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未分類  作者: 藍原センシ
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「ロマン主義とサブカルチャー」

(初出 note、2024年1月13日)


 純文学と大衆文学との別についての議論は、最早結論を出す事すら馬鹿馬鹿しい程に昔から繰り広げられてきたが、私は読書をしながら「これはどう考えてもエンターテインメントではない」と思う作品に出会う事がある。そして、ある一定の特徴を持った作品には、私はそれ以上の条件を抜きにして「並みの小説ではない」と判断してしまう。無論私は、純文学が大衆文学よりも高次に位置している、などと言うつもりはないが、これは頭で考える事を抜きにした肌感覚なのである。

 三島由紀夫の初期作品をご存知だろうか。十六歳の処女作「花ざかりの森」を始めとし、「苧菟(おっとう)瑪耶(まや)」「彩絵(だみえ)硝子(がらす)」などだ。言葉で説明する事は困難を極めるが、これらにはある種の詩的情緒が感じられる。比喩表現や幻想的な設定にそう思わせる理由があるのかもしれないが、こういった作品の特徴を拾っていくと、ロマン主義的というところに行き当たる。

 ロマン主義とは、一言で表せば「主観」の精神運動だという。恋愛賛美や中世への憧憬、ともいわれるが、そういった事柄を一つ一つ掘り下げては紙面が足りなくなるので省略する。ただ、根底に実存に対する不安があり、夢や神秘、憂鬱や苦悩がしばしば作品に現れる。三島の「花ざかりの森」は、主人公「わたし」の祖先に関する物語で、全体に「わたし」の追想が満ちている。「わたし」はしばしば「祖先」と出会うが、この追想の出来事が私にはロマン主義の特徴を最も顕著に表していると感じられる。物語の終盤で描かれる「客人(まろうど)」の不安は、「死ととなり合わせ」、「死に似た静謐」とされるが、これは実存的不安の色濃い反映である。「主観」の世界観が、自らの終わり(=死)と共に崩壊するような、または自分の内面で起こっている出来事が外界に直結するような描き方、とでもいうのだろうか。

 そういった描写方法には、語り手の視点を通して見た世界で、あらゆる外物が幻想的に見える効果がある。木漏れ日や路傍の花、川面で反射する日光など、外界の一部分を切り取り、「主観」を通じて比喩的に描けば、何となく幻想を描いているように見えてくる。逆もまた然りで、そういった比喩的な、主観的な情景描写を多用すれば何となくロマン主義のような気がする。

 例えば国木田独歩の「武蔵野」だが、この作品は情景描写に徹しており、同時に詩趣も漂っている。そして、「自分は」という言葉が序盤から繰り返し現れる。これといった物語の筋はないが(「武蔵野」自体随筆か小説かという事で意見が分かれている)、ロマン主義的な描写が典型的な大衆文学とは一線を画しているように感じられる要因も、「武蔵野」はよく体現している。

 私は、大衆文学は「筋」が重視されると考えている。どのような人物がどのような場面で登場し、どのような出来事や事件が起こり、どのようにそれが盛り上がりを見せて終幕に至るのか、という流れであり、鉄道旅行に喩えると路線の中継地点である各停車駅が重視されているといえる。他方、ロマン主義的な作品はこの各停車駅を見ないとしても、車窓に映る風景で事足りる。「武蔵野」はまさに、この喩えが分かりやすい作品である。

 と、ここまで述べると、「ロマン主義は大衆向けになり得ないのではないか」という問いに行き当たる。これは、決して「純文学とはロマン主義である」という命題ではない。ただ特徴として、ロマン主義の傾向を汲んだ作品からは、娯楽的な目的が一目で分かる程に排除されている、という見方が出来る。

 これを考えるに当たって、そもそも娯楽の範囲とは何処から何処までなのか、という事を(つまび)らかにせねばならない。

 純文学と大衆文学は、文学のみならぬ文化全体に布衍した時、ハイカルチャーとサブカルチャーに置き換えて考える事が出来る。この二つの言葉が定められたのは第二次世界大戦後、一九五〇年代頃らしいので厳密には置き換える事は難しいが、ハイカルチャーが教養や地位があって初めて享受出来るもの、誤解を避ける言い方をすれば格調が高く、知識のない状態でその味を感じる事が難しいものとすれば、サブカルチャーは味わうのに制約が生じないもの、といえる。サブカルチャーは元々は「少数派集団の文化」という意味で使用されていたが(いわゆるヲタク文化)、現在ではそれら、アニメや漫画、ロックンロールなどが広く普及し、最早少数派という意味では扱いきれない為「大衆文化」と置き換える。

 味わうのに制約が生じない、という事は、即ち研究目的で接しなくても「文化」を享受出来るという事であり、私は「娯楽」をこのように定義する。即ち、サブカルチャーに属するものは、如何に起源が反体制的なキャンペーンや、多数派に対する反発から生じたものであっても、現在では間違いなく娯楽であるという事である。その上で、ロマン主義とサブカルチャーが本当に迎合しないのか、という疑問について分析する。

 ロマン主義的な表現を行う事は、それ程困難ではない、と先に述べた。主観的な情景描写の多用がそれだが、ここには肌感覚を覚えさせるのが簡単であるからこそ一つの危険が付きまとう。それは、ハイカルチャーとしての芸術的意図を持って創作を行い、手法としてロマン主義を用いると、成功すれば高尚な作品となるものが一瞬でやたら冗長な、外連(けれん)味の溢れる愚作と化す事だ。

 ロマン主義の精神は「主観」であり、作者自身の精神世界を覗くには作中世界の観測者的な存在、語り手でも主人公でもいいが、それに感情移入するしかない。これはアニメーションで可視化するのは、非常に難しい事だ。また、音楽で表現するに当たっても、歌詞をロマン主義的な表現にするだけではいけない。楽曲の意図が読み解かれ、そこに面白さが生じる事を目指して「届け」と願う事と、「受け手側に楽しんで欲しい」という願いは別物だからだ。近年の音楽(クラシックなど以外)でこれを考えると、歌詞から「物語」が考察され、そこに醍醐味が見(いだ)されたのでは失敗であると同時に、曲調が好まれて「好き嫌い」が分かれても──つまり、曲を聴いて楽しむ事自体が楽しまれたら──、娯楽としての目的を脱していない事になり、また失敗とされるジレンマがある。

 そしてこれらの例を見ると、ロマン主義の目的は「娯楽」によって達成される事がない、即ちサブカルチャーに落とし込む事は出来ない、出来たとしてもそれは雰囲気だけ、という結論に至る。そしてロマン主義的な挑戦の失敗は、同時に「筋」としての面白みも失うという危険をも孕んでいる。ロマン主義を方法として扱った時、結果として出来上がるものは、大衆文化の無難な味わいを超越した芸術か、或いは絶対的に価値の見出せない駄作かのどちらかである。

 三島由紀夫は、ロマン主義的な情緒の漂う自作「花ざかりの森」について、新潮文庫の自選短編集『花ざかりの森・憂国』の解説にてこれを「私はもはや愛さない」と言い、次のように述べている。


 一九四一年に書かれたこのリルケ風の小説には、今では何だか浪曼派の()()()と、若年寄のような気取りばかりが目について仕方がない。十六歳の少年は、独創性へ手をのばそうとして、どうしても手が届かないので、仕方なしに気取っているようなところがある。(傍点筆者)


 三島の言う「浪曼派」は、表記からして厳密には一九三〇年代後半に興った文学的思想「日本浪曼派」の事を指しており、従来のロマン主義とは細かな差異があるのだろうが、三島は作品に漂う情緒を「気取り」とした上で、それを浪曼派による「悪影響」とはっきり言っている。三島は反近代主義と日本の伝統への回帰を謳った日本浪曼派について、「私の遍歴時代」の中では「戦争中のこちたき指導者理論や国家総力戦の功利的な目的意識から、あえかな日本の古典美を守る城砦であった」と述べてはいるが、四十代になってからの「花ざかりの森」に対する自己評価の方は、(けだ)しロマン主義の系譜にある表現者たちが陥りやすい陥穽をよく表しているだろう。

 ロマン主義的な技巧を凝らした作品は、一見すれば絶対に大衆文学とは読み取れない空気感を持っている。だが、だからといって全てが高次に属する作品群とも言い難い面がある。また、純文学と呼ばれるものを書こうとし、ロマン風の手法に安易に走るのも危険だといえる。

 特に、大前提としてロマン主義はエンターテインメントと溶け合わない。それを考えながら、サブカルチャー、ハイカルチャーという言葉と文化の位置づけや扱い方について再考する必要がありそうだ。蛇足かもしれないが、現代に於いてよく用いられる「ロマンチック」という言い回しが、最早元来のロマン主義を想起させる言葉として適切でないのは確かだろう。

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