「桜の降る道」①
(初出 note、2023年7月12日~15日)
三月四日
唐突に訪れた深い春の、何処に行っても日光が降り注ぐ午後の事だった。萌葱色よりも些か濁った堀川の上を、気の早い鴨が揺蕩うように流れていく。とはいえ、春に深さなど感じられる程、叙情的なゆとりを持った高校生活ではなかった。むしろ、こうして式日を迎えた今になっても、奔逸とでも名付けられそうな毛羽立った心が浮沈を繰り返していた。
それでも榎木治哉には、今の自分の心境を凪と表白出来るような気がした。自分が現時刻、人生の空白を経験しているという事を、何処か客体的な自分が俯瞰しているようだった。
「暑くないの、上着着ていて?」
相田陽子が声を掛けてくる。治哉はぼんやりと彼女を振り返った。
彼女は先程まで、式典が終わった教室に留まっていた。同性の友人たちと抱き合ったり写真を撮ったり、教室で配布された卒業アルバムを早速開封して皆と一緒に眺めたりしていたが、やはりそれも永遠ではないらしい。だが、一人で校門を出てきた事は少々意外だった。
服装の事を指摘され、つい陽子の服装を自分と比較した。彼女は制服である事には変わりなかったが、式典中は着用を義務付けられていた上着のブレザーを脱いでブラウスのみになり、伸ばしていたスカート丈も元に戻っている。それでも、ブレストポケットに挿した生花は律儀にもブラウスのそれに引き継がれていた。鞄は、上着を詰め込んだのか膨れ上がっていた。
「昨日まで、寒かったじゃん。それに上着を脱いで、わざわざ手荷物を増やすのも面倒臭いし」
答えると、彼女は肩を竦めた。
「本当にねえ。桜もこう、何でこんなに突然咲くんだろうね。雰囲気作りのお膳立てみたい。そんなに寂しくさせたい訳でもないでしょうに。でも、やっぱり卒業式には空気があるといいね」
「僕はまあ……別に。確かに皆進路はばらばらで、毎日会う事は出来なくなるだろうけどさ。連絡先を交換しているような仲のいい人なら、卒業した後でも連絡を取り合うだろうし。そうでもない人なら、わざわざ涙が出てくる事もないだろうし。スマホを買ったのは高校に入ってからだから、多分高校時代の人がいちばん、これからも付き合いが続くんじゃないかな」
「全く、ドライっていうか何というか……」
「友達の事はこれからも友達だって思い続ける。そう言っているだけだよ」
「……そっか」
陽子は短く呟くと、治哉の隣に並んできた。大して近くもない距離で、そこまで高さのない欄干に両手を乗せ、川面を覗き込むようにする。側壁に群生した蔓性植物に絡みながら、桜の花弁が一枚落ちてきた。あ、と陽子が口に出した刹那、それは泳いでいた鴨の腹の下に入り、見えなくなった。
「桜流し」彼女が呟いた。
「それ、雨の名前だろう?」
「そうだっけ」
会話は途切れる。一分、二分、三分、と、無言の時間が流れた。
治哉には、もう帰る、と言う事も出来なくなっていた。それを実感した時、元々自分は何故解散になった後、ここに留まっていたのだっけ、と思い直した。
「……東京って、どんなとこ?」
矢庭に、陽子が尋ねてきた。治哉は徐ろに顔を上げる。
「君も中学時代、修学旅行で行っただろう」
「遊びに行くのと住むのとじゃ違うでしょ。榎木君はどう、住めそう?」
そういう目で見てきた感想を教えてよ、と彼女は言った。治哉は考える合間に、そういえば最後まで彼女から下の名前で呼ばれなかったな、と関係のない思考を挿入する。
続けば慣れるものだ、とは思った。だから、そこまでこれからの上京に心配はしていない。だがそれはあくまで観測であり、許容という名の受動的な感情に過ぎなかった。能動的な、印象をそのまま肌感覚として表すなら、
「……色々と、規模が大きい街だなっては思った」
言うと、拍子抜けしたかの如く、陽子は大袈裟に肩を落とした。
「それは多分、実際に行っていなくても言える事だと思うよ」
「いや、街っていう漠然としたものじゃなくてさ。人もものも、全部が大きくて多いんだ。途中下車すれば何でも買える街。だけど、欲しいものが分からなくなりそうな街でもあるなと思ったよ。物価は高いし」
テレビでしか見た事のなかった、渋谷のスクランブル交差点を実際に渡った事を思い出す。そして、人が沢山居るのに、自分以外の者全てが背景と同化していた事が、考えると違和感ではあった。
芸能人や憧れの人と擦れ違う事も、東京ではざらにあると聞く。だが、目指している場所からであっても、そこに今まさに立ち続けている憧憬の対象からすれば、自分もまた往来で偶然擦れ違った事で、背景の一部となったに過ぎないのではないだろうか、と治哉は考えた。夢や目標を持って都市に住もうと決意した人々でも、街路で絶え間なく巡り合わせを、取っ掛かりを、可能性の種子を取り零していると思うと、街の大きささえも自分の矮小さに等級を付ける為の比較対象に過ぎないような、何とも表白し難いアンニュイさを感じた。
摩天楼が増殖すれば、人はそこに流れる。理由もなく、そこに自我の萌芽を養い得る環境があると信じ、誘蛾灯に惹かれるかの如く都市を目指す。その結果、環境と自己の内面との乖離に敗衄し、日々の営みに呑まれて共同体の一部品へと嵌め込まれていく。
そして自分のように、完成されたその構造を見、肌で味わい、体験といえる知覚を済ませた者も、それでも都市に住もうと考える。
元々、自分とは何かしらの連関をも持たない土地に、何の繋縛を求めに行くというのだろうか。それが分からないまま行くから挫折を味わうのだぞ、と、賢しらな叱責を送ってくる自身を、治哉は身の内に感じた。
「東京は、私には合わないと思うなあ」
陽子は呟くと、欄干の下に溜まった雑草混じりの砂を靴の爪先でぱらぱらと川面へ落とした。
「片道一万円だよ? 気軽に帰って来られるような場所じゃないし、ここだってそんなに田舎って訳じゃないし。私にとって、家って今住んでいる実家以外にイメージ湧かないし、あんまり面倒臭く広がりたくないんだよね」
「広がる?」
「散漫になるというか。自分の居場所が定まらなくなるのが、嫌だ。捨てた訳じゃない土地に、痕跡が残っているみたいなのが気持ち悪い」
「僕たちはまだ、家族が居なきゃ出来ない事も多いだろ? 成人って実感も湧かないし。家族は究極的な縁だし、それを連れて行く訳にも行かないんだから、仕方がない事じゃないかな」
故郷に、追愁とはまた異なる心の桎梏が置き去られる事は。
「榎木君は、成人した後いつ自分が完全に大人になると思う?」
治哉は、やや俯いて言葉を選ぶ。
「税金を納めるようになった時、かな。それか、自分の力でお金が稼げるんだって実感した時か」
「アルバイト、してこなかったの?」
「勉強も忙しくて。学校まで往復二時間掛かるとか言っている人たちさ、僕ですら勉強だけでぎりぎりになるのに、よくアルバイトする時間があるよね」
「それ、私に対する嫌味?」陽子は、そこまで機嫌を損ねた様子はない。
「いや、違うけど……」
「素朴な疑問だから教えてあげる。勉強時間の方を削っているの」
治哉は反応に困る。曖昧に、息とも声ともつかない音を零し、何とか接ぎ穂を探した。「陽子は?」
「ん?」
「いつ、自分が大人になると思う?」
「お酒を飲めるようになった時」
「法的に? それとも、感じ方の事?」
「どっちでも」
彼女は嘯くと、「そういえばさ」と言った。
「榎木君が私の名前呼んだの、初めてじゃない?」
「えっ、メールではちゃんと呼んでたじゃん」
治哉と陽子は、現代の学生には珍しいのだろうが、未だにメールを用いて連絡をしていた。
「文面だけでしょ。リアルで名前呼ばれたの、多分初めてだよ?」
「全然、意識しなかったな」
言いながら治哉は、自分にとって陽子とは何だったのだろう、と考えた。
元々彼女は、クラスメイトの一人に過ぎなかった。
高校入学当初、世間では未知の感染症が猖獗を極めており、半年程の間は登校し、教師と生徒が対面で授業を行う事は出来なかった。入学して間もなく配布されたタブレット端末を用い、回線を繋いで各授業は行われた。顔の表示は義務付けられていなかった為、画面越しに映し出されるのはクラスメイトの名前ばかりで、登校出来るようになってからもそれと名前が一致しない期間があった。
座席は縦に五十音順の出席番号で並べられ、七、八人ずつの列になった。それから席の近い者たちで班を組まれ、それぞれの名字が「あ」「え」から始まる陽子、治哉は斜め前後の関係だった。始業から間もなくグループで制作活動があった際、連絡を取り合う為に皆でグループLINEを開設したのだが、その際陽子のみがまだスマートフォンを持っていなかった為、彼女とは各々がメールアドレスを交換した。無論、昨今では様々な契約や申し込みに用いられるアドレスを容易に教え合う訳には行かないので、彼女以外の者たちは治哉も含め、俗に捨てメアドと呼ばれる予備で交換を行った。
彼女は中学時代、連絡のみの目的で使用する為ガラケーを使っており、高校に入学して間もなくスマホに買い替える事となった。しかし、感染症の流行による配送会社の休業により、四月上旬に到着予定だったそれが届かず、最初の頃は暫しそのままガラケーの使用を継続していた。グループ活動が終わった頃に、メールアドレスを引き継いでスマホを使用する事になったというので、治哉は連絡がある度にそのアドレスを利用して伝言を送っていた。最初の頃彼女は体調を崩す事が多く、連絡係が必要だったのである。
そうした事務的な連絡を取り合っているうちに、県内にあるあちこちの大学から模擬講義や特別授業の募集要項などが届いたりし始め、ある日欠席した彼女に治哉がそれを伝えた時、
『榎木君は何処か希望があるの?』
陽子はそう尋ねてきた。普段は事務的な連絡しか取り合っておらず、彼女が治哉の私的な予定について容喙してくる事は初めてだったので、治哉自身は大袈裟な言い方をすれば、面食らった。意外に思うと同時に、少々面映ゆいような、女子との交流をあまり持たない内向的な少年特有の漫ろな気分を味わった。
参加するつもりだった治哉がそこで返答し、何処に行くかは決めていない、と言うと、彼女は自分の希望を口にした後で「着いて来る?」とまた尋ねた。その際、互いの趣味や嗜好にまつわる事、およそ初めてともいえる私事を話したのをきっかけに、その趣味に関連する事で街の方に遊びに行かないか、と誘ったり、他の外部講義には申し込まないか、と話したりするようになり、結果的に「よく分からない関係」というものが出来上がった。
よく分からない関係と言葉にすると、何処か滑稽で不得要領に思われるが、治哉は自分と陽子との関わりに、他に表白する術を持たなかった。結局、二人ではLINEを交換する事もなかったし、休み時間などに一方から絡みに行くような事もなく、廊下で擦れ違えば挨拶をしたり、電車でたまたま近くに乗った時に教室まで一緒に歩いたりするだけだった。メールの内容も単に事務的ではなくなったものの、共に校外へ出掛ける日に予定を確認したり、提出物に不明瞭な点があった時に質問をする程度に留まった。
イニシアティブがどちらにあったのかは不明だし、そのような概念が存在するのか否かも怪しいが、陽子が言い出さない以上LINEの交換を切り出したり、離れた場所からでも雑談をしに行ったりする事に積極性が生じなかったのは、治哉自身の童貞性ともとれる他律的な遠慮による結果だった可能性が否めない。高校で治哉が把握した情緒とは、図々しいと思われる程軒昂とした人間が、交友関係を広げてその中心となるし、異性とも親しくなるという事だった。反対に、それをしない人間はごく自然に、誰かに特別な意思がなくても掻把されていくようだ。
分からないのは、治哉の内面もまた同じだった。
校外学習で陽子を外出に誘うのは、主に治哉からだった。その際、彼女が了承の返答をすると、治哉は、よし、と心の中で快哉を叫んだ。そして、当日が近づくとそれを楽しみにしている自分が居た。その機微を、若年の逸楽にも似た恋愛と名付けられれば簡単だっただろう。だが、当時から治哉の中に居た客体的な自分は、これが偶像崇拝の如く浮泛なものに過ぎないと分析していた。
中学時代、終盤でたまたま席が連続して近かった女子生徒が居た。その女子は生徒会長を務めており、秋に後輩たちへ仕事の引き継ぎがあった時、尋常でない繁忙に身を置く事となった。彼女は私立高校への推薦入試を目指していた為、早期に受験対策が始まり、生徒会の引き継ぎと共に怱忙を極めた。その反動が祟ってか、彼女は冬期に学校を休みがちになり、治哉は彼女が登校してきた際はノートなどを欠かさず見せたり、配布されたプリントの整理に手を貸したりした。
その時治哉は、長い間席が近く、共に学級の仕事をしたり、談笑する事の多かった彼女に、少々他の女子とは一線を画した情緒を感じ始めていた。中学時代にそのような艶聞の沙汰を作るなど下らない、と思いながらも、そうなったらどれだけ良い事だろう、と、漠然と夢想していた。
それでも、卒業してしまえばそれだけの事だったのだ。式から数日経てば喪失感を抱く事も特になく、当然の結果というような納得が兆していた。式では彼女の方から今までの事に対して礼を言われ、写真を撮ろうとも誘われたが、当時携帯電話を持たなかった治哉の手元にそれは残らなかった。
高校に入ってから、惰性としか思えない恋愛はしばしば目にするようになった。それは、ある意味ではチャンスであって、また所詮はチャンスに過ぎないのではないだろうかと治哉には思われた。
色欲や所有欲、優越感が伴わない恋愛は有り得ない。しかしそれを、人間に残された神秘への渇望へと昇華し、更に美しいものへと脱胎させるには、自分たちは若すぎるのではないか。根源的な欲求から異性を求める衝動は、究極的には誰でもいいという事であり、男女で求め合うその波長がたまたま何かの機会に、それこそ席が近かったり、往来で道を尋ねられたりした時に、暗黙の了解的に結合した結果、惰性ともいうべき慣性の、最初の誘因が与えられるのではないか。
その思惟が、年にもなく老いづきすぎている、とは自分でも感じていた。だが、恋に盲目になれない者特有の達観が、陽子との例を前にして治哉を無視出来ない程に邪魔していた。また自分の内気も、それに相俟った。
相田陽子とは、自分にとって何だったのだろう?
治哉は、もう一度自問する。感傷とはまた違った心持ちで佇むその上に、校門の方から流れてきた桜の花弁がまた降り注いだ。
電車の音が聞こえてきた。
「ヤバっ、ちょっと長居したかも」
陽子は欄干からぴょんと跳び退くと、治哉に尋ねた。
「この後、榎木君は何か予定とかあるの?」
「いや、特には。でも、S**駅でお昼でも食べて帰ろうかなって思ってる」
「そうなんだ。私も着いて行っちゃ駄目?」
治哉は顔を上げる。「いいの?」
「いいって、何が? ……まあ、ヤバいって言っても、私のS**駅から帰る電車も四十分後なんだけどね。今来ているこれを逃すと、ぎりぎりになっちゃうし。出来れば私も、お昼食べてから帰りたかったんだよね。家に着くのも大分遅くなりそうだから。……で、榎木君はいい?」
「別に、大丈夫だけど」
「じゃあ、急ごう」
陽子は言うや否や、身を翻して駅の方に駆け始める。治哉は釣られ、足が縺れそうになりながら後を追った。
彼女は、本当にただ昼食の時間が欲しいだけのようだった。自分を誘った事にも、そこまで深い意味はないのかもしれない。だが、それでも別れを言うでもなく同行を求めた理由こそ分からない。
何を考えているのか読めないのは、彼女も同じだと思った。