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未分類  作者: 藍原センシ
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「爛樹抄」

(初出 note、2023年4月19日)


 私が中学校に通い始めると、通学路や、それに付随する行動圏は自宅よりも西側の方角に変更された。

 西側、という事を殊更(ことさら)に意識していた訳ではないが、小学校低学年時から、太陽が東から昇り西に沈む、という事は知っていた。朝も帰りも、向かっていく方角が眩しかったので、自宅のある住宅街から大通りに出る方面に行くと西に進むのだ、という感覚はあった。

 高校に通っていた時も、大学に通っていた時も、通勤を行うようになった今でも、私は最寄り駅に向かう為に毎朝大通りを歩く。買い物をしたり、医者に掛かったりする時でも、スーパーも病院もそちらの方面にあるので、(もっぱ)ら自宅より西側の地域に足を運ぶ。住宅街を抜けた先、母校である小学校や保育所がある東側で行動する事は(ほとん)どなくなってしまった。

 社会人となった一年目、勤務先が地元である私は、母の実家であり自身の生家でもある祖父母宅に留まり、そこから毎日通勤していた。だが二年目になると、未知のウイルスによる感染症の世界的流行により、在宅でのリモートワークを余儀なくされるようになった。

 通勤時間がなくなった事で、私は自分の運動不足や、空き時間を持て余す事が気になり始めた。そこで、短い時間を有効活用すべく思いついた事が「散歩」だった。

 私の住んでいる住宅街は、保育所や小学校時代に祖母と散歩をしたような、路地や小径(こみち)が多い。妹や友人と遊んだ、よく日の当たる、野原のような、舗装されていない坂道が整備されてしまったと聞いた時には感傷的な気持ちになったが、本当に長年、近所でありながら足を運ぶ事のなかった東側の地域を歩いてみよう、と思い立ったのだ。

 歩数計をつけながら実際に歩いてみると、これがいい気分転換になった。情報教育が本格的に始まり、デスクワークが増え、画面越しに細かい文字を追うような作業ばかりしてきた反動、という事もあるだろう。

 そうして散歩すると、先述した坂道のような思い出の道が多数なくなっていたり、昔休憩によく座っていた小さな公園のベンチが撤去されていたり、大人になったらここに住むのだ、と無邪気に憧れていたお洒落なテラス付きの家が取り壊されていたりして、時が経ってしまったのだな、という事が実感された。寂しい気分になる事はやむを得なかったが、私がこの街に留まり続けても、景色が変わっていく事は仕方がないのだ、という”当たり前”を確信する事にもなった。


          *   *   *


 横丁を抜けて知らない場所へ出ると、私は気分の高揚を感じた。

 少し住宅街を歩くと分かるが、私の住んでいる地域には、同じような名字を表札に掲げた家が多い。元々ここらは一つの村であり、農地改革により地主・小作制が解体されてからは、土地を持った有力な家々の分家が解体された土地の権利を巡って熾烈な議論を繰り広げたそうで、そういった同じ名字を持つ家々は大抵何世代前かに血縁関係があるのだ、といつか誰かに教えられた。

 そのように由緒正しい、古くからの街なので、碁盤の目に区画整理される事が多い近年の住宅街だが、ここはそうではない。古い街並みがそのまま残っていたりする事も多く、十字路の一本を抜けたら行き止まりに差し掛かった、という事や、小さな駄菓子屋の跡地の脇を抜けたら、用水路に架けられた橋の上に出て驚いた、という事もある。

 知らない横丁に入ると、何処に繋がっているのか分からない。だからこそ、徒歩数百メートルという圏内、往復十五分、二十分程度の場所でも、いつも懐かしくも新鮮な気分を味わう事が出来る。この間などは、くだんの大通りと、小学校裏から出られるバイパスがぶつかる辺りに抜ける路地に、草木の鬱蒼と生い茂った中に半ば埋没した空家を見つけたりして、凄いような気分になった。

 私がいつも、小学校に向けて歩く道の道中に、古いアパートがあった。十字路の一角にあり、私が保育園児だった当時から入居者もほぼ居ない状態で、壁はくすみ、土台の部分にはひびが入っていた。管理人のお爺さんが、私と妹が祖母の迎えと共に帰る夕方の時間帯、いつもそこに立っていて私たちに「おかえり」という挨拶をしてくれた思い出がある。小学生になると、児童が下校する時間帯に旗を持ってスクールゾーンに立ち、「おかえり」と声を掛けてくる父母教師会のPTAには少々困惑していたものだが──「ただいま」と返すのも変な気がして、曖昧に笑みを浮かべて会釈したまま通り過ぎていた──、無邪気な園児だった保育所時代の私は「ただいま!」と元気な返事をして、その老管理人を喜ばせていたらしい。

 その人は、私が小学校に入学する頃に寿命でこの世を去っていた。祖母からその事を聞かされた私がどのように返事をしたのかは、覚えていない。そうなんだ、と至極あっさりした事を言ったような気もする。まだ、人の死という事についてはっきりと分かっていなかったのかもしれない。ただ、もうあの人には会えないのか、と思うと少し寂しくはあったのだろう。

 アパートの横には大きな(けやき)の枯れ木があって、これについては更に印象深い思い出を持っていた。幼い頃の私は、これを「どろどろの木」と呼んでいたそうだ。「どろどろ」というのが何を意味していたのか、幼少期の私の考えなど正確に分かる事はないだろうが、恐らく何通りかの推測は出来る。

 その木は、火で炙られた蝋のように樹皮が爛れていた。何でも昔落雷で、現在のアパートが建っている位置にあった家が燃えたらしく、それが引火したそうだ。或いはこの木に落雷があり、傍の家にその炎が燃え移ったという話もある。雷撃によって真っ二つに引き裂かれた木は、瀕死の身の底から生命力を振り絞って再生しようとしたらしいが僅かに及ばず、爛れを残したまま枯死したのだ。つまり、表皮がどろどろに溶けている、というような意味合い。

 もしくは、そのおどろおどろしい風貌でぬっと屹立する木が、子供ながらに恐ろしく見えたのかもしれない。怪物のようだ、幽霊のようだ、と思った事から、霊的な何かを連想させる「どろどろ」を子供らしく口にしていたのかもしれない。

 私は祖母に手を引かれながら、管理人のお爺さんに元気に挨拶をしてからアパートの前を通り過ぎた後、この木を直視する事がやはり怖かったらしく、上を向いて目線を逸らしながら歩いていたそうだ。その事もまた昔の記憶で、鮮明に思い出す事は出来ないのだが、それは自分の体験として確かな事なのだ、と確信している。というのも、ある出来事が未だに胸に焼き付いて去ろうとしないからだ。


          *   *   *


 ある日の帰り道、私はいつも通り、首を仰向けるようにしながら溶け爛れた木の前を通った。その際図らずも見上げたアパートの、カーテンの開かれた空き部屋の窓から、奇妙なものが見えた。

 それは、油紙で作られた服のようだった。フランスパンを包む、古新聞が印刷されたあの茶色い紙の質感で、パリパリに乾き、皺がそのまま固まったような無数の細かい凹凸が西日を反射しててらてらと光っていた。珍しいものを見つけた、と思い、私は祖母に「あれは何?」と尋ねた。

 怪訝な顔をされたので、あの紙の服みたいなやつ、と補足した。祖母はまだ気付かないようで、立ち止まり、私の見ているものを見ようと視線を上げながら首を捻っていた。私はそのまま言葉を探していたが、やがて少し前を歩いていた妹が()れたように「早く帰ろうよ」と声を掛けてきた。

 私たちは急がざるを得なくなり、歩く速度を元に戻した。

 翌日も、私はアパートの一室を見上げた。そこには相変わらず、前日に見つけた油紙の服のようなものが見えている。だがその日私は、壁が死角となっている事、壁にその”服”が掛かっているのであれば、自分の居る位置からそれが見えるはずがない事に気付いた。カーテンレールに掛けられているのだろうか、と考えると、何だかその服がこちらに少し近づいているような気がした。

 あれだよ、と私は祖母に言った。「昨日見えていたやつ」

「ええー? お祖母ちゃんには分からないけどねえ……」

 祖母は眼鏡を傾けるようにして、前日と同じく窓を見上げた。私があれこれと説明しているうちに、また妹に呼ばれた。私は二日連続で謎が解けなかったので、妹にもそれを尋ねた。

「見えるよね、あそこに、紙みたいな服が?」

「分かんない。それより、早く行こうよ」

 妹は背が低いから見えないのかな、と私は思った。

 確かに、それはあったのだ。気にするようになると、それは日に日にはっきりと見えてくるようになった。窓際に、それは佇んでいるように思えた。頭から油紙の服を被った人影が、無心でそこに立っているかのような。開放された窓から吹き込む風を受け、ゆらゆらと微かに左右に揺れているようにも見えた。

 私は段々、それが本当に人なのではないか、と思うようになった。管理人のお爺さんと同じように、毎日ここで下を通る私たちを見ているのではないか、と。あまりにもはっきりと見えるので、私はそれが祖母たちに見えないはずがない、と思い、懲りずにまたも尋ねた。

「あれだよ。茶色くてパリパリしている服、見えるでしょ?」

「………」

 祖母はまたか、と少々辟易したような顔で窓を見上げたが、その日の反応は今までとは異なるものだった。食い入るようにそれを見つめてから、「ああ」と納得したような声を出したのだ。

「あれは服じゃないのよ。襖っていうの」

「ふすま?」

「お家にもあるでしょう、床の部屋(リビング)と畳の部屋(座敷)の間にある、がらがらっていう扉。取り外して、あそこに立て掛けてあるのね」

「へえー」

 私は、感心したようにそう答えた。だが、自分の家にあるものと同じなら、何故あれ程見た目が違うのだろう、とも思った。幅は広いし、袖のようなものも明確には見えないが、あれは確かに服だ。硬くて、干からびている。薄くて、触れればパリパリと崩れてしまいそうだ。

「それにしても、妙なものが気になるのね、この子は」

 祖母の独白のような言葉を聞きながら、私はもう一度窓を注視した。

 それはやはり、奇妙な服を着た人影にしか見えなかった。頭も胴も、はっきりと区別はつかない。だが確かにそこに佇んで、こちらをじっと見下ろしている。そう思うと、何だか視線を合わせてはいけないような気がして、私はゆっくりと道の方へ目を戻した。

 その途中で、今まで意識して見ないようにしていた木を直視してしまった。私は慌てて目を逸らしたが、その時爛れたような木肌の、浮かび上がるような染みが、人間の形に見えたような気がした。

 目に焼き付いた「襖」の残像と、その人間の形がぴったりと重なったように思い、私は少々気味が悪くなった。おどろおどろしい見た目をした木と、何をする訳でもなく窓際に佇む影に何の関係があるのか、と考えると、何かぞっとするような事を連想してしまうのは、多感な子供の性情だったのかもしれない。


          *   *   *


 翌日の帰り道、「襖」は窓を覆い尽くしていた。

 それが、ずるずると顫動する木肌のように見えて、私は祖母に身を寄せた。どうしたの、と尋ねられても、私は口を引き結び、首を振って答えなかった。

 人影は確かに、あの窓の中に居たように見えた。

 あの人は一体、誰だったのだろう、と思った。


          *   *   *


 その日から何日か続けて、悪夢を見た。

 お気に入りのフォークリフトが見られる大通り沿いの材木店や、保育所の園庭の隅に積まれている、伐採された丸太や木材が、不意に枝葉を茂らせてこちらに蔦を伸ばしてくるという夢だ。私は逃げようとするが、鈍足になっていてそれから遠ざかる事がどうしても出来ない。シュルシュル、という音がやけに生々しく、夢を見た後で目覚めると全身が汗で冷たくなっていた。

 そういった夢から覚める時、私はいつも誰かの泣き声を聞いた。

 それは、啜り上げるような音の混ざった、幼い子供が慟哭するような声だった。広い家の何処かに置き去りにされた子供が、母親に自分の存在を知らせようとして泣き叫んでいるかのような、届いてくれないと思いながらも泣く事をやめられないような悲しげなものだった。

 私はあの時、少し過敏になりすぎていたような気がする。悪夢を恐れて眠れない夜は、暗闇に慣れた目が壁や天井の染みに人間の横顔を見てしまう事もあった。あそこに居たのはきっと、自分と同じ子供だったのだ、と無根拠に信じていたように思う。そして、祖母には見えなかったものに自分だけが気付いた、という事こそが、自分にも同じ運命が待っている事の現れなのではないか、と恐れていた。

 大人になれるか不安になる子供時代が嘘だったかのように、私はごく自然にこうして大人になってしまった。成長して、世間の事を知るに連れて恐れるべきものは増えたが、子供の頃のように、正体の分からない怖いものと出くわす機会は確かに減っていった。

 だが私はそれを自覚した上で、今でもあの時の私が見ていたものが、単に幼心故の根拠なき怯えではなかった事を信じている。私が体験した事は、多感さを忘れてしまった大人には知り得ない、日常のほんの些細な隙間に詰め込まれた現実の一部なのだと思っている。

 私はこの間の散歩道で、草木に取り巻かれて息の根を止められたかのような空き家を発見した。私の妄想などではなく、そのような事は確かに起こり得る事なのだ、という示唆のようだった。忘れかけていた子供の頃、大人になりきれなかった、成仏しきれなかった顔も知らない同類が、置き去りにされ大人から忘れられた場所から、私に訴えかけているかのように思えた。

 私は、自分にも子供時代に置き去りにしてしまったものがあるような気がして、外に探しに行くのかもしれない。誰かの亡骸を抱え、捕らえ続けるあの木を恐れながらも、確かめる事をやめられないのかもしれない。


          *   *   *


 管理人のお爺さんが亡くなってから、大分時間が経った。だが今でもあのアパートは取り壊されていない。元々、あの老管理人には身寄りがなかったのかもしれない、と私は想像した。

 そして、時の流れのままに街が変わっていく事を、仕方がないと実感する。

 先日訪れた時、あの溶け爛れた木と並び立つアパートは、増殖した植物に覆い尽くされて最早手の施しようがなくなっていた。

 私はそれから、あの場所を散歩道にはしていない。

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