2-1辺境の町ゼルーノ
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空は青かった。
そこには異世界であろうと地球となんら変わらない青空があった。
しかしここは異世界。同じ空であろうと眼下に広がる町並みは地球のそれと異なることは明確だ。言語、食、住まい、衣服、習慣、歴史などシンクローの未知がそこにはあり、そこにはどんなものがあるか思いを馳せるだけでも童心に戻ったような心が躍るものがある。
今は無き青い地球、その出身の異世界人シンクロー。よく分からない異世界転移に巻き込まれて老エルフ神父に拾われた。盗賊やらドラゴンやらを神父から譲り得た魔法の力で撃退。ところがどっこいそれが原因となって居候暮らしをしていた村から追い出されてしまう。
その日から既に四日。正確には昼と夜の空を見上げてワンセットで一日とカウントしているので、実際は何日経過しているかシンクロー自身も把握できていない所があった。
なぜかって?
空は青い。
その景色は鉄格子が嵌められた人の頭すら通れなさそうな小さな窓から覗いていた。
その小さな窓のある壁を背に、上左右下は一面が真っ平になるように加工された石でできており、正面は通路があるが石の部屋との間にはこれまた鉄製の格子が遮っていた。
「……………これは運が悪いのか?」
ただいまシンクローさんは、牢屋の中にいた。
別に囚人シンクローは過去を思い返しても、悪いことはしていないはずだ。………たぶん。
ではなんでこうなっているのか。幾度目かのあの時の出来事を振り返った。
村を出たシンクローは老エルフ神父に教えられた方角に進んで飛んでいた。自身に備わった魔法の力で空を自由に飛ぶ姿はさながらジ〇リに登場する魔女子さんではないか。ただし跨っているのは箒ではなく穂先のない槍――というかただの緑の棒。
それでも胸に飛来する感動は人生において過去に経験したことのないものだった。興奮で揺れ動く気持ちは振動数が際限なく上昇して一見したら止まっているようにしか見えない、興奮が一回転して冷静になったかと思ったらその回転自体が止まらずプロペラのように回り続けていた。暴走するエンジンすら不快にならない、どんな言葉で表現しようとも安っぽく聞こえてしまうくらい気持ちのよいものだった。………実はセカンドフライトであるが、ドラゴンとの思い出が強すぎて初飛行の感想なんて思い出せない。
未明に村を出たので、日が昇れば無言だったシンクローがさらに心が洗われることになった。
空の青と自然の緑しかない大自然がそこにはあった。
ネイチャー番組でしかお目にかからないような景色が日が昇ることによってその色が鮮明となって現れた。
シンクローは人工物がない大自然に感動した。………が、残念ながら現代っ子のシンクロー君。物の数分で代わり映えしない森だの草原だのに飽きてしまった。
後は宙返りをしたり錐もみ回転をしたりスノーボードの長くてよく分からない技を適当にやってみて槍に括り付けていた空のキャリーケースを吹っ飛ばして地面スレスレでキャッチしたり――後になって魔法で回収できたじゃんとうっかりしたり――と、どんな飛行機でも真似できないことで遊んでいた。
そして気付いた。太陽の位置がいつの間にか真上を通り越して真横に来ていることを。
このままでは日なんて暮れて真っ暗。そんな状況では方角なんて知りようがない。というか野宿なんてしたことないうえにその準備すらない。野宿なんて絶対嫌だ!
急がねば。それまでやっていたアクロバティック飛行を中止して、速さの限界に挑戦するがごとくブッ飛ばした。
おかげで多少進む方角がずれていたが町を発見。気分は再び魔女子さんに戻り、おっと街中を飛べばお巡りさんに職質を受けてしまうと道途中で降りて、日が完全に暮れてしまう前に町を囲んでいる城壁の門に到着した。
問題はここからだ。
門前には道を挟むように二人の武装した人――門番が立っており、シンクローが近づいたら片方が制止と誰何の声を上げた。まだアルフ語以外は勉強中のシンクローだったが、老エルフ神父と犬耳少女に習った範疇だったので何とか聞き取れた。しかし話すのはまた別。目の前にいるモノホン(?)の消防士ヘルメットっぽいケトルハットに手と腰にある槍と剣、金属の胸当てをしている門番さんに感動と好奇心と興奮を隠して冷静に返答した。「馬で三日の村から来た。身分証はない。アルフ語しか話せない。代金は龍の鱗」とすべて片言だったがそう伝えた。渡した袋には老エルフ神父が取ってきてくれたドラゴンの鱗が数枚入っていた。
渡された門番は中身を確認して顔をしかめた。もう一人の門番を呼んで中身を確認させるとこちらも驚き顔をしかめた。その目は犯罪者を睨んでいるようにも見えた。ではその目に映っているのは誰か。シンクローである。あれ?と疑問を浮かんだ。なにか予定と違うと感じたので、困ったときの愛想笑い。
そんなジャパニーズスマイルも効かずに、返礼は槍の穂先。聞き取れない言葉でも分かった、これは「動くな!」だ。
通じない言葉を聞き流していたらあれよあれよと流されて終着地点にて現在地の牢屋へご招待。囚人シンクローの出来上がり。
牢屋に押し込められたシンクローはまず困惑して、理不尽な行為に怒り、冷静になったところで――。
「どうしてこうなった?」
うーんうーん唸っても答えは出ず、何かしら次のアクションが起きるまで大人しくしていることに決めた。
牢屋の中は暇だった。
何もないわけではないが、あるのは臭いから用途が判明した壺とマットが週刊誌並みの硬さがあるベッド。それと日に二回の野菜くずの入った麦粥が食事として出てくるだけ。
一に寝て、二に寝て、三四も寝れば、五は目が冴える。暇。
腹筋、背筋、腕立て、スクワット、休息日。健全だけどやっぱり暇。
魔法の練習できるかな?壺を引き寄せて離す。ベッドに乗ったまま上下。あ、廊下の壁に鍵がある!ので引き寄せて開錠もせずに戻す。脱獄、ダメ、ゼッタイ。空見て夢見て筋トレして、雲晴れず悪夢覚めず魔法トレして。
結局、シンクローが牢屋を出られたのは七日後だった。
「いや、すまなかったな」
牢屋の扉と謝罪の言葉を開口一番してくれたのはゼルーノに勤める衛兵隊長その人だった。なんとこの方は伝説的稀少言語のアルフ語が話せるのだ。これには出所したてのシンクローも驚いた。
「アルフ語、話せるんですね」
「ああ、衛兵隊長に就任した時にあらゆる種族に対応するためにあらゆる言語は必須と言われてな。研修では苦労したがまさか本当に使う日が来るとは思わなかった」
「俺としては助かります。まだ供用語は慣れていなくて」
牢屋という閉鎖空間から出られたシンクローの精神的衛生面は回復の兆しを見せているが、そんな状況で慣れない言語を使って話す精神状況にはなれない。いわゆる億劫になっているのだ。今したいことは連れてこられたこの部屋からも脱して高い空の下で文字の意味通り幸せを謳歌することだった。
とはいえそんな我儘を言う程子供ではない。向こうにも事情と手続きがある。今すべきことを早く終わらせたければ粛々と従うことだ。
少なめの調度品が置かれた応接室に案内されたシンクローは三人掛けのソファーに座り、衛兵隊長は机を挟んだ対面の一人用のソファーに腰を下ろした。
「まず改めて謝罪する。そしてそう至った経緯も説明する」
「お願いします」
事の発端はシンクローが持ち込んだ龍の鱗で、原因は門番の誤解と確認のためであった。
こちらの世界で一般的にドラゴンは強弱のピラミッドグラフにおいて常に上位にいる存在だ。そのためドラゴンの素材は全くと言っていいほど市場に出回ることはない。基本的に金持ちか貴族が独占しているからだ。一般人がお目にかかることは殆どない。
仮に、拾ったのが普通の一般人であれば興奮以上に興奮していただろう。自然はく離した鱗でも民からしたら一攫千金だ。動揺する様子があってしかるべきだ。ところがその宝石以上に貴重な品を価値も知らないシンクローがあっさりと持ってきてしまったのだ。本当にあっさりと。そこにゴミが落ちていましたよと言わんばかりに。しかも一枚二枚なんてものじゃない。
門番すら動揺しているのに平然とした態度が逆に怪しまれて「こいつ、もしかして盗んで来たんじゃ?」と疑われる結果になった運びになり、疑われたシンクローは檻の中に運ばれた。
七日間にも渡って拘束された理由は単純に関係各所の確認のためであった。ドラゴンの素材またはその加工品を所有する者から盗難被害届が出されているか。実際の現場である老エルフ神父が住む村周辺へ確認と聞き込み。そして今に至りシンクローの疑いは晴らされた。
「さて、ここからは通常の入場手続きと龍の素材に関することだ。部下では円滑に進められんし、このまま私が行う。まず入場するに身分証が必要なのだが、確か持っていなかったな。理由は?」
「俺が来訪者だからです」
「……来訪者。エルフの神父様にも聞いていたが、まさか伝説の存在が目の前にいようとは。人生何があるか分からんものだな」
「………本人は至って普通の人なんですけどね」
「普通の人間が若かいのはいえドラゴンを倒せるはずないだろうに」
衛兵隊長が部屋の外に合図を送ると、一人の衛兵が荷物を携えて入ってきた。それを手早く机に並べると入り口の傍に控えた。
机に並ぶそれはシンクローが一見する限り銀製のお盆と水差しと十字架だった。大して渇いていないが喉を潤すためにしてはグラスが見当たらない。そして十字架が単なるそれではないことをシンクローは見破った。することのなかった牢屋での修行生活が魔法の扱い方をワンアップさせた成果であった。
今は亡きドラゴンとの一方的な闘争で偶然発見した索敵技能。シンクローはその技能を無意識ではなく意識的に開花させたのだ。
球体状に広がる魔法の効果範囲である魔法領域において、今まであれば目視でなければ何となくというかなり曖昧な感覚で魔法の対象か否かを判別していたが、魔法の対象にすることで目視していなくてもそれがなんであるか魔法器官を経由して認識することができる。しかしそのやり方では手ともいえるカーソルが大量に増えたとしてもいちいち魔法の対象を設定する必要があるので数が多いときはかなりの手間だ。しかも生物を対象にできないため完璧な索敵技能とは言えない。そこでヒントを得たのがドラゴンの急降下だ。あれはドラゴンの巨体が魔法領域内の大量の空気を押しのけることで、シンクローに接近を知らせたのだ。生物ではないので空気も魔法の対象になる。そこで魔法領域内の空気を対象に設定するとどうなるか。空気のない部分が浮き彫りとなり人や物の形がくっきりと現れたのだ。しかも非対象になっている生物だが口の中の空気まで非対象で見ることができないので呼吸器官だけが不気味に現れることもない。これを後にシンクローと会う者が『索敵技能・真空レーダー』と名付けた。
これを使えばその場にいなくても覗き放題見放題なのだが、まず色がない。モノクロでもない。音はもちろんのこと紙に書いた文字すら読めない。唯一の面白みは立体に見えるということだけ。それでも牢屋の外を観察できるので暇な牢屋生活の良い暇つぶしになったのは僥倖だった。
「これは身分証を作るのに必要な道具だ」
シンクローの目線に気が付いた衛兵隊長が説明してきた。
「水で満たしたこの銀の水盆に血を一滴溢すとそこにその人のステータスが表示される。それを基に身分証が作られるというわけだ」
「な、なるほど」
「この銀の十字架は針を出す仕組みになっている。長いほうを掴んで反対の短いほうの先端を指などに押し付けて中央のボタンを押せ。針が飛び出すがほんの一瞬だ」
「………ああ、やっぱり」
「ん?」
「あ、いえ何でもないです」
真空レーダーで針が仕組まれていることが事前に分かり、用途が分かったところで怖いもんは怖い。どこまで突き刺さるの?痛くないよね?と内心ビビるシンクロー。注射と違って自分でするから余計怖い。白衣の天使はいないのか。
「………痛みなんてないぞ」
「へ!?」
「いやなに、これをするのが大体は身分証を持っていない子供か無くしたと法螺を吹く悪人だけなんだが、子供が説明を聞くと君のように躊躇して泣き出したりするものだから。もしかしたらと思ってな」
「いやいやいやビビっていませんよ?そんなこと言ったらうちの地元じゃ年一で金属の針腕に刺してましたしどこに刺そうかなって迷っていただけですし、えい!」
プスッと小さな音が一瞬。そして間。この短い沈黙のほうが痛い。
「………痛くないだろ」
「………そっすね」
真顔に見える衛兵隊長だが若干表情が柔らかくなっている気がしなくもない。そして後ろに控える衛兵さんは言葉が通じなくても今のやり取りは想像できたようで口元が震えていた。痛み覚悟のシンクローは盛大に肩透かしを食らい情けなさがにじみ出ていた。悪運ちょっぴり回収。
衛兵隊長は伝えていないが、これは一柱の神が作ったもの――すなわち神器であり銀を苦手とする人に仇なす存在を遠ざける儀式でもある。仇名す存在とは何ぞやと思うがシンクローは人間につき説明はここでは割愛された。
人差し指の先端にぷくーっと膨らんだ血の蕾は指を振るって水盆の水に落とした。
落ちた血は水に溶けて消えることなく、薄い蜘蛛の糸のように伸びて勝手に形を成そうとしている。伸びて、千切れて、纏まって浮かび上がったのは文字であった。
「……ファンタジーの映画かゲームか」
「ん?なんだそれは」
「いえ、俺には見慣れない不思議な光景なもんでつい」
「そうか。私たちには見慣れたものだからな。子供のころはそう感じたかもしれないが………これは」
目の前で行われたファンタジーに呆気に取られるシンクロー。一応シンクローにも読めるアルフ文字(日本語ではない)で言葉が綴られていた。それはみるみるうちに表となった。
この文字は銀盆には人によって馴染みがある文字に解釈するような神の魔法が掛っている。シンクローにはアルフ文字だが衛兵の二人には別の文字に見えるだろう。
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[名前]シンクロー
[性別]男
[種族]来訪者(人)
[レベル]144
[職業]なし
[信仰]なし
[称号]龍殺し
[罪過]なし
[アビリティ] ・悪運
・母国語(アルフ語)
・****魔法
・龍血の加護
[スキル]・魔法技能(×1)
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各項目についてだとか、魔法の欄がバグっていることだとか、説明を求めたい場面であるがそうとも言えない状況がシンクローの目の前にあった。
軍服を纏う二人が激しい動揺を隠せないでいた。唖然。開いた口が塞がらない。ついでも目も瞬きを忘れている。
「………龍殺しの称号。あのエルフの話は本当だったのか」
「ああ、ドラゴンを倒したことですか?いやー、ほとんど偶然みたいなものですよ」
二人は目前の青年が龍殺しであることを信じていなかった。信じられなかった。
町を訪れる吟遊詩人が爪弾くリュートの音色とともに伝える英雄譚。その口から語られる龍殺しこそ背丈を超える大剣を振り回す剛力無双にして決して挫けることのない万夫不当の大英雄。夢見る少年少女の憧れで、今日を生きる大人たちの希望の存在。彼がいる限り私たちは大丈夫だと、そんな根拠のない信頼を寄せられる勇者。
大人になって立場ある人間に成長した衛兵隊長とその部下はそんな幻想を抱いていた。それを別に悪いとは言わない。しかしだからこそ、聞き込み調査の報告書を見たときに自身の目を疑った。単騎で?人間を相手にするような武器で?無傷で?あり得ないとばっさりと切り捨てたい衝動に駆られた。自分たちが幻視する英雄の背中とその青年の背中が重なり合わない。似ても似つかない。
だが大剣はただの棒で、強く押しただけで倒れそうな体躯の青年であろうとも、ステータスにそう現れている以上信じられなくても認められなくてはならない。
この青年は、本物の龍殺しであることを。
なにはともあれ、シンクローに身分証が発行される運びになった。ついでとばかりに項目の説明も済んだ。衛兵たちが確認したかった項目は罪過の欄だ。ここにはその本人が犯した罪が記されている。外で犯罪に手を染めた者、またはその罪を償っていない者が神の手によりこの項目に記載される。さらに償ったとしても犯した罪名は死んでも消えることはない。
シンクローも間接的ではあるが盗賊を数名殺害に関与している。しかし衛兵隊長に言わせれば、罪過に記載されていない以上、神が罪として判断していないとのこと。その神の判決は神の基準で定められているので、下界に住む人間には推し量れるものではない。
ちなみにスキル欄の魔法名が読めないのは衛兵隊長も同じだそうで、バグるのを初めて見たために理由は分からないそうだ。
こうしてシンクローは自身の身の潔白とドラゴンスレイヤーの証明を果たし身分証を手に入れた。
「さて、身分証の発行が済んで次にドラゴンの素材に関してなのだが、どうする?」
「いらないですね」
先ほど軽く説明を受けたが、ドラゴンの素材は高値で取引されている。生物最強種でありそうそう出回らないこともそうなのだが、武器や武具の材料としても使われる。名のある猛者が持つ剣は大体が倒したドラゴンから作られることが多い。輝かしい栄光に群がりたい者たちからしてみたら「強い剣や頑丈な防具を持てば強くなれるんじゃね」という逆説にたどり着く。だがらこそ金を持ち力を求める者たちによって買い占められて、その価値は今も上がり続けている。
そんな世界にひょんなこと(?)からドラゴンを倒してしまったシンクロー。武器や栄光よりも金が欲しい。異世界に飛ばされたとしても英雄やら勇者やらになって世界を救えなんて使命があるわけでもない。力が欲しくてドラゴンの素材が欲しいなら何時でも手放せる。
「ならば売却という形でいいな。懇意にしている商人や貴族がいるならそちらを優先するが」
「そんな知り合いいませんよ」
「わかった。ゼルーノ領主に代わり来訪者シンクローからドラゴンの素材を買い取らせていただく」
「いくらくらいになりそうですか?」
「そうだな。部下の報告と今の相場を考えると………少なく見積もっても金貨千枚は下らんだろう」
「………それは、普通に暮らす一般人からしたらどれくらいなんですか」
「何も仕事せずに一生豪遊できるだろうな」
「………………まじすか」
衛兵隊長の脳裏には噂で知ったドラゴンの素材が出品されたオークションの落札価格が浮かんでいた。龍との戦いは苛烈極まるもの。死者が出ないなんてことはあり得ない。その証拠が出品されたドラゴンの素材にあった。牙は折れて鱗は砕かれて肉は裂傷だらけ。きれいな部分が少ない。これが普通の素材だったなら価値なんてつかずに廃棄されていただろうが、それでも金貨二千枚の値が付いた。例えボロボロだったとしても、牙も鱗も肉さえも全身使えない所がない素材に高値が付いた。そして今回に照らし合わせた。喉の奥以外は殆ど無傷の若いドラゴン。若い素材は強度が多少下がると聞いていたが、それでも人間からしてみたら変わらない頑丈さだろう。金貨千枚と口にした衛兵隊長だが、もっと値が高騰するだろうとも考えていた。
そしてシンクローに渡った金額は金貨二百枚だった。これはシンクローが一文無しだということを聞いた衛兵隊長が気を利かせて確定していないドラゴンの売却金を前払いした形だ。当然衛兵隊長が予想した金額には届いていない。隊長という階級になっても個人で動かせる金銭には限度があるのだ。よって残りは売却金が確定したのち前払い分を差し引いた金額を受け取る運びとなった。
しかし本来であるならば前払い制度はできない。そこには衛兵隊長の意図があった。
倒した魔物や魔獣の素材は倒した本人もしくはパーティの所有物となる。そこには素材の利用法や売却先の選択権まで含まれている。現在ドラゴンの素材の所有者はシンクローである。利用法がないシンクローはそのままオークションに出すという選択肢も存在していた。しかし衛兵隊長が自然な形で買取を主張してきて、シンクローには『確定していない大金を支払う』という空手形とともに前金を渡し『所有権をゼルーノ領主に売り渡す』という売買の関係=契約を構築した。これによりドラゴンの素材の所有権はゼルーノ領主に移った。
ドラゴンは国を脅かす天災であるため目撃情報から討伐並びにその素材の価格まで情報開示が国際法で定められている。よって国家認定の鑑定人により査定されてその素材の適正価格が決まる。その価格は褒賞としてシンクローに渡るが、素材はゼルーノ領主に渡る。支払いは当然ゼルーノ領主に発生するが、武具を作る分だけ素材から剥がして即座に貴族御用達のオークションに出せばあっという間にマイナス分は消え去りそれどころか大幅なプラスが発生することは請け合いである。シンクローよりゼルーノ領主が得をする結果になるが、お互い得をするわけだし黙っていてもいいよね?
ついでに衛兵隊長の本当の意図――これらを考えた褒美に出世できるかもという考えも黙っていてもいいよね?龍を倒せばみんなウハウハ。
「そうだ、相談があるのですが」
すべての手続きが終わり正式に町に入れることが決まったシンクローが、思い出したかのように切り出した。因みに入場料は気分を良くするが顔に出さない衛兵隊長が肩代わりしてくれた。
「働き口を探しているんですけど」
「……………。お前、使いきれるか分からない大金を得るのにそんなことを考えているのか」
「世界の裏側まで行こうと考えたら、お金が足りるなんてことはないですよ」
もしも宝くじで二億当たりましたらどうしますか?という問いに対して大半の人が仕事を辞めると答える人もいるだろう。
だが、考えてほしい。何かと金が掛かる昨今。二億程度で足りはずもなく。例え懸賞金が当たったとしても働き続ける所存のシンクローさんだ。
何処にあるかもわからない故郷に帰る旨をここで話した。
「なるほど。となると選択肢は冒険者か傭兵しかないと私は思う」
「冒険者と傭兵、ですか」
傭兵はその名の通り、人に金で雇われて人相手に戦う職業だ。
軍事方面での進路をとったことのないシンクローにとって傭兵は抵抗があった。それが争いから遠ざかった善良な日本人から来る心情なのかはさておき。おそらくは洋画に登場する金さえあればなんでもかんでも銃弾をぶち込むという悪く偏った先入観があるからだと思われる。
冒険者の職務は町の外に出て、魔獣や魔物の討伐、野草や薬草などの採集、商人などの護衛がほとんどで、階級が上がれば個人での依頼があるそうだ。それ以外の職に就こうとすれば面倒な手続きが必要になり辞めにくくもなる。故郷に帰ることを前提にするならば冒険者になることが効率的。
ドラゴンと盗賊の件で、やはり人間相手をするよりも怪物相手のほうが心情的に楽であった。ただしそこには肉体的苦労は考慮されていないが。
それとこれは後々の話になるが、仕事をするには親もしくは親類縁者の紹介が必要になる。そして彼らのコネというのが自分たちの職場しかない。職業別の人口比率が変わらないという点では国内総生産が変動しないように思われるが、万が一の失業時には大勢の浮浪者が溢れることになるだろう。新規の事業をする場合は一定の軌道に乗るまで冒険者を兼業するのは良くある話で、衛兵隊長が推す理由でもある。
「それと冒険者になるならアルフ語しか話せないと何かと不便だから奴隷を買っておけ」
冒険者になる旨と管理しているギルドの場所を聞いたシンクローに衛兵隊長からそんなアドバイスが送られた。
「………なんとか話せるんですが」
「その聞き取りづらいカタコトでか?悪いことは言わん。すぐさま奴隷商へ行け」
「………通訳を生業にしている人はいないんですか?」
「その通訳役を奴隷にさせろと言っている。冒険者でも傭兵でもアルフ語は珍しすぎる」
奴隷商までの地図を用意されて素直にこれを受け取るシンクロー。
辺境の町であるこのゼルーノでもアルフ語を話せる存在は稀である。しかし商人ならば独自の情報網でもってアルフ語を通訳できる奴隷を用意できるはず。ここでも衛兵隊長の気遣いが表れた。
真っ白だった。もしくはブラウン管テレビの砂嵐とも言ってもいい。日常空間という意味で初めて奴隷制度を耳朶に触れて、初めて感じるカルチャーショックに思考が停止状態になった。日本の端から端の何処かで常識が通用しないことはあった。郷に入れば郷に従え。それを信条にして柔軟に対処しなければ前の職場ではやっていけなかった。シンクローの中に驚きはある。拒絶も忌諱もない。ただ、ああ、そうなんだと受け入れようとしている自分と、その概念の言葉と中身の入っていない皮や殻だけをさっさと受け入れて実は中身を分かっていない節があるのも事実。つまりは実感が湧いていないのだ。
長かったようで短い牢屋生活は終わり、初めての町で手にした大金とさらなる大金を受け取る約束を交わして衛兵の詰め所を出た。