「仙台文学聖地巡礼」
(初出 note、2023年5月30日)
藍原センシです。今回私は、仙台の文学にまつわる話をしようと思います。尚、スライド中に使われている画像の引用元等につきましては、発表の最後に一覧として表示させて頂きます。
仙台文学館をご存知でしょうか。仙台にゆかりのある近代の文学者や、文学作品を展示している博物館です。青葉区、台原森林公園の西側に隣接しており、ここF**大からバスで約三十分の距離にあります。
仙台は古くから「学都」で、多くの若者が学びを深めてきました。理由は、東北で唯一の政令指定都市、という事に留まりません。現在活躍している小説家・伊坂幸太郎さんは千葉県出身ながら、東北大学法学部を卒業し、そのまま仙台で執筆活動を行っています。彼の小説の中にも、仙台を舞台にした作品が数多く発表されています。
私は趣味で、SNS上で詩や小説の創作を行っています。当然のように、読書も好きです。こちらの画像をご覧ください(スライド中の画像を示す)。私の蔵書の一部なのですが、とにかく多読で、現代のミステリやエンターテインメントから、文豪と呼ばれるような先人たちの作品、果てには、数は少ないですが古典もあります。特に創作を行い始めてからは、文章力や教養の獲得を目指して、先人の作品群を多く読むようになりました。
昔は作家デビューとして、書生や弟子入りが一般的だったので、文壇上での作家同士の繋がりが、現在よりも親密でした。そこで一度文学の世界に足を踏み入れると、彼らの残した私小説やエッセイに触れ、「この人はあの人の弟子だったのか」とか、「この人とこの人は、一緒に雑誌を創刊したんだな」とか、「この人たちはライバルで、文壇でこのような論争を繰り広げたのか」などと思い、興味が際限なく広がっていきます。当然、作品のみならず、文学者その人に対する興味も湧きます。
私は仙台文学館や仙台市図書館のような、彼らについて大々的に取り上げ、専門的に学べる、という場所よりも、街中をぶらりと歩いていると不意に現れる縁の地、大きく宣伝はされないものの、文学者たちの小話に触れられるようなスポットを知る事、を特に好みました。いわゆる、聖地巡礼のようなものです。
古い時代の作家たちの思い出として言及されるような場所に実際に足を運び、かつてそこにあった彼らのドラマに思いを馳せる。そうしていると、難しい本が敬遠されがちな近年ですが、文学に描かれているものがすんなりと自分の中に入り込んでくるような感動があります。
仙台駅の駅裏にある初恋通り、及び藤村広場も、そんなスポットの一つです。宮城県塩釜市に本社のある「鹽竈神社」の摂社の参道である初恋通りですが、その摂社がある位置にはかつて、東北学院で教鞭を執っていた島崎藤村の下宿「三浦屋」がありました。
「まだあげ初めし前髪の」という始まりで有名な「初恋」という詩を、中学校や高校の教科書で触れた方も居るのではないでしょうか? その詩が収録されている『若菜集』は、ここで執筆されたものです。
島崎藤村とは、どのような人だったのでしょうか。
彼は一八七二年生まれ、文壇への登場は一八九六年、明治時代の作家といえます。教員時代に北村透谷らと知り合い、一緒に「文学界」という雑誌を創刊します。特に『若菜集』を始めとする四冊の詩集を出してからは、土井晩翠、仙台駅地下を歩くと流れている「荒城の月」の作詞者ですが、彼と並んで「晩藤時代」と言われるほど賞賛されました。
ですが、これら四冊の発刊後、彼は次第に詩作から離れるようになり、小説の執筆を始めます。七年間をかけて長編小説『破戒』を自費出版すると、これが夏目漱石などからとても賞賛され、小説の道に入ります。
まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり
やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり
わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情に酌みしかな
林檎畑の樹の下に
おのづからなる細道は
誰が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ
(青空文庫『若菜集』より転載。ルビはそのまま)
これが、「初恋」の全文ですね。とても甘酸っぱく、ロマンスを感じさせる作品です。『破戒』の中に、この林檎畑を思わせる光景が回想として出てくるので、私は藤村自身の思い出が詩になっているのかな、と推測していますが、確信は持てません。しかし、林檎畑のモデルとなったと言われている場所は、現在の長野県小諸市にある松井農園という場所で、藤村が生まれたのも現在の岐阜県の、一度長野県に組み込まれた中津川市馬籠に当たる場所なので、可能性はあります。
私は行きつけの美容室が初恋通りにある為、予約時間より早く着くと、藤村広場で読書をします。近くに駅や繁華街があるとは思えない程静かなのです。ベンチに腰掛け、風を感じながら藤村の本を読めたら最高なのではないか、と思いますが、まだ藤村広場で藤村の本を読む事は実行出来ていません。でも、少し難しめの本を読むと理知的な若者と思われるかもしれません。学生時代の島崎藤村もよく読書をして、松尾芭蕉などの古典も嗜んでいたといいます。
松尾芭蕉も、『おくのほそ道』で仙台を訪れた際の紀行文を残しています。彼の目的は、仙台に滞在していた同じ俳人、大淀三千風に会う事です。私の最寄り駅は薬師堂という場所なのですが、その近所に大淀三千風の供養碑があります。三千風は伊勢の国出身の俳人で、松島を見に来たついでに仙台に十五年間も滞在しています。
彼は、どのような人なのでしょうか。彼は松尾芭蕉が会いたがるような人なので、俳聖と言えるような人物で、特に即興で次々に俳句を詠む「矢数俳諧」の話が有名です。仙台時代、一晩で三千句を詠むという「独吟三千句」に成功しました。それは『仙台大矢数』という句集にまとめられ、出版されます。
しかし、三千風の著作は、現在全くといっていい程販売されていません。Amazonなどで検索して頂ければすぐにお分かりかと思いますが、書店にもインターネットにも「彼の本」としての作品は出回っていないのです。見つかるのは専ら俳句を刻んだ短冊や研究資料で、その数も非常に僅少です。古典だし、芭蕉に比べればマイナーなので、仕方がないのかもしれません。
では何故、私がそのような人物を知っているのか? これは、初めて古典を授業以外で自主的に読もう、と思う程興味を持った人物が、井原西鶴だったからです。『仙台大矢数』の編纂事業を三千風から受け継いだのは、井原西鶴なのです。
井原西鶴は、古典でありながら、現代の人々にも作品を嗜まれている非常に稀有な人物です。当時は元禄時代でしたが、町人、武士問わず多くの読者を得ました。
その理由の最たるものが、ジャンルの多様性です。貧しい町人が出世する姿を描いた『日本永代蔵』などの町人物、男女の色恋沙汰を描いた好色物、仁義を重んじ、武士の誇りや剣術を描いた武家物など、どのような身分の人にも好まれるジャンルを作っていた為、多くの人々から喜ばれたのだと思います。また、先程の大淀三千風が得意とした矢数俳諧の創始者でもあり、近代でいえば「文豪」のような存在だったようです。
江戸時代、身分を問わず多くの読者を得たベストセラー作家、西鶴ですが、彼自身は仙台を訪れた事はありません。ただ、『好色一代男』という小説に、仙台に関する言及があります。
このような文章です。一文が長いのでカットさせて頂きました。
仙台につきてみれば、この所の傾城町はいつの頃絶えて、その跡なつかしく、松島や雄島の人にもぬれて見むと、……
傾城町とは遊郭の事ですが、仙台藩ではそれらが取り締まられ、城下町ではなく、松島観光や鹽竈神社の参拝を背景に、周辺の町々にそれらが作られていた事が窺えます。歴史的資料としても大変参考にはなりますが、ここまで行くと「仙台文学聖地巡礼」というテーマからは些か脱線するので、控えさせて頂きます。
その鹽竈神社の仙台にある摂社が、かつて島崎藤村の下宿だった、という話は既に述べた通りですが、宮城に縁のある作家として、もう一人忘れてはいけない人物が居ます。それが志賀直哉です。かの芥川龍之介は、島崎藤村を「老獪な偽善者」と忌み嫌っていたそうですが、それと対照的に、彼の最大のライバルでありながらも、この人にだけは敵わない、と思っていた人物が志賀直哉だったそうです。
彼は生涯で二十三回も引っ越しをしており、本州全域を回っています。生家も石巻市住吉町にあると言われていますが、正確な位置までは分かっていません。その為、特に「縁の小説家」とは言えないのかもしれませんが、彼は「小説の神様」と称される程優れた作品を数多く発表しており、近代文学のみならず、現代の小説家にも多くの影響を与えました。その志賀直哉の生誕の地が宮城県である事は、誇りに思うべき事だと私は考えます。
その志賀直哉の、生涯を通しての親友が武者小路実篤です。志賀は学習院中等科に在籍していた頃、三年次と六年次に二回落第し、二つ年下の武者小路実篤と同級生になりました。二人は親友として心を通わせながらも、決してお互いに甘くなく、切磋琢磨し合いながら文学の道を極めました。老年期、志賀の手作りの杖を彼とお揃いで貰った武者小路は、「この杖を使うと志賀と一緒に居るような気がする」と語っています。
また志賀直哉は夏目漱石を尊敬していましたが、彼が漱石から、東京朝日新聞の小説連載を依頼されたのも、武者小路の仲介によるものでした。
当時志賀はまだ無名で、尊敬する漱石からの指名は非常に喜ばしい事だったので、一念発起して仕事に取り掛かりました。しかし、思うように執筆が進まないまま締め切りが迫ります。このままでは紙面上に空白が生まれ、漱石のせっかくの好意を台なしにしてしまう、と考えた志賀は、島根からわざわざ上京し、直接謝りに行ったそうです。漱石はその謝罪を正面から受け止め、理解を示しましたが、志賀自身はいつかリベンジを果たしたい、と切望するようになりました。ですが、漱石はその二年後亡くなってしまい、志賀は非常に悲しんだそうです。
その漱石も、仙台を訪れています。彼は松島の瑞巌寺にお参りをし、小説『草枕』の中では青葉区にある大梅寺に言及しています。「泰安さんはその後発憤して陸前の大梅寺へ行って修行三昧ぢや。今に智識になられやう。結構なことよ」というのがその全文です。
「とかくに人の世は住みにくい」という言葉は、『草枕』を知らなくても、耳にした事のある方は居るのではないでしょうか。『草枕』は、そのような「住みにくい」人の世を離れ、自然の中にある温泉宿を訪れた芸術家の物語で、「どこに越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る」とあります。私が最初に『草枕』を読んだのは二年前で、当時は難しいと感じましたが、最近になってようやくこれらの言葉にはっとさせられるようになりました。
漱石は教員をしていた時のトラブルから神経衰弱を患っており、またこれまで触れてきた志賀直哉は父親との確執を抱え、島崎藤村も、今回は詳しくは語りませんでしたが、「親譲りの憂鬱」という、家族を包んでいた暗い雰囲気に悩んでいました。
今まで、国語の教科書に登場した文豪たちの作品を思い出してみて下さい。教科書が違うという方も居るでしょうが、私が高校時代に使用していた教科書は、この「精選国語総合」と「精選現代文B」の二冊でした。
死の影が付きまとう志賀直哉の「城の崎にて」は、実際に志賀自身が山手線に撥ねられ、重傷を負いながらも命拾いをした事、その療養で訪れた兵庫県城崎温泉で三種類の動物の死に立ち会った実話から来ています。夏目漱石の『こころ』は、度重なる胃潰瘍に悩まされ、臨死と再生の中で、人間のエゴイズムを追究した作品です。梶井基次郎の「檸檬」にも、彼自身の患っていた病気の影が色濃く差しています。
ここまで聴いた皆さんの中は、「もしかして文豪と呼ばれる人たちの界隈って、病んだ空気が漂っていたのでは?」と不安になった方も多いでしょう。芥川龍之介も、晩年は「将来に対する唯ぼんやりした不安」を抱えており、晩年の『侏儒の言葉』という直言集には「人生は地獄より地獄的である」という言葉すら書かれています。
ですが彼らは、それらの「暗さ」「生きづらさ」を、芸術の域に昇華した人々なのだろう、と私は思います。私の友人に、こういった昔の人々の文学作品を勧めた時、その人は感想としてこう言いました。
「物語自体が仕掛けに富んでいたり、ストーリーがエンターテインメントとして面白い、という訳ではなかったけれども、何処か心に引っ掛かって残るものがあった」
文学とは何なのか、という議論は昔から度々行われてきましたが、私はこの友人の言葉に、文学の真髄のようなものがある気がしました。
一昔前は難しい本を読む人が多かったのか、私の母も若い頃、江戸川乱歩や司馬遼太郎、吉川英治、池波正太郎といった作品に親しんでいたそうです。我が家の本棚を見ると、それらの痕跡と思われる書籍が多数存在しています。近年は書店の減少もあり、多くの文学作品が姿を消した、という印象が私にはあります。
ですが、それらを書き綴ってきた先人たちの縁の地や、彼らの足を運んだ名残りを回り、彼らの存在を身近に感じる事は、難しいと思われる作品に興味を持つきっかけになり得る、と私は思います。更に、優れた作品の数々を、文化として将来に継承する事にも繋がります。
以上で、発表を終わります。ご清聴ありがとうございました。
(大学の授業内で行ったプレゼンテーションの原稿より。都合上一部改変あり)