年に二度、握手をして帰る元婚約者の話
復縁ものです。ざまあはありません。
ブルーベル・アトキンズには、かつて婚約者がいた。
相手は二つ年上の宰相補佐官で、仕事ができれば顔も良かった。伯爵家の次期当主であり、王族の覚えもめでたい。好条件が服を着て歩いているような男だ。
しかしブルーベルから見れば、生涯の伴侶にするにはあまりにも情の欠けた人物だった。
まず、滅多に会ってくれない。
もちろん彼の重責を思えば、婚約者にかまけて職務を疎かにできないことはわかる。毎週末をブルーベルのために割いてほしいとまでは言わないし、月に一回の面会が仕事で潰れるのも我慢した。
とはいえ、丸二年も会いにこなかったときには、この男は自分と良好な関係を築く気がないのだと思い知らされた。もはや婚約しているかどうかすら疑わしい。
さらに腹立たしかったのは、夜会や舞踏会でのエスコートをことごとく断られたことだ。
参加しないならまだしも、毎回女宰相をエスコートして入場し、終始彼女の後ろに控えているところがなお許せない。
それは本当に補佐官の仕事なのか、婚約者に恥をかかせていることについてはどう思うのかと聞いたことがあるが、返ってきたのは一言――「お前には関係ない」だ。
極め付けには、結婚式も新婚旅行も行わないと通告された。相談ではなく、通告である。
婚約者にとっては仕事と女宰相こそが最優先すべきもので、結婚など書類上の手続きでしかなかったのだ。
ブルーベルは人生の墓場に行くのを回避するため、ほぼ身一つで実家を出奔した。
逃避行は一ヶ月続いたが、南西の港街・グローバラに着いた途端に終わりを告げる。乗合馬車を降りた瞬間、ブルーベルは待ち構えていた憲兵隊に身柄を確保された。周囲の人々の驚きの視線や、厳しい憲兵たちの顔、海鳥の鳴き声――全てが鮮明に思い出せる。
グローバラはブルーベルの大好きだった絵本『こだいしゅとつがい』の舞台になった場所だった。どうせ逃げて暮らすなら憧れの街がいい、と思ってのことだったから、今なら浅はかだったとはっきりわかる。
――まあでも、意外となんとかなったのよね。
昼食のサンドイッチを頬張りながら、ブルーベルは当時のことを思い出していた。
実はこの話は、もう十年も前の出来事なのだ。
結論から言うと、ブルーベルの婚約は白紙に戻った。
彼女は現在、グローバラでのんびりと一人暮らしをしている。婚約解消の際に二つの条件を飲まされたが、そのことについて後悔はない。
第一に、元婚約者――ニーシャ・ボールドウィンが死ぬまで他の人間と結婚しないこと。
第二に、半年に一度訪れる彼と握手をすること。
奇妙な条件かもしれないが、地獄に等しい結婚をするくらいなら、生涯一人のほうが遥かに楽だった。
実際、魅力的な男性がたくさんいるグローバラに住んでいても、誰のことも好きになっていないし、そのことを悲しく感じることもない。
それに、なぜか婚約していた時期よりも、ニーシャとの関係は良くなっている。
最初は彼との握手の日が面倒だったが、会えば会うほど会話が成り立つようになり、十回目には打ち解けていた。ここ二年は、なんと文通までしている。
あくまでもたまに会う友人程度の関係だが、彼とはこのぐらいの距離感がちょうどいいのだろう。
「ブルーベル?」
一個目のサンドイッチを平らげ、二個目を手にしようとしたところで、横から名前を呼ばれた。
声の主に顔を向ければ、グローバラで仲良くなった年下の友人・リサが手を振っている。
「あれ? リサって今日は仕事じゃないの?」
「早く終わっちゃったから、半日で帰ることになったの。そっちは?」
「今日はあの日だから」
ブルーベルがそう言うと、リサは「ああ、あれね」と頷いた。
そう。今日こそが、半年に一回の握手の日だった。 手紙で事前に知らされていたので、代筆屋もあらかじめ休業日にしてある。
「顔はいいけど変な人だよね。握手だけしてその日のうちに帰るじゃん」
「多少は喋ってくけどね」
「でも一時間もいないでしょ?」
「まあね」
実に不思議な関係だが、慣れてしまえばわりと心地いい。
つまるところ、世の中には期待しないほうが楽なことが多いのだ。
「あれ? でも、あの人っていつも午前中に来てない?」
「うん。だから今日もずっと待ってたんだけど、予想外に来ないというか……」
「そうなんだ?! 珍しいね〜」
ほんとにね、と答えて、ブルーベルは手に持ったままだったサンドイッチにかぶりつく。
ニーシャ・ボールドウィンという男は、基本的に几帳面で時間にうるさい。来ると言えば来るし、来ないと言えば絶対に来ない。
その彼が二週間前、今日の午前中に着くと書き送ってきていたのだが、正午を過ぎていまだに姿が見えなかった。かれこれ十五年もの付き合いで、有言実行されなかったのは初めてだ。
「途中で事故にでも遭ったとか?」
「そこまでではないかもだけど、憲兵隊にトラブルがなかったか聞いてみようかな……」
何か不慮の出来事があったのなら、憲兵隊に情報が入っているかもしれない。
不安が増したブルーベルは、残りのサンドイッチを急いで口に詰め込みながら、サラとともに憲兵隊の詰め所を目指した。
しかし、もう少しで到着しようという時に、目の前で馬車が急に止まった。勢いよく扉が開き、見覚えのある人物が飛び出してきた。
「ブルーベル嬢! 探しましたよ!」
そう言うのは、元婚約者の実家――ケスタートン伯爵家の本邸に勤める執事だ。まだニーシャと婚約していた頃、伯爵夫人との茶会の折などに姿を見かけた記憶がある。
執事は何やら焦っているようで、ブルーベルにしきりに馬車に乗るよう促した。
「あの、ニーシャ様がいらっしゃるはずなのでは?」
「若君は屋敷で伏せっておられます。ブルーベル嬢をお迎えするよう、私が旦那様から申し付けられました」
あのニーシャが、伏せっている?
ブルーベルは混乱した。確かに倒れそうなほど働いてはいたが、実際に倒れたと言う話は聞いたことがない。
「そんなことが……」
「あるのです!」
執事は必死に言い募り、思い出したように懐から封筒を取り出した。慌てるあまり、存在を失念していたらしい。
中身は伯爵からブルーベルに宛てた手紙で、そこにはニーシャが倒れて生死をさまよっていると書かれていた。思った以上の深刻さに、血の気が引くのを感じる。
「わ、わかりました! 行きます!」
ブルーベルは心配そうな表情にリサに見送られ、執事とともに出発した。
最短距離を行けば、グローバラから王都へは一週間もかからない。時折馬を交換しながら、できるだけ早い到着を目指す。
眠れない夜を過ごしつつ、ブルーベルは長らく訪れていなかった伯爵邸にたどり着いた。
案内された部屋には、随分とやつれた男の姿があった。熱でうなされ、うわ言のようにブルーベルの名前を呼んでいる。
ここでなぜ自分の名前が出てくるのか、ブルーベルには理解できなかった。頭が真っ白になって、思考がまるでまとまらない。
彼にとって、ブルーベルは半年に一度しか会わない浅い友人だ。差し障らないことだけ書き送る文通相手だ。こんなふうに呼ばれるほど、慕われているはずがない。
「よかった……来てくれたのね……」
ベッドの前で立ち尽くしていると、疲れ果てたような顔の伯爵夫人に話しかけられた。きちんと返事をするべきなのに、ブルーベルはただ頷くことしかできない。
そうしていると、従僕たちがベッドサイドに一人がけのソファを持ってきて、彼女に座るように促してくれた。夫人に背中をさすられながら、恐る恐る腰を下ろす。
「………………どうして、ですか?」
ようやく絞り出すように尋ねると、夫人は悲しげに目を伏せた。
「ニーシャが養子だということは知っているわね?」
「えっと、はい」
「この子はね、主人の下のお姉様の子なの」
ブルーベルはそれを聞いて、思わず眉をひそめた。
伯爵の下の姉というのは、グローバラに居城を持つファリガティール侯爵の奥方だ。
「……侯爵閣下は、その……古代種の方では?」
「ええ。だからニーシャも、本当は古代種なの」
「………………っ!」
思わぬ事実に、息が止まりそうになる。
古代種は『こだいしゅとつがい』に登場する、人間と同じ姿をした人間ではない存在のことだ。彼らは番と呼ばれる存在を何よりも大切にし、番なしには生きていくことができない。
一説によれば、古代種は生きるために必要ななんらかのものが欠けており、その足りない部分を埋めてくれる存在――番と寄り添うことで生きていけるのだという。
しかし、ニーシャが古代種だというなら、過去の彼の言動との間に大きな矛盾が存在する。
古代種にとっての番とは、生涯の伴侶だ。彼らは若年期を番を探して旅をすることに費やし、結婚後は夫婦で一緒に働くことのできる仕事を選ぶ。
しかしニーシャは違う。もし本当に古代種であるならば、親が選んだブルーベルと婚約することも、青春時代に仕事に耽溺することもなかったはずだ。
「信じられないのも仕方ないわね」
何も言わずともわかったのか、伯爵夫人は苦笑いを浮かべた。
「この子はずっと抑制剤を飲んでいたから、あなたに古代種らしいところは見せたことがないのよ」
「そ、そんな! 抑制剤は……!」
「ええ。寿命を縮めるわ」
ごくまれではあるが、本能を嫌う古代種も存在する。彼らは抑制剤を使い、人間のように仕事に打ち込んだり、趣味に人生を費やしたりする。
一見素晴らしいことのように思えるが、全てがうまく行くわけではない。抑制剤を飲み続けるということは、体内に毒を蓄積させることを意味する。一般的には、十年以上服用を続ければ死ぬと言われているのだ。
「もう限界だったのよ。十五歳から飲んでいるんだもの。まだ生きていることが奇跡だわ」
あまりにも重い事実を聞かされて、ブルーベルは足元が崩れ落ちるような感覚に襲われた。
頭の中をたくさんのものがぐるぐると回る。知りたくなかった。知らなければいけなかった。あれもこれも一斉に押し寄せてきて、手足の感覚さえわからない。
「あなたがニーシャと婚約を解消する時、二つの条件を出したでしょう?」
「……はい」
「一つ目の条件は、この子が早死にするとわかっていたから付けたのよ。おばあちゃんになるまで一人でいてほしい、なんてことではないの」
伯爵夫人はどこか遠い目をしながら「それからね」と続けた。
「二つ目の条件は……条件はね……」
声に嗚咽が混じり始め、ブルーベルは慌てて彼女の手を握る。
夫人はぽろぽろと涙をこぼしていた。そんな姿を見ながら、何もできない自分が情けなく思えてくる。
「あの子が少しでも長く生きられるようにって、そう思ったの。あなたは、番だから。半年に一回でもいいから、手を握って、くれればって……っ」
ああ、そうだったのか。
特に意味など考えたことがなかった――むしろ、嫌がらせかなら甘んじて受けようくらいにしか思っていなかったことにも、それなりの意味があったのだ。
ブルーベルは掠れた声が自分の名前が呼ぶのを聞きながら、涙が込み上げてくるのを感じた。
――ニーシャの大馬鹿者。全部あなたのせいなんだからね。
――中途半端に仲良くなんてするから、こっちまで悲しくなっちゃうじゃない。
何かを探すように微かに動く指を、そっと撫でる。
――番だっていうなら、もっと大切にしてくれればよかったのよ。
「ブルーベル」
「なあに? ちゃんと来てあげたわよ」
「ブルーベル」
「はいはい、いますって」
聞こえはしないだろうと思いながら、ブルーベルは返事をしてやった。
伯爵夫人が啜り泣く声をどこか遠くに感じながら、大きな手を両手で包み込む。
――全くもう、めんどくさい男!
――目が覚めたらただじゃ置かないんだから!
ニーシャなんて、さっさと元気になればいいのだ。
まぶたを開けて、無駄に綺麗な翠の瞳を見せればいい。そうすれば、馬鹿の一つ覚えのように呼んでいる女の姿がちゃんと映る。
「ブルーベル」
「呼ばなくたって、ここにいるわよ」
ブルーベルは頰を流れる涙を拭きもせず、ひたすら彼の手を握り続けた。
――ねえ、わたしが来たんだから、死なないでよ。
こんなにも胸を締め付けられる日は、後にも先にもない。いや、あってたまるか。今日を最後にしてみせる。
強い思いで目を見開いていたはずなのに、気がついたら、眠っていた。
肩にかかったブランケットの温もりを感じながら、ブルーベルはガチガチに固まっている上半身を起こす。
ぐっと背伸びをしてから、泣き腫らしてズキズキする目をベッドの主に向けた。うなされていたのが嘘のように、穏やかな顔で眠っている。
――傍迷惑な男だわ。
心の中で毒づきながら、息を凝らして彼の顔に耳を寄せる。
――よかった。ちゃんと生きてる。
落ち着いて周囲を見回せば、部屋の中にいるのは自分たちだけではなかった。
隣には疲れ切ったように眠る伯爵夫人が、その後ろには伯爵の姿がある。振り向けば執事やメイドたちも控えている。
夕方にたどり着いたはずの場所は、もうすっかり明るくなっていた。窓からは青空が見える。
すぐにでも死んでしまうかもしれないと言われていた男は、まずは一晩を乗り越えたのだ。
目を覚まし、ブルーベルの姿を見たニーシャは目を瞬かせた。
何が起こっているのかわからないという顔で、疲れ果てた彼女を見つめている。
「おはよう」
ブルーベルが少しぶっきらぼうに話しかけると、彼は顔を歪めて、少し震えた。
年がら年中ポーカーフェイスの彼には珍しい、見たことのない表情。それがあまりにもおかしくて、思わず笑いが込み上げてくる。
「ブルーベル?」
「そうよ。あなたが散々呼ぶから、王都まで呼ばれちゃったの」
「……っ、僕、その……」
目を伏せて口ごもる美青年に、ブルーベルは軽い軽いデコピンを喰らわせた。
ニーシャは一瞬目を見開いたと思えば、へにょりと情けない表情になる。
「あなた、表情があったほうがいいわね」
おどけたように言って微笑んでやると、彼の翠の瞳が少し潤んだ。右に、左にと目を泳がせて、それからブルーベルを真っ直ぐに見つめてくる。
あまりに強い視線を向けられて、今度はブルーベルのほうがたじろいだ。あれもこれもそれも、見たことのない顔ばかり見せられている。
「ブルーベル」
「えっ? な、なに?」
「ここにいるってことは、全部聞いたんだよね」
静かに尋ねられ、少し緊張しながら頷いた。
「もっと嫌いになった?」
「馬鹿だなって思った」
嫌いになってはないわよ、と返すと、ニーシャは花が咲くように笑った。
「ありがとう」
その姿があまりにも美しくて、息が止まりそうになる。
窓から差す光に当たり、きらきらと輝く髪は銀糸のよう。長いまつげで飾られた翠の瞳が、ゆっくりとその色を変えていく。
――こだいしゅのあかいひとみは、あいしているひとにだけむけられるのです。
何度も何度も読んでもらった絵本の一節が、耳の奥で鳴っていた。
古代種が人間と違うところは、番の存在ともう一つ、彼らが番だけに向けるルビーのような赤い瞳だ。強い愛情が湧き上がったとき、古代種の瞳は色を変える。
――もうなんだか、なんでもよくなっちゃった。
目の前の男は、真っ赤な瞳でこちらを見つめている。
言いたいことはたくさんあるけれど、どうせブルーベルは彼を見捨てられない。
「とりあえず、一日遅れだけど握手しましょ」
ブルーベルはどぎまぎする心を叱咤しながら、ニーシャに向かって手を差し出した。ややあって、昨日よりも少し冷めた、けれど温かい手のひらに包まれる。
これで仲直りね、と言おうとした刹那、握ったままの手をぐっと引き寄せられた。体制を崩し、硬い胸板が頰に当たるのを感じたと思えば、そのままぎゅうっと抱きしめられる。
――は、早い! 展開が早い!
途端に慌て始めるブルーベルを見て、ニーシャはくつくつと笑い始めた。
「ちょっと! 笑わないでよ! ニーシャのくせに!」
口では文句を言いつつも、悪い気はしない。
ブルーベルは全てを割り切って、まずは抱きしめられる幸せを満喫することにした。
「ブルーベル」
少し真面目な声になって、ニーシャが彼女の名前を呼んだ。
「なあに?」
ブルーベルは目を見て話してやろうと、彼の胸元に埋めていた顔を上げる。
「ごめんね」
「いいわよ」
即答すると、ルビー色の瞳が泣きそうに歪んだ。