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学生運動時代、ノンポリ康一に危険が迫る

連載第3回 <学生運動時代、ノンポリ康一に危険が迫る>


 日大に入学して一年ほど経過した1968年の5月に日大紛争が勃発した。「伽藍工房」誕生前のことだ。芸大志望であったものの授業を受けているうちに「建築」という世界が芸術と工学の両方を併せ持つ崇高な素晴らしい分野であることに気が付きはじめていた。構造力学の授業の次にデッサンの授業が続いたりする。建築という道を選んだことが、結果として幸いであると感じていた。

 だから、このロックアウトには残念な気持ちがあったが、日大の首脳陣の大学経営者としての許せない行為に抗議したい気持ちはよくわかった。五十年後に起きる不祥事まで、日大の経営陣の体質はあまり変わっていないのである。


 康一が通うお茶の水の理工学部にはキャンパスというものがない。付近には明治大学、法政大学があり、それぞれ立派なキャンパスがある。しっかりした塀で、明確に学内と学外の区分けがある。日大も、千葉などに広大なキャンパスはあるが、お茶の水の理工学部、歯学部などにはない。キャンパスの有無は学生の意識の上で、学校愛の上で違いが出る。康一達が主に利用した7号館は、出口を出るとすぐ公道だ。食堂のある5号館に行くにはこの公道を歩いて行くのだ。日大はマンモスでそれなりの規模、資金のある大学である。明治や法政にあって、日大にないというのは、学生を大切にする気持ちが、経営陣に欠けているのではないかと疑ってしまう。


 康一は、暴力と破壊は嫌いだった。腕力が非力だったこともその一因だが、根っからの平和主義者だ。全共闘の力の抗議には賛同はできなかった。行動から見れば「ノンポリ」だが、関心がないわけではない。

 そのころ活発化した全共闘の学生たちは、ヘルメットをかぶりタオルで顔を半分隠しゲバ棒をもって激しいデモを繰り返し、機動隊と衝突していた。大衆団交などでは、同じパターンの口調で相手をなじり、じっくりと相手の意見を聞くことはなかった。このような行動には康一はついて行けなかった。何より物を破壊することが大嫌いで、とても同調はできない。


 高校同期の別な大学の学生たちの中にもデモ活動を行っている者がいた。

「おい、北原、今度デモがあるから行って見ないか?」

 高校同期の仲の良い達川が言う。康一は渋って、

「デモは、気が進まないな」

「フランスデモだから、過激なことはしない。羽生も一緒だよ」

 達川と羽生とは、高校時代に四国まで貧乏旅行に行った仲である。二人は近々デモに参加するという。康一は躊躇したが、平和的な武装しないフランスデモだというので参加してみた。


 フランスデモは許可申請したとしても、その枠をはずれて参加者同士が手をつないで道路幅いっぱいに広がるスタイルである。確かに、おおむね平和的なデモであったが、タクシーなどの一般車両の通行を妨害する行為であり、このデモがどのような効果があるのかは疑問だった。達川は体制批判の大きな目標の為には、多少の道交法違反は、小さなことだ、やむを得ないと言う。確かに、歴史上世界の成功した革命を例にとっても、体制側が決めたルール等を守っていたのでは達成できなかっただろう。革命が成功しその後の社会が平和で民衆のためになったのであれば、そのルール違反は正当なものになる。


 康一は、よく晴れた日に、初めてのフランスデモに疑問を持ちながらも参加した。催涙弾を見舞われることなく無事にデモを終えた。ところが羽生は、たまたま近くにいた見知らぬデモ参加の女学生と何やら会話を交わして口説いていた。波長や意見があったのか、デモの後で行ったスナックバーにもついてきた。このような時に彼女を作るという羽生は、野球部メンバーでどちらかと言えば武骨な男。康一はそんな羽生の自然な堂々としてそつない口説き方に小さな衝撃を受けた。心の内では羽生の積極的な行動をうらやましく思った。自分はとてもそのような行動はとれない恋愛での未熟さを知らされた。またしても置いていかれた疎外感を味わった。

 後日羽生が別のデモの日に警察に逮捕されたことを知った。


 1968年の9月には両国の日大講堂で大衆団交が行われた。康一が二年生の時だ。日大全共闘はその場で古田会頭の辞任の意向を確認し講堂内は大盛り上がりとなったが、その後古田会頭の辞任は実行されず、世間の反応も悪くなって、徐々に盛り上がりがなくなっていった。三年生になる年の1969年の一月には、理工学部部長代行から、学生との対話集会の提案のはがきが康一にも届いたが、紛争解決の進展はないままに時は流れ、翌年の初頭には日大紛争としてはほぼ尻つぼみになっていく。

挿絵(By みてみん)

 康一はノンポリで激しいデモは行わなかったが、この異常事態には一学生として何かをしなければならないと考えていた。ロックアウト中の教室で同じ科の学生数人といろいろな議論を交わしていた。その学友の中の工藤など数人と相談し、ほぼ200名の建築科同期の学生に意見集約を図るための集会の提案はがきを送った。 


 予定通り1971年秋に開催した集会に全共闘の学生がなだれ込んできた。

「何でこんな集会をしているのか、結束を破る気か!」

「どこかのアンチ勢力の手先なのか?」

 

 激しい口調で問いただしてきた。

 予想していない展開に康一は緊張し、

「建築科同期の仲間の意見をまとめたいだけだ」

 過激な全共闘学生を前に、身の危険も感じた。

「純粋に、そういう気持ちで呼びかけたんだ」と答える。

「本当か?」

「本当だ」


 抗議してきた集団は、康一の嘘とは思えないまじめな回答に完全に納得したようではなかったが、結局何もせず引き上げていった。

 工藤も呼びかけ人として康一の隣に並んでいたが、彼はほとんど発言しなかった。あとで彼が既存政党系の学生であったことを知ったが、工藤の正体がその場で明らかになったとしたら騒動になっていたかもしれない。後日、嶋田がその話を聞いて

「康一、危なかったぞ。お前、彼らにやられたかもしれない」

と恐ろしいことを笑いながら言ったのであった。

 工藤は、もしかしたら学校に本当に学びたくて来たのではなく、その政党のための活動の一環としてもぐりこんできたようであった。結果お人よしの康一は騙されたのであった。


 学生運動に参加し、機動隊と対峙し、石を投げていた学生の中には、卒業後に活動などなかったかのように「しれっと」大企業に就職していった者もいて、どういう気持ちで運動に参加していたのか問いただしたい気持ちがあった。単に学生運動の高揚感の中で流れに乗っていただけなのであろうと嘆かわしく思う康一であった。


 「伽藍」に出入りするようになったデモによく参加していた岩山が酔った勢いで新宿3丁目の交番のわきにあったゴミバケツをけ飛ばした。康一はそれをたしなめたが、こういう時のために清掃する仕事をするおばさんがいるのだから良いのだという屁理屈をいったので、康一は怒りが沸き上がった。一緒に歩いている連れがそんな狼藉を行ったら康一も同じ一味になってしまうではないか。そんな理論でデモで暴れるのなら、デモ参加の大義も怪しいと思うのであった。


 この頃衝撃の事件が発生した。1970年の11月に三島由紀夫が自衛隊に乗り込んで檄を飛ばし、自決したのであった。康一達の左翼的立場でも、三島の言動には共感できる部分があった。東大での全共闘学生との対話では、学生からもありきたりな反論ではなく会話を交わし、何か意味のある集会に思えた。康一が古本屋で購入した澁澤龍彦訳のマルキドサド著「淑徳の不幸」に三島が「序」を書いているが、三島の守備範囲の広さに感心をした。

「サディズム」とう言葉の由来となったマルキドサドの小説は「悪徳の栄え」であったが、康一は数々の過酷な体験を強いられる美しい妹を描いた「マゾヒズム」がテーマの「美徳の不幸」の方になぜか惹かれたのであった。マゾの気があったのかもしれない。

 自分も三島のような、従来の慣習にとらわれない、自らのしっかりした判断を自らの責任で自分を確立していかなければならないと、肝に銘じたのであった。

つづく


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― 新着の感想 ―
[気になる点] ご無沙汰です。年賀状で知りました。ありがとう。 [一言] 私のことは書かれてないね?あるのかな。
2024/01/01 18:16 秦佳朗です
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