1-7始まりの村の大冒険
◆
シンクローが次に目を覚ました時には太陽は沈んでいて月の優しい光が照らしていた。かなりの間気を失っていたようだ。
まだ起きたくないと思うほどの多少の気怠さはあるものの、火傷の痛みは引いていた。
傍らに視線を移した。そこにはドラゴンの死骸があり、気を失う前のことは夢じゃないことを物語っていた。改めて思うとすごい体験をしたと、よく生きていたと無邪気な熱意が込みあがってくるが、大人な部分が死なないでよかったと背筋を冷やしていた。
「………喉が渇いた」
脱ぎ捨てた神父服を着こむ。血液が凝固してガサガサと音がした。
ドラゴンに近づき、口に引っ掛かっている槍を抜き取った。まだ折れていないとはずいぶん頑丈だ。だが穂先は完全に砕けていて、槍ではなく棒になってしまっている。それでもシンクローを助けてくれたことは変わらない。戦利品としてありがたく頂戴することと相成った。五本の剣は喉奥にあるので取り出すのが面倒だった。あの巨体を持ち上げて喉の奥まで進むとなると一人では持ち上げられない。
「………ん?あれ?」
それは魔法領域で感じられる変化。今まで生物には魔法の効果は発揮されなかったのだが、死骸のドラゴンは魔法を行使することができる。それが感覚で分かった。
「もしかして、死体には効くのか?」
さらに言えば魔法のカーソルの数が増えて、魔法領域の範囲が拡大していることが分かった。
「もしかしてレベルアップというやつなのでは?」
まさかな。自身で否定する。ゲームじゃあるまいし、ドラゴンを倒した程度で人間の価値やら魂の階位が上がるわけがない。
槍に跨り、シンクローは夜の空へと舞い上がった。さあ、帰ろう。アンナが待っている。
盗賊を退け、ドラゴンを倒した青年の、血塗れの凱旋であった。
◆
シンクローの活躍によって、盗賊から逃れることができたアンナ一行は何事もなく無事に村にたどり着いた。
豪快に揺れながら飛ばす荷馬車の中で青い顔をしていた村娘たちは村に近づくにつれその表情が晴れていき、到着するやいなや荷馬車から飛び降りて家族との再会を泣いて喜んだ。
しかし、アンナの表情は優れない。
アンナは協会に駆け足で戻って老エルフ神父を見つけて駆け寄った。
「おお、アンナ無事だったのだな」
「神父様!シンクローが!」
「わかっておる」
「だったら助けてください!今にも盗賊に」
「……それは無理なのだ。今のわたしにその力はない」
老エルフ神父は盗賊から傷を負わされていた。そして村人も傷を負った。村長は老エルフ神父が治癒魔術を使えること知っているので治療を依頼した。自然治癒以外で傷を治す手段として治癒魔法薬があるのだがこれは村人が購入することができないほど高価で、常備薬では到底癒せない重傷者がいたこともあって老エルフ神父は治療に回った。おかげでシンクローの援護したくとも魔力がそこを尽きかけていた。これでは足手まといにしかならないとじかくがあったのだ。
「………そんな。だったらあたしが!」
「やめなさい。アンナにその力はない。命を無駄に散らすだけだ」
「……だったらどうすれば」
「祈りなさい。今はそれしか我々にしてやれることはない」
この森の教会では老エルフ神父の意向で、成人を迎えたら教会を出ていき他の町で生きていかなければならない。それはアンナの兄姉がそうであったようにアンナ自身もいずれそうなる道である。そして教会での一番の年長者はアンナだけとなる。年長者ゆえにかつて同じように受けていた身として、姉分として子供たちの世話をしてきたのだ。「今日からお前がお姉ちゃんよ」と、当時仲が良かった姉分との別れ際に残した言葉はアンナに誇りとして刻まれていた。
だからこそこの胸にぽっかり穴が開いてしまったかのような無力感はアンナにより際立てて口惜しさを覚えさせた。
頭では子供たちの世話とは違うと分かっているが、心が空いた穴を何かしなければと急かしていた。
子供たちと比べれば僅かな時間しか過ごしていないけれど、アンナにとってシンクローは協会の弟妹分と同じくらいに大切な存在になっていたのであった。
ただ、神父が言っていたようにアンナには解決するような力はない。そもそもそんな力があれば捕まった時に抵抗できたはずだ。盗賊という過去のトラウマが彼女を縛っている原因でもあった。
そうなるともう祈ることしかできない。
夜月に向かって跪いて手を組んだ。
無地でありますようにと。帰ってきますようにと。
アンナの祈りはその一心に注いでいた。
「ただいま」
アンナの祈りが神に通じた。少なくとも彼女はそう思っていた。
しかし、実際はアンナが祈りだす前に盗賊は壊滅しており、ドラゴンも討伐し終わったあとだった。神がどうこうする前にシンクローの悪運が勝っていた。が、神の慈悲とシンクローの悪運がどちらに優劣があるかは神のみぞ知る。
「……おかえり!って臭い!?」
「………デスヨネ」
闇夜に響いたシンクローの声に感極まって抱き着こうとしたアンナだったが、汗やらドラゴンの返り血やらでドロドロのシンクローさん。雰囲気ぶち壊しである。
アンナとシンクロー。命を賭した男女の甘い再会は強烈な鉄の臭いが成り代わったのであった。何が言いたいかって?もちろん台無しである。
◆
とある国の辺境にある村。その村がある日盗賊に襲撃され金品や村娘たちを奪われた。
しかし、異世界から来た青年シンクローによって盗賊によって奪われた村娘たちを取り戻し、ついでにひょっこり現れたドラゴンを命からがら倒すことができた。
村には襲撃の傷跡が残っているもの、倒れても立ち上がる麦のような根性が再建と復興に現れて過去の傷は薄れつつあった。
村には再び平和が訪れようとしていた。
「………な、なんだこれ?」
二の句が継げない状況からなんとか絞りに絞った雑巾の一滴のような感想を朝一番のシンクローが言った。
髪が染まっていたのだ。日本人元来の真っ黒だった頭髪が何ということでしょう赤黒くなっていた。
昨夜は慣れない魔法の力を使い盗賊やらドラゴンやらと戦って疲労困憊だった。血塗れの身体を洗い落としたらすぐにでもベッドに突っ伏したかったが、アンナがハグを要求してきた。老エルフ神父も交えて何があったか報告した。神父は最後まで聞いていたが、精神的疲労が溜まっているアンナは途中で眠ってしまった。話終わりアンナをベッドまで運んでから寝た。だから髪を染めている暇なんてなかった。
ではなぜこうなったのか?
分からないことは訊いてみよう。
「ドラゴンの血を被ったであろう?おそらくそれが原因だ」
老エルフ神父は即答した。
「ドラゴンは最強の生物。強靭な肉体に加えて魔術も長ける。その身体は人間にとって武器にも防具にも薬にもなる貴重な素材だ。その血液もしかり。聞いた話によると血を被ることによってそのドラゴンの力が手に入るそうだ。いや、染みつくといって方がいいのか。だからその髪の色はドラゴンを討伐したものに贈られる恩恵の証なのだそうだ」
とはいえ、老エルフ神父自身も眉唾程度しか思っていなかったらしくこれを見たのは初めてだった。
つまりだ。どこかの背中に葉っぱ張り付けたまま血を被った竜殺しの英雄よろしくシンクローも何かすごい力を手に入れてしまったのであった。そう言われれば、どことなく渇いた血の色にも似ていた。
「……嘘だろ」
シンクロー、激しく落ち込む。
シンクローは日本人らしさを大切にしていた。親切気遣い平和を愛し慈しむワビサビの和の心。海外文化に染まっていき消えていく世界に誇るジャパニーズスピリットが自身の中に残っているということに誇りがあった。その象徴としての黒髪。人生一度として染めたことのない純粋で自然の黒が侵されたのだ。大切なものが侵されたのだ。
決して、美容室おすすめの色に染髪したら想像していた色とは違うことに失敗を感じて「うわぁ、これ似あうかな?変とか言われたらどうしよう」と不安がっている心境になっているわけではないと思われる。あえて言うなら寝ている間に寝起きドッキリを仕掛けられて髪が金色に輝いている朝の状況に酷似していた。
「すごくカッコいいよシンクロー!あたしと同じ赤毛だよ!」
「そ、そうか?」
アンナに褒められて日本人の誇りを簡単に捨てる男。たった一言が誰かを救う時もある。
だが、シンクローの問題はそれだけではなかった。
「村から追放ってどういうことですか神父様!?」
今度こそ絶句したシンクローに代わり感情を荒立てたのはアンナだった。
「シンクローは村の英雄なんですよ!?盗賊からあたしたちを救い出してドラゴンまで倒した!感謝すべきなのになぜ追放になるのですか!?」
「落ち着くのだアンナ。わたしとて困惑している。だがこれも村長の命令なのだ」
言葉の通じないシンクローに成り代わり老エルフ神父が村長から伝えられた内容を代弁した。
曰く。今回の盗賊の襲撃で奪われたはずの金品や村娘たちがそっくりそのまま返ってきてしまった。しかも返り討ちまで果たして。これでは報復された時、金品や村娘たちだけではなく自分たちの命まで危うい。ならば返り討ちした人物がいなくなってしまえば、報復の対象はこの村ではなく個人――すなわちシンクローに向かう。だからこそ、この村に置いておくのではなく遠ざけることにより村の安泰は保たれる。これは村長一人ではなく村人全員の総意である。
「………考えが安直すぎはしませんか?」
「わたしもそう思う」
シンクローが盗賊たちの矛先の避雷針になるのは間違いないだろう。その際被害が及ぶのは村とそこに住む者たちとなる。しかし村を襲った盗賊たちはこのあたりの者ではないという老エルフ神父の言に加えて、アンナの証言とシンクローが――正確にはドラゴンが――倒した人数は一致している。死人は報復できない。彼らが盗賊団の分隊であったとしても全滅している以上本隊に伝わるのはかなり時間を置くと思われる。仮に報復してきたとしても、消えた個人よりもそれまで滞在していた村に矛先が向かうのでは、と考えた。
しかしこれさえ素人の考え。神父がどのように考えて肯定したかは想像できないが、異世界生活一年生のシンクローには元から住む人々の考えは読み切れなかった。
「………ねぇ、出ていくなんて言わないよね?」
悲痛さを隠し切れないアンナの声が耳朶を打った。
「俺は風来坊で居候の身だ。それが村の決定なら強くは言えないさ」
「…………そんな」
「すまんな」
「別に神父が誤ることはないですよ。それでいつまでに?」
「明日、太陽が昇りきる前には」
「ずいぶん急ですね」
村長に人を裁くような法的権利を持っているかをシンクローは知らない。実際なかったとしても村の総意であったならば、これに逆らって居続ければバツが悪くなるのは確実だ。
でもでも、と駄々をこねるアンナを宥める。引き留めようとする策だろうか、送別会をしようと提案してきたがこれを却下。この教会を巣立ちする人を主役にそういうことをすると同時に残る子供たちに向けて引き継ぎ作業のようなことをしていたのだが、村だけではなく協会も被害にあっているのだ。そんな余裕はない。
出ていく前にできうる限りの下宿の恩を返そうと行動するシンクロー。壊れた扉を直し、礼拝堂の泥も掃除する。飛べるようになったので天井に近い部分のゴミも落とした。水瓶は無事だったので魔法で持ち上げて一往復で汲み終わった。魔法の力は科学にも劣らない便利な力であることを改めて実感した。
夕方、森でかき集めた落し物の整理と必要なものの選別だ。神父服はそのまま着ていって後で捨てても構わないと老エルフ神父から言質を貰ってある。ひとまずこれまた落ちていたピンクゴールドのポリカーボネートのキャリーバックを開いていたが詰めるものがろくに無い。結局手荷物は女性受けしそうなキャリーバック一つ。最悪売って現金にしよう。
日暮れ前の夕食。荒らされた畑からなんとかかき集めた野菜の使ったスープだけとなった。さすがに量が少なすぎるので、荷物整理を理由にシンクローは席を外した。その食堂には老エルフ神父とアンナの姿が見えなかった。それで何かを察したナウマが消えちゃだめだと言わんばかりに足にしがみついてきた。剥がして食べさせようとしたがイヤイヤする子供に根負けシンクロー。食べはしないが膝の上にナウマを乗せて椅子に徹したのであった。
さすがに腹の虫が合唱を始めてきたのでベッドで横になっていた。一日一食なんて休日よくあったことなので腹の虫が疲れることを知っていた。今ではぐぅとも鳴かない。
この狭い部屋とも最後となると急に名残惜しさが芽生えてきた。記憶に留めておこうと視線を巡らす。ロウソクの火で橙色に照らされた何もない部屋はその狭さからあっという間に一周した。
いよいよ目を瞑ろうかという時に部屋の扉が来訪者を告げるノックが響いた。入ってきたのはアンナだ。「座ってもいい?」と聞いてきたので、アンナ分のスペースを空けてベッドに座りなおした。
「……納得できないって顔か?」
しばらくの沈黙。座ったというもののなかなか切り出さないアンナに代わってシンクローがそれを破った。
「………あたしのせいだ」
「は?」
「………あたしのせいでシンクローが」
「ちょっと待て。どうしてそうなる」
「あたしがシンクローに助けを求めなかったら、願わなかったら、こうはならなかったはずなのに」
どうやらこの少女は何かしらに責任を感じているらしい。が、その「何かしら」も「責任」も勝手な思い込みに過ぎないとシンクローは考えていた。この思い込みがその通りだったとしたらアンナは盗賊と繋がっていたことになるが、だったら荷馬車で強姦されそうにはなっていないはずだ。
第一に、懺悔は老エルフ神父の役目だろうに。神父服を着ただけの青年には相談事は荷が重い。
「確かにな。助けなかったら協会から出ていくなんて話なかったかもしれないな」
「…………やっぱり」
「でもさ、そこにお前はいないんだぜ?助けに行かなかったらあのまま犯されて売られて、最悪殺されていたかもな。そしてさ、後悔するんだよ。あのときどうして行動しなかったんだろうって。そしたら違う結末があったんじゃないかって。そして行動した結果がこれ。俺は村を追放されるけど、アンナは無事で俺も無事。今こうして顔を見ながら話してる。ベストじゃないけどベター………じゃあ分からんか。あー、最高ではなかったけど比較的良かった結末だっただろ?」
相槌は打たせないように、それでいて優しくまくし立てた。
アンナが欲している断罪はシンクローにはできない。追放自身は彼が招いたものだ。だから気休めではなく事実を突きつけた。
ただこれで気が晴れるとも思わなかった。
「これで良いんだ」
「……シンクロー」
「もしさ、それでも自分のせいだと思うなら、そうだな、自分で考えた責任を取れ」
仕事で失敗することはある。人が絶対でない以上失敗は付き物だ。そのヒューマンエラーで責任を感じたのであれば、次を無くすように行動するか、または自分の失敗が別の他人でも発生するかもしれないのでその対策に努めるかしかない。
「………え、それって」
「それにさ追放って言ったって引っ越しするようなもんだろ?言葉が通じないのは不便だが、村の外で暮すのは異世界生活に良い刺激になるはずだからあまり気にすんなって」
「………なのさ、シンクロー。さっき言ってた責任、あたし取るよ。今はどうすればいいか分からないけど、絶対に責任取る」
「お?おう、楽しみにしているよ」
この年下の少女は圧倒的に経験が少ないはずだ。シンクローはアルバイト込みでいろんな仕事をしていたので失敗に対して試行錯誤してきたが、果たしてアンナはどういう答えを出すか。子供の考えることだから可愛いものなんだろうなぁ、と楽しみになる要素が増えた。
◆
「ふぅ、間に合ったか」
「神父どこへ行ってたんですか?」
大地はまだ黒く染まっている未明の朝。太陽が隠れているが、空は白み始めてきたので夜明けは近いのだろう。朝が早いとされている時間帯でも農民の姿がちらほら見えていた。。
太陽の恩恵がまだ届いていないので肌寒く感じるが老エルフ神父から譲られたマントのおかげで温かさは保たれていた。
老エルフ神父と会ったのは、目覚ましなしでも起きられたシンクローが旅支度を整えて教会の外に出てきたところだった。
「話に聞いていたドラゴンの屍があるところに行っていた。これを渡すためにな」
受け取ったのは薄くてつるつるしたものだった。手のひらサイズの靴ベラのような形で薄いわりにかなり硬い。しかし叩いても金属らしい音はしない。
「それはドラゴンの鱗だ。売ればかなりの額になる。路銀にしてくれ」
教会の再建を理由に最寄りの町までの費用を受け取らなかったシンクロー。日本人の謙虚な姿勢というか遠慮は時として毒にもなるが、この神父はならばとこれを渡してきた。
故郷からの落し物は神父の物となったが、討伐した魔物を材料にした素材は倒した本人の物となる。つまりあのドラゴンはシンクローの所有物となっていた。寄付しようとしたが、見てきた神父が言うには落し物だけでも十分なのにドラゴンの分のお金まで受け取ってしまうと使いどころがないお金が溢れてしまうのだそうだ。と、日本人の過度な謙虚に説教された。
「最後の最後まで、お世話になりました」
「世話になったのは此方のほうだ。今後はどうするつもりだ」
「まだ何も考えていないんですよね。とりあえず町についてからってことで」
「そうか。皆に挨拶していかなくていいのか」
「寝ている子供たちを起こしてまで別れの言葉は欲しくないですよ。それに社交辞令ぽくて嫌いなんですよ」
「アンナもか」
「昨晩のうちに済ませました」
「そうか。最後に、僅かな間だったとはいえここはシンクローの家でもある。いつでも帰ってきていいのだぞ」
「わかりました。その時はお土産を用意しておきますね」
荷物は空のキャリーケースに槍。お金の代わりになるかもしれないドラゴンの鱗一枚。先行き真っ暗な所持品だがシンクローの顔に曇りはない。何とかなるさ、と考えている節である。
「待ってシンクロー!」
いざ緑の棒に跨り空へ飛び立とうとしたとき、慌てて現れたアンナの制止の声が掛った。
「これ、渡したくて」
「これは?」
「故郷に伝わるお守り。あたしが掘ったもの」
首に掛けられるように紐のついた手のひらに収まる木彫りの円環だった。木製の輪っかの表面にはどこか民族らしい幾何学模様が彫られていた。
「形にはあまり意味がなくってその模様に魔除けの力があるとされていて、だからちょっと形が歪だけど模様はちゃんと彫れたから大丈夫。だから、その……あたしだと思って、身に着けてくれたらなぁ、なんて」
「ありがと。大事にする」
シンクローが首に掛けるところを見て嬉しそうに笑うアンナ。感極まって抱き着いた。シンクローはされるがまま、目の前に来た小さな頭を撫でた。やがてゆっくりと離れた。
「いってらっしゃい!」
「いってきます」
改めて緑の棒に跨ると、シンクローの両足は音もなくに地面から離れた。そのまま協会の屋根の高さまで昇る。
シンクローが振り返れば、子供が家を出るときの父親のような穏やかな笑みを浮かべる老エルフ神父と太陽のような満面の笑みで両腕を振るアンナの姿が。社交辞令じみていない純粋な別れに照れ臭くなりながらも手を振って応えた。
ゆっくりと、次第に早く、それでもあっという間に双方の距離は空いた。
「……早く大人になりたい」
「焦らなくても時が来れば時期になれるさ」
日が差した。光とともに温もりまで二人に届けられた。
青年の姿を見えなくなるまで見送った少女は目に光るものがあった。ただ表情は晴れやかだった。
今まで見送ってきた兄姉の時のような悲しみと不安はそこには無かった。
それは少女が教会に連れてきた以来、老エルフ神父が見たこともない笑顔だった。
未来に期待する表情と朝日に眩しさを感じた神父は目を細めた。
「……………やはり、なのか」
昔を思い出す。
あのとき誰もが暗い淵に泣きながら立っていた。
あのとき誰もが下を向いていた。
前を見ることが怖くて、後ろを振り返ることが不安で、見上げる空はその高さから虚空でしかなかった。
死ねば楽になれる。
そんな錯覚を断ち切り、腕を引っ張ってくれた一人の人間。
現状を良しとしない男は、絶望の闇に向かって歩き続けた。立ちふさがる闇を、絡みつく闇を、押し退けようとする闇を、そのすべてを切り裂いていった。
共に歩き続いたことで光を教えてくれた。明日を教えてくれた。未来を教えてくれた。
エルフは問うた。なぜそこまでするのか、と。
男は答えた。せめて自分の周りだけは明るくしたい、と。
世界の誰もが彼を知らぬ者はいなくなった、その晩年。教会を託された。
最後まで共に歩いたからこそ光を教えてやってくれてと。明日を教えてやってくれと。未来を教えてやってくれと。
不器用なエルフは応えた。応え続けた。
せめて、彼の願いが続きますようにと。
だから、あの時。助けに行くと決めた青年と記憶の中にいる男の姿が重なった気がした。
そしてエルフ同様に救われた少女がいる。
記憶の男が後世になんと呼ばれたか。
巣立った青年がなんと呼ばれるか。
「…………私には、真似しかできなかったようだよ、友よ」
「神父様?」
「いや、何でもない。時にアンナよ、大人になることは楽しみか?」
「はい、楽しみです!」
「そうか、私も楽しみだ。それでは皆を起こそうか」
「はい!みんなー!朝だよー!」
いつもの朝が来た。かつての朝が来た。
数日の間に一人増えいつの間にか一人減ったことに、子供たちは驚いていた。
しかし、いつも通りだ。荒れた協会にかつての営みが戻ろうとしていた。
少し違うのは、いつもサボろうとする猫人の少年がサボり癖を直して、水汲みと森の散策をするようになったことくらいか。
「さて、どうしようか」
シンクローは飛びながら考える。
このまま直線に進めば大きな町があることは神父から事前に教えられた。距離は馬で三日くらいとのこと。キロ単位で教えてほしかったが、異世界では仕方がないことだ。今は大地を走る馬より早く飛んでいる。夜通しか野宿は覚悟していた。
シンクローの悩みは町に着いてからだ。仕事をするにしても家に住むとしても、その知識、常識がない。残念ながらシンクローの異世界知識は協会と村で過ごした分しかない。先行き不安になっていた。
「目的というか目標があれば気合も入るんだが」
元の世界でも高校大学就職を果たしたシンクローは既に生活リズムが築いていた。惰性に乗って作ったスケジュールをこなせば、一般的な生活で怖いものはなくなる。しかしここは異世界。築いた生活リズムは木っ端微塵であり一から作り直さなければならなかった。
勇者でも野心に燃える百姓でもないので高みに上るつもりもない。普通が一番。
ならばその普通に従って、就職と奥さんと結婚して購入した家でゆっくりと過ごすのも悪くはない。ザ・ヒューマンリズム。模範的人間らしい生活。
「……あー、家で思い出した。こっちにあるはずなんだっけ?」
教会で老エルフ神父は言っていた。地球はこの星に取り込まれただけで故郷は存在すると。
いくら誤解で集団心中が起こって人口が減ったとしても故郷は故郷。心配にならないはずがない。正確には元住んでいたアパートと実家と唯一の肉親である母親。
「あの呑兵衛が心配するとは思えないが、荒れてるんだろうなぁ………一旦帰るか」
荒れているのは心情ではなく家庭のゴミやホコリのほうである。
予定変更。まず実家に帰る。でもって生存報告。それから異世界生活を楽しむ。これの流れが決まった。
「となると、道に詳しいガイドとそれを雇う金、旅の諸々…………結局は仕事だな。結局は金か」
異世界に投げ出されし青年シンクロー。無職。
今、諸々の事情により金銭を稼ぐ生活が始まろうとしていた。