「伽藍工房」誕生、大谷石防空壕は快適リビング
連載第2回 <「伽藍工房」誕生、大谷石防空壕は快適リビング>
康一はこの建物が単なる住まいではなく何らかの創造のための基地であり、狭いけれど壮大な空間と思うべきことを理由として「伽藍工房」と呼ぶことをみんなに提案した。誰からも異論が出ないので、そのままその名称が定着したが、皆は「伽藍」と略して読んでいた。中にはガラクタ工房などと揶揄する者もいたが、一つの愛着と思って受け流した。
ここで共同生活する事になったメンバーは、予定通り康一と同じ日大建築科の石川と岩井、それと所有者の息子の勝則の友人の平であった。部屋の割り当ては各自がそれほどこだわってなくてスムーズに決まった。康一も希望した部屋に住めることになった。シェアハウスといっても女性は住んでいない。もっとも「伽藍」が存続していた4年間の間、多くの若い女性が訪れていて康一を惑わすのであった。キッス襲来のミー子、康一が本気で惚れた由紀子、康一に気に入れられたくてやってきた数人の女、訳アリの怪しい女、仲間の住人の彼女やその友人等、結構多かったのである。
勝則の父親との話し合いで、家賃は2万円で一人当たり5千円に決まったが、付近のアパートに比べてかなりの低額だ。光熱費は基本的に皆で分担することとし、とりあえず毎月一人当たり5千円負担にした。合計1万円で勤労学生には大変ありがたいものだったが、浮いたお金は結局は新宿や東中野での飲み代に変わることになった。
康一の中学時代からの友人の松本も非常に興味を持ち、彼女のさゆり共々工事中からやってきた。康一が大谷石の部屋と隣の部屋の間にドアを設けようとして、誤って金槌で指をたたいてしまった時にもやさしいさゆりは応急の手当てをしてくれた。二人も大谷石のリビングは、大いに気に入ったようだった。二人は「伽藍」が無くなる時まで良く訪れて、もてない康一の相談相手となってくれたのであった。
この工事中に、勝則の知り合いの学生が血相を変えて文句を言いに来た。
「お前ら、何やってんだ、ここは、俺たちの仲間で使わせてもらうことになってるんだぞ!」
多分全共闘闘士であろうから、康一はひるんだ。
「そんなこと言われたって、こっちはちゃんと勝則とオヤジさんの許しをもらって、計画案も出して、進めてるんだ」
案外に強気で反論した。
文句言ってきた学生は、康一の話を聞いて、しぶしぶ帰っていった。そういうことなら、さっさと話を進めればいいのに、詰めが甘いんだよ。康一達は、手際よく話を進めて、ここまで工事が進んだので、まず確実に住むことができるだろうと安堵した。
そして、1971年の春には、いよいよ住み始めることになった。
携帯電話など無い時代で、個々の部屋に電話を引くことも非現実的である。よく、タバコ屋の店先にあった簡易公衆電話であるピンク電話を「伽藍」にもひくことができることがわかったので、皆で相談し、玄関脇に設置することにした。このピンク電話は使用するものは住民だろうが客人だろうが通話3分あたり10円玉がいる。結果、長電話もしにくいので、迷惑を受ける者が少ないことになり、この選択は正解だった。
この「伽藍工房」での特筆は何といっても大谷石造りの防空壕の半地下室の存在である。勝則からこの地下室は防空壕だったと聞いたが、戦時中に空襲警報が鳴るたびに付近の住民たちがこの部屋に避難してきたのであろうか。この部屋は映画で見た防空壕の様子とは少し違って見えた。戦争が終結してから26年たっていて戦後生まれで戦争を知らない康一達は、なかなかその状況をイメージできないでいたが、康一の父もビルマ戦線で戦った兵士であり、皆の親世代はそれぞれ厳しい戦中の体験を積んでいて、そんなに昔の話ではなかった。
壁の大谷石は、薄い板状の石を張り付けたものでなく、石垣に使うような直方体の石を積んである。この石で周りの土の崩れを防いでいる。当然火災にも強い構造だろう。康一が主導して、この地下室を味のあるリビングに変えることにした。壁はそのままで、床に安ものではあったがカーペットを敷き、上部の木造部を支える丸太の梁を黒く塗り天井は真っ赤な紙を張りつめた。古いこたつを利用したテーブルの真上に康一が昔手に入れたガラスの漁具の浮きのペンダント照明を吊り下げた。
康一は、酒も飲まず、食事も質素にして手に入れていたオーディオ機器をこの地下室にセットした。一般的な人気商品ではないが、ラックスのトランジスタプリメインアンプ、山水の組格子タイプスピーカー、TEACの縦型テープデッキA2050等康一の手の届くランクのマニアックなこだわりの機器類である。
大谷石で囲まれた空間は音響上大変好ましかった。大谷石表面の小さな穴が適度な吸音性を持ち、また質量のある石本体が強力な遮音性を保持しているので、かなりの音量を出しても近所迷惑になる心配もなかった。康一は早めに戻った時など、一人で「レッドツェッペリン」のLPを大音量で流し、ロックの世界に浸ることもあった。
「たまらないね、迫力あるねえ。自分のアパートだったらこんな大音量出せないよ」
遊びに来た友人が、レコードを聴いて嬉しそうに、うらやましそうに語った。
「そうだろ、この大谷石が効いてるんだ」
康一がレコード鑑賞に浸っているといつの間にかミー子も椅子に座ってロック音楽に聞き入っていたこともあった。
この地下室は独特の雰囲気から、康一と縁のあったロックバンド「頭脳警察」の「仮面劇のヒーローを告訴しろ」のアルバムのための撮影場所に選ばれた。パンタがギターを抱えたショットや玄関からパンタが出てくる写真がジャケットに使われている。
1971年の春から待望の「伽藍工房」への移住をすませ、新しい生活での期待に心躍る状況だったが、この時期は社会情勢は決して安泰の空気では無かった。1972年には「あさま山荘事件」も勃発した。自民党の長期政権での弊害、金権政治、「大学立法」などの国会での強行採決等、為政者への不信感が増幅していった。また、野党も単に自民党にイチャモンつけているだけに思えて、政治への失望が増していった。
康一は、人見知りで初対面の人とはあまり話さないが、親しくなると良く話す。寂しがり屋で孤独が嫌いなので仲間と集いたがる。
神経質なほうではあるのに、時々無神経な態度も取る。好奇心が旺盛だが世間知らず。一方楽天的なところもあり、楽しく暮らすすべはもっていた。
正義感は強く反骨精神が旺盛で、自己顕示欲は強いものの度胸はなく腕力もないので平和主義者だ。
何より、世の中の主流の流行には迎合せず、マイナーな分野にこそ価値があることが多いと考えていた。日本の音楽界でテレビで流れる当時の主流は歌謡曲系で欧米ポップスはマイナーであった。その日本での一部ファンがいるポップス界の主流はビートルズであり康一の好きなキンクスはマイナーであった。映画界も東宝、東映、大映などの大手5社がメジャーで康一が会員となったATGなどは一部のファンしか知らない存在だった。自動車もトヨタ、日産が売れていて独自技術力のあるスバルは評価されていなかった。
康一は、世の中の多くの人は本質を見極めることより多勢の流れに安全にのってしまう傾向にあることを嘆いていて、己の意識行動も注意すべきと意を新たにした。
中学生時代から知能指数テストは高得点で、先生が、「知能指数が高いのに成績がよく良くないのは、勉強してない証拠よ」とほめるどころか怒られた。
確かに記憶力はあまりよくなくて、漢字や歴史などいろいろと覚えなければならないタイプの科目は得意ではなかった。知能指数は高くても記憶力が弱いので学校の成績は今一つで大学受験も最初は失敗する。だが、想像力はあり、絵画的センスも持っていて、小学校から美術の成績は良く、絵画コンクールでの入賞経験もあった。「表現」にはこだわって、写真にも興味を示すのもある意味自然な流れであった。
一方、議論となると理屈で押し通す。よく、屁理屈ばかり言いやがると嫌がられた。理論家だが情熱家で二面性をもっている。
恋愛には気が多い癖に奥手で、この時までキス経験もない童貞だった。
地下室での飲み会で、アインシュタインの「一般相対性理論」のE=MC2という単純な公式(物質が光速に近づくに売れ質量が無限大になる)を引き合いに、SF映画に出てくるタイムトンネルは面白いとは思うがあり得ないなとの康一の意見に、それが不可能かどうかというより、SF映画にそういう設定がなければ成立しないという岩井たちの反論で盛り上がる様子をミー子は脇で聞いて、捉えようがない康一のそんなところにも、興味を持っていたのである。また、そんな知識を持つ康一に対して尊敬もしていた。
理論的な思考をしなければならないと思っても、理論を超えるSF映画や超現実主義的絵画も嫌いではない矛盾する康一。この二面性は、以後も変わることは無かった。
つづく