「私を作った数々の言葉」
(初出 note、2024年1月11日)
たった一つの言葉に出会い、その瞬間に人生が一変する、という経験は、私にはない。それ程の重みを持った言葉が存在しない、と断言する事はしないが、たった一言で変わるような人生では浅薄すぎないか、と思う自分も居る。というのには、まだ私が年若く、人生経験が僅少だという理由も含まれるが。
だが、時に言葉は私たちをはっとさせ、即効性は感じられなくとも知らず知らずのうちに影響を与え、その後の価値観や行動に微妙な変化を生じさせていく事がある。大学一年生である現在の私が出来たのも、中学生や高校生といった人格形成期に与えられた幾つかの言葉が影響しているらしい。
「日々是決戦」は、中学三年生の時、国語科の教師から授業開始時に配られた紙に書かれていた言葉である。その教師はこれを、授業内で配布したプリントをまとめるファイルの内側に糊付けし、ファイルを開く度に見えるように、と言った。これは、毎回の授業を真剣勝負だと思って受けるように、という事を意味していたのだろうが、私は授業に限らず、その後もこの言葉をモットーとするようになった。常に昨日の自分を越える、というような、あらゆる挑戦や作業に於いて悔いが残らないように、というような。由来は今でも分からないのだが、どうやら代々木ゼミナールでこの言葉を目にしたという人が多いようだ。
或いは、「理解できるアドバイスなら、そもそも聞く意味なんてないのさ」という言葉。これは、Amebaブログ「笑えるスピリチュアル」を運営しているさとうみつろう氏の著書『悪魔とのおしゃべり』(サンマーク出版)から。私が中学一年の時、同氏の『神さまとのおしゃべり』(ワニブックス)と一緒に母が購入し、私も借りて読んだ。この二冊の本が私の基本的な価値観の下敷きになったのは間違いなく、その斬新な発想はここで紹介しきれるものではないが、先に挙げた言葉は『悪魔』の方を象徴するような言葉である。
大雑把に説明すると、「理解できる」という事は「自分の中にあらかじめある知識で消化出来る」という事であり、それを超越した収穫は得られないという事だ。だから、全く理解出来ない、自分には受け入れ難いと思う事にこそ新たな発見や啓発があるというメッセージになっている。
あまりにもショッキングな内容であったり、型破りであったりすると、忌避しがちになる。だが、それは心の何処かに残り、その後に影響を及ぼす事もある。私が積極的に様々なものを吸収し、批判をする事もあるが、そうなったのにはこの言葉が影響している。それまで小難しい印象があり敬遠していた日本の近代文学を漸進的に読むようになったのにも、何となく効果があるらしい。
アニメでは、谷口悟朗監督の『コードギアス 反逆のルルーシュ』が私に言葉を残した。主人公ルルーシュを代表する台詞、「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」というものだ。ギアスは高校入学から間もなくAmazon Primeで視聴し、私のアニメ巡りの嚆矢となった作品で、現在でも自分の「好きなアニメランキング」で一位に君臨している。
この台詞がルルーシュから飛び出した理由について、ここで詳しく語る事は避けようと思う。ただ、私はこの言葉を「撃つなら撃つなりの覚悟を決めろ」と言い換えられると考えており、この「撃つ」は何にでも置き換えられる。自分のした事に責任を持て、とも捉えられるし、叩かれるのを嫌がりながら他人の事を叩きがちな現代人への警句のようでもある。
大切な言葉は神話からも得た。北欧神話を伝える資料のうち、「詩のエッダ」と呼ばれる古詩群があり、その中の一つ、「高きもののことば」(原題:Hávamál)、主神オーディンの箴言より「ひとりで旅をして道に迷った。人に会えたとき、豊かな気持ちが湧いてきた。人は人にとって喜びなのだ」という言葉(杉原梨江子氏『いちばんわかりやすい北欧神話』から引用)。私は中学二年の頃、北欧神話が好きでそれらの資料群をしばしば読んでおり、杉原氏の著書に登場した「オーディンの箴言」にも目を通していた。全体的に「熱く燃える恋心が賢い男を愚か者に変える」「愚か者は自分に笑いかける者はみな友人だと思い込む」といった、誇り高いながらも貪欲で狡猾なオーディンに相応しい毒舌が多かったが、この旅と人に関する名言は希望を感じさせる言葉であった。
私は、当時あまり他人と積極的に関わろうとはしなかった。友人は居る事には居たが、好尚として他人と一緒に居るよりも一人で過ごす時間の方を好んだ。中学校の同級生は小学校から同じだった人が多く、無邪気に付き合えた者たちからそのまま交流を広げ、中学でのコミュニティを作った為、友人を作る事に伴う困難や不安をそこまで意識した事がなかったからかもしれない。しかし、高校時代に同じ中学から進学した者が誰一人居らず、また新型コロナウイルスが世界的に流行を始めた時期で登校出来ない日も多かった為、そこで初めて「友人を作る事は、本当は難しいのかもしれない」と思った。
高校以降は自信を持って「誰かと居る時間の方が一人より楽しい」と言えるようになったが、そう考える度ふとオーディンの言葉が蘇り、ああ、その通りだな、と実感する。「高きもののことば」が編纂されたのは十世紀頃で、収録された古詩は更に古いものばかりだが、非常に現代にも通ずるものがある。
そして、思い返せば私の転換点になった、と思うのが、伊坂幸太郎さんの小説『砂漠』に登場する「俺たちがその気になればね、砂漠に雪を降らすことだって、余裕でできるんですよ」という台詞との出会いだった。
『砂漠』は現在のような私の読書が始まったきっかけともいえる作品で、中学三年の夏に読んだ。この台詞は西嶋という登場人物が発するのだが、私がこれに酷く心を揺さぶられたのも、さとう氏『悪魔とのおしゃべり』にあった「不可能とは『正しさ』を乗り越えられない者の言い訳」という言葉に事前に触れていた事が大きかったらしい。西嶋は極端に熱く真っ直ぐで、友人からは「臆さない」性格だと評される。彼は常に自分とは関わりのない不幸に憂えており、米国が中東に軍事侵攻しようとすれば平和を願って麻雀で「平和」を上がり、仙台市内で米国大統領を探し回る通り魔にも共感を覚える。そして、周囲がそれらを「馬鹿馬鹿しい」「無意味だ」と言うと、批判者の無関心や諦観に逆に苦言を呈する。
「自分を信じている」とも言われる彼は、憂えはするものの不可能を初めから自分で定めない。世の中に諦めを抱き、その中でせいぜい上手く世渡りをしよう、他人がしているように自分も利己主義に生きようと考える人間が増え、それが世の中を知った大人だ、暑苦しいのは若い者の理想論だ、というような偏見が蔓延する中、この言葉は無様でもいいから自分の理想を追求しよう、という考え方が、決してフィクションの中の主人公だけのものではないのだと思わせてくれる。
言葉との出会いは、その瞬間からすぐに天窓を開き、見える世界を一変させるものではない。経験則から、私はそう思っている。だが、行動や判断基準にそれらの影響は徐々に表れ、私などは今から振り返ると「あからさますぎるな」と苦笑を禁じ得ない事もある。特に創作を行い、自ら人物や彼らの所属する世界を動かしているからこそ顕著に感じるのかもしれない。
だが、私はこれらの影響で自分のオリジナリティが消えるとは思っていないし、むしろ化合し合う事でオリジナリティへと変化していくのだろうと考える。そうして生み出された私の作品から誰かがまた影響を受け、言葉の系譜が生み出されていく事があれば、それは本当に幸甚な事だと思う。