女に会う機会は長く訪れない。
それに耐えられず、彼女と更に深い仲になって高校生活を終えたかったのか。或いは最後に、何らかの形で彼女との思い出を作りたかったのか。そうだとしたら、心の中で傍観者的な鳥瞰を続けている自分は、本来否定されるべき存在だという事になるのか。センチメンタリズムを伴う春の瘴気が、例に漏れず治哉の情緒をも鈍く刺激しているのかもしれない。
「私、もう一つ行きたい場所があったんだった」
駅構内をぶらつき、地元球団関連のグッズ販売店を覗くなどした後、陽子は治哉の方を向いた。
「行きたい場所?」
「少し離れるけどね、歩いて行けない距離じゃないから。H**川の河川敷も、そろそろ桜が咲いたと思うから、見に行きたいの」
「僕はいいけど、電車は? 時間、大丈夫なの?」
「大丈夫、この後本当に予定ないんだって」
治哉は自分たちの残り少ない時間が、終わりを拡張しながら刻まれているような錯覚を覚えた。自分に何かしらの機会が追加されては、自分が無意識の意思でそれを消耗しているような。
桜の下に行けば何らかの変化がもたらされるだろうか、と思い、治哉はまた陽子に着いて歩いた。手荷物の増加を厭って着込んだ制服の内側が、蒸されるように汗ばんだ。
川辺に着く頃、既に腕時計は午後五時五分前となっていた。午後からの式だった治哉たちは解散が二時過ぎで、S**駅に着いたのが二時半頃だったので、当然といえば当然のような時間帯だった。
太陽は、鉛丹色に輝きを強めながら、ビル群の向こうに傾き始めている。花曇りにはまだ早い、薄青い雲にそれが映じ、透過された藤色が川面に降り注ぐ。河川敷の斜面に等間隔に植えられた桜は、逆光の作り出す影の中、自ら発光しているかのように白く浮かび上がっていた。
「通学路にも桜がある、都市の真ん中にも桜はある」
陽子は、吟ずるように言った。
「染井吉野って、量産型みたいだよね。可愛い、美しいって昔の人が思ったからあっちこっちに接ぎ木されて、テンプレートみたいになった。桜前線が来れば、何処でも一気に咲くし、何処に行っても同じに見える。だから、気付けばいつの間にか春が来てしまったみたいに思う」
治哉は、校門前での彼女との会話を思い出す。
「川辺の桜っていう構図じゃ、学校の前の堀川も、ここも変わらない」
「それじゃ、ここに来た意味が……」
思わず言いかけると、彼女は首を振った。
「違うよ。何処に行っても、同じように綺麗だって私は思ったの。全部同じ遺伝子のクローンだって分かっていても。何でだろうね?」
「何で……そうだね」
治哉は押し黙る。陽子は時折、素朴ながら深い洞察に連結しそうな疑問を口にする事がある。それは治哉の普段頭を悩ませる事よりも、遥かに本質的なもののような気がした。
「『桜の樹の下には屍体が埋まっている!』って本があったよね? だから桜の花は美しいんだって」
そして陽子は、時折おどろおどろしい事も口にする。
「屍体っていうのは分からないけど、桜には精神を窃取された抜け殻、みたいなものが埋められているとは思う」
「抜け殻?」
「春はさ、どうしても悲愴みたいな空気が付きまとうから。お別れとか不安とか、そういうものが一杯、一杯あって、それなのに春を象徴する桜は多くの人が綺麗だって思うから」
「刹那的なものが好きなんだろうね、日本人は」
「勿論、遺伝子が趣味嗜好までを全部決めているって考え方は好きじゃないけど」
陽子は、さっと吹いて来た風に手を伸ばす。舞い散った複数の花弁が、その指の間に引っ掛かった。
「榎木君は寂しくないの?」
ぽつりと尋ねられ、治哉は言葉が喉に詰まった。
「皆に会えなくなるんだよ? 分かっていても、榎木君も桜が綺麗だと思う?」
「……思う。こういうものを、綺麗っていうんだなって。それに、高校生活も区切りの一つに過ぎないって感じがするし、会えなくなった同級生なんて、小中学校の頃にも沢山居たし」
治哉は言ったが、その時一つの心象が脳裏に蘇っていた。
ここH**川の河川敷から打ち上げられ、少し離れたO**公園からそれを眺める事の出来た花火。偶然去年の夏期休暇中、校外学習の予定とその日が重なり、治哉は彼女をその大会へ誘っていた。
彼女と夜道を歩いた事は、あの一回きりだった。何か決定的な変化を心の何処かに期待しながら、それが起こらないであろう予感もまた、糖衣のようにその待望を覆っていた。
人混みの公園で、或いは満員電車の中で、治哉はありふれた高揚感と共に、無限の意味を知った。夢見心地の感触だけを残して忘れかけていた、そのささやかな機微が今、克明に治哉を駆り立てた。
「あのさ……」
「何?」
陽子は、振り返って治哉を見つめる。治哉はつい逸らしそうになる視線を、彼女を透過して斜面の桜を眺めるように固定に努めた。
「写真、一緒に撮らない? 色々な場所に付き合って貰った事とか、家族も……ありがとうって言っていて。僕からも、陽子には感謝してもしきれない事が一杯あるし……だから、記念に」
「いいよ」
彼女は治哉のやや前に並び、スマートフォンを掲げる。二人で画面を見上げた後、薄暗くて上手く行かない事に気付いた。太陽の方を向くと、今度は逆光でより不鮮明になった。
手で遮光を試みながら一枚を撮った後、陽子が言ってきた。
「LINE、そういえば交換まだだったよね。何で言い出さなかったんだろ。一応しておこうか?」
「一応?」
僅かに、彼女の言葉に引っ掛かるものを感じて問い返す。彼女はその一瞬、微かに眉を上げ、言い出しにくい事を切り出すように、珍しく微かに吃りながら打ち明けてきた。
「私、専門学校行くんだけどね。課題が今のOSじゃ出来ないみたいだから、春休み中に機種変更するの。契約会社も変わるから、今までのメアドが使えなくなるんだよね……」
「そ、そうなんだ」
治哉は、一瞬鼓動が大きく鳴ったのを自覚した。しかし、残酷だ、と思う心の奥には、妙に凪いだような納得も並在していた。
宿命主義という考え方は殊更に持っていなかったが、これがあるべき結末だ、という思いもあった。自分たちは、桜が花を咲かす程までには至らなかった。今更終わりを引き延ばし、強引な妥協を許しては、これらの日々として光輝を持った思い出を殺す事になるのだと思った。
自分は、決して左顧右眄していた訳ではなかった。それでも、この国に於ける春の情緒は、治哉の不断さを因循姑息と捉えたようだった。
「多分、私とももう会う事は殆どなくなっちゃうと思うけど」
「……やめておくよ」
治哉は、縷々と続く逡巡を裁断するように声を絞った。
「……そっか」
陽子もまた、知っていた、とでも言いたげな口調だった。思い返す頃が、きっといちばん綺麗なのだろうと治哉は考えた。思い出も桜も、それは特に変わらないようだった。
自分と彼女の終わりは、この夜を通して完全に消費されるのだと感じた。
恋愛を、この国に於いて儚いという点で春と近しいものとするなら、自分たちはそれが訪れる前、風向きが変わる冬の晩期に居たのだろう。
それはずっと留まっていたい、暖かな影だった。
それ以上のものを、自分は求めていなかったのだと悟った。
* * *
夕方になると本数が減るバスを続けざまに逃した治哉が、自宅の最寄りのバス停に到着する頃には既に日は暮れていた。友人と式後に駅で遊んでいたら遅くなった、という旨のLINEを家族に送り、住宅街に入る道まで国道を歩く。
どちらかといえば郊外の方に位置する街路は、街灯の間隔も広く、車道を行き交うライトの間隙に、軽い闇が揺蕩っていた。
街路樹として植えられた桜が仄白く浮かび、治哉の上に花を降らせた。
春はこれ程雄弁に存在を主張する木々が、夏になると途端に消えたように思う事が不思議だった。また咲いたと思えば既に散り始めている事も、その幽遠さを強調しているようだった。
意識する間はあまり直視する事の出来なかった相田陽子の顔が、今や写真の中だけの存在となった。記念物に変わった。
これで良かったのだと思いながら、治哉はゆっくりと歩いた。