眩惑蝶の皇子(8)
朦朧としながらも意識が覚醒することは何度かあった。
なんとか逃げ出さなければと身を起こそうとすると体の力が抜けて、再び気を失う。
香炉から吐き出される微粒な塵は魔力ばかりか自由な呼吸さえも奪っていく。
ここはどこなのだろう?
わたしは一体どうなってしまうのか。
…ああ、ノヴァ…あなたに会いたい…。
ひとりになってしまうと、わたしはここまで頼りない人間だったなんて。
薄っすらとした意思が浮かび上がっては消える。
今が昼か夜かもわからない。どれほどの時をこうして過ごしているのかも。
最後の抵抗を示すようにペンダントを握りしめている。その力も限界に近い。
暗闇に取り残されたような孤独の中で、内なる呼びかけが届く。
『……さま…ひめさま…ひめさま』
小さな男の子の声のようだった。
『ひめさま、だいじょうぶだよ。ぼくがあなたをまもるから』
だから、と続ける。
『そのゆびをほどいて。だれにもふれさせない。ひめさまをまもるのがぼくのやくめ』
もう一度、だいじょうぶだよ、と優しく囁いてくれる声に不思議と懐かしさのようなものを覚え、信じてもいいと思えた。
それに、もう指に力は入らない。
ゆだねるわ…あなたに…。
アウロラの指はするりと解け、あらわになったペンダントは澄んだ光を放ち、目覚める。
青白い光は球体の魔法陣を作り出し、アウロラに覆いかぶさる。
その外で起こっている出来事など瑣末とでも言うように静かで、塵の効果を薄める。彼女の呼吸も少しばかり緩和され、衰弱を抑える。
安らぎを得て、アウロラは安堵するように深い眠りに落ちた。
混沌とした微睡みを呼び起こしたのは、あの小さい男の子の声だった。
アウロラを小さく揺さぶっていた。
「ひめさま、おきて。おきてひめさま」
「………?…」
衣摺れと共に身を起こすとベッドの上にいた。部屋の中は見覚えがある。森の中にあるルベウス屋敷の自室だ。
窓を見やると、外は漆黒が蠢いていた。部屋の中もぼおっとしていて、まるで夢の中だ。……ならばこれは、現実ではないのか。
そのままの姿勢で振り返ると、そこに小さな男の子はいた。
しっとりとした黒髪に、くりくりとした青い瞳を持つ、可愛らしい少年だ。…ノヴァに似ているような気がする。
体に不釣り合いな大きめのカンテラを手にしたままベッドにちょこんと座って、アウロラを見上げていた。
カンテラには青い炎がゆらめく。
「ひめさま、だいじょうぶ?」
「……え…ええ…」
戸惑いながら頷く。
この子は、誰なのだろう。先ほど同じ声を聞いた気がしたが、この子だったのだろうか。
男の子はアウロラのベッドからおりると、カンテラをかざし、青い炎を覗き込む。
「あなたがわたしを助けてくれたの?…あなたは、だあれ?」
記憶が確かなら、ヘレルの身を用いた何者かによって拉致されたはずである。
「ぼくは、アイギスだよ」
「……アイギス?」
アイギス、つまり…盾。
「おくれてごめんなさい。ほんとうは、もっとはやくひめさまをまもりたかったんだ。でもぼくはとけいのはぐるまとおなじ。きまりがあるんだ。ぼくはそれにさからえない」
アウロラもベッドからおりて、男の子と向き合う。
「ぼくはきまりのなかでしかひめさまをまもれない。あのおうじさまにとりついているわるいものがでてきて、やっとひめさまをまもれた」
「………あなたは、一体…」
「ぼくは、『かれ』がつくったアイギスだよ。ぼくはいつも、あなたといっしょにいるよ」
「……かれ?…一緒に…まさか、あなた…ノヴァが作ったペンダントなの…?」
胸元を探るが、あるはずのペンダントはそこにはなかった。
「ここはげんじつせかいではないから、ぼくはこのすがたなんだ」
「………そ、そうなの?」
「うん。ひめさまはぼくのことを『このこ』ってよんでいるでしょう?だから、こうなったみたい」
「………」
思わず片手で頭をおさえる。
たしかに、アウロラはノヴァがくれたペンダントを『この子』と呼んでいたが、たったそれだけでペンダントが姿や人格を得るものだろうか。…いや、前科はあるのだが(ノヴァにプレゼントしたブレスレット)。
「げんじつのせかいでは、ぼくがひまさまのからだをまもってるからしんぱいしないで。ぼくはひめさまをまもるために8つのかべをつくることができるのだけど、いまはまりょくをおさえるために1つだけ」
「……ペンダントには、そんな仕掛けが」
知らなかった。いや、教えられていなかった。
アウロラの魔力を安定させる設計がなされていることのほかに、防御壁の回路まで組み込まれていたとは…。
これをくれたとき、ノヴァはまだ13歳だった。何度か調整されてはいるものの…。
もう…こんな大事なことを黙っているなんて…。
「ノヴァったら…すごすぎるわ。どこまで天才なの」
アウロラはノヴァを否定しない。
アイギスと名乗った少年は、まるで自分が褒められているようににっこり笑った。
「『かれ』はかならずひめさまをたすけにくるよ。だからもうすこしだけ、まっててね」
「ええ。信じるわ。ノヴァはきっと来てくれる。……でも、きっとすごく叱られちゃうわね」
彼の小言はしっかり受け入れるしかない。いや、今はその小言が恋しい。
曖昧に笑った後、ところで、とアウロラは部屋を見渡す。
「どうしてわたしはお部屋にいるのかしら」
「ひめさまがむいしきにあんぜんだとおもってるところ。それがこのおへや」
「…無意識に安全だと…」
何重にもかけられた結界の中にある屋敷と、長く過ごした部屋。安全地帯だという無意識の認識が根付き、反映されたということか。
「じゃあ、ここは…精神世界のようなものかしら」
「うん。ひめさまがあのくるしいばしょからじぶんをまもるためにつくったせかいだよ」
「……そんなことが可能なのね…」
もうなんでもありだ。
「ひめさま」
「なぁに?」
小さな彼の外見に合わせて、つい話し方も幼くなってしまう。
「…ひめさまとはなしたいひとがいるみたい。さっきから、ひめさまといしきをつなげようとしてるひとがいるんだ。…ううん、ちがう。ずっとまえからひめさまをさがしてたひと」
アイギスは部屋の壁を通して、意識を集中するように眼を細めた。
「話したい人?…こんなところで?」
「ここでなければはなせないひと。うんととおいじかんをこえてきてる。すごいまりょくのもちぬしだよ。あくいはないみたいだけど…どうする?」
「………」
時間をこえて?凄い魔力の持ち主…。
魔術師か魔女であることに間違いはなさそうだ。それも、半端な相手ではない。
警戒しないわけではないが、ここにいても現状が解決されないのならば会ってみるべきか。
「このお部屋を出ても、大丈夫?」
「うん、ぼくがいるからへいきだよ」
「……じゃあ、話してみるわ」
「わかった。ひめさま、おてをどうぞ」
小さな手の平を差し出しすアイギスに、アウロラは素直に重ねる。
ぎゅっとアイギスはアウロラの手を握った。
「ぼくのてをはなさないでね。ひめさまのいしきとからだをつないでいるのは、ぼくだから」
「ええ、ありがとう。わたしの小さな騎士様」
微笑むアウロラの手を引いて、アイギスが歩き出すと部屋の扉は静かに開いた。
廊下はどこまでも闇が広がっている。
深淵を覗くよう。吸い込まれそうだ。
「アイギス、あなたには行き先がわかるの?」
「なんとなく。ぼくはそのひととも、ほんのすこしだけ『えにし』があるみたい」
「縁が?」
「うん、だから…ぼくはきづいたのかも」
暗闇に踏み出したアイギスは一寸先も見えない闇を青い炎のカンテラだけで進んでいく。その足取りには迷いがない。
闇の中で曖昧になる自身を確かなものにしているのは、繋がれた手だけ。
どれほど進んだのか、闇の中にわずかに明かりの漏れる部屋の扉を見つける。
「あの部屋?」
「うん、きっとそうだよ」
アイギスが頷くと、扉は一人でに開いた。
「むこうもきづいたんだ。いしきがひらかれた」
手を繋いだままの姿勢でアウロラはゆっくりと部屋を覗き込む。
部屋は暖炉の火を中心にしてぼんやりとした明かりが広がっている。部屋の調度品は随分と古めかしい。
おずおずと部屋の中に入ると、人の姿に気づく。
ソファにゆったりと腰掛けている髪の長い女がアウロラに視線を流した。
「…お母様?」
思わずそう呼んでしまったのは、くつろぐ姿までアレクシアに似ていたから。しかし、すぐに違う女性だと気づく。
「母でも間違いではないが、どちらかといえば大きく年の離れた姉といった具合だな。……やっと見えることができたな、我が小さき妹にして、ルベウスの遠き未来よ」
ルビー色の瞳を輝かせて、その女、かつての美しきルベウスの魔女は笑った。
「突っ立っていないで、座ったらどうだ」
「は、はい…」
促されてアウロラはアイギスと手を繋いだまま、そっと向かいに腰掛けた。
「…ここでは手を離してもいましの姫は見失わぬよ」
アイギスに彼女は話しかけるが、彼は小さく首を横に振って拒む。
「…ふ、よく働く子よ。いましはサフィルスの作か。弟の匂いまでしておるとは…不思議なものだ」
彼女は小さく笑みを浮かべた。少し鋭さの角が取れ、表情が和んだように見えた。
改めてアウロラを見る。
「なれの名は?」
「アウロラです」
「アウロラ……そうか、覚えておこう」
「……あなたは、ルベウスなのですか」
「確認する必要などなかろう。我となれは同じ存在だ。魂が異なっておるゆえ、一所で見えることが叶ったが。我はなれにもう一度会いたいと思っておったのだ」
「…もう一度?…どこかで、お会いしたことがありましたか?」
首をひねる。
「なんだ、なれは忘れたのか。なれは%&$#と共に在った我を見ておったではないか。あれはゼノの雑魚どもを焼き尽くしていた時だったか…視線を感じて振り返ってみれば、なれがおった。すぐに消えてしまったがな」
一部聞き取れなかったが、彼女の言葉をきっかけにして唐突に記憶が蘇る。寸前まですっかり忘れていた、あの夢の出来事。
「……!……ドラゴンに乗った女の人?!……森が燃えていた……あれは、あなた?!…でも、あれは夢なんじゃ…」
「夢。そうか、なれには夢であったか」
「現実だったと?」
「少なくとも我にはな」
赤き竜を従え、ゼノと呼ばれる魔物と戦ったルベウス。それは、すなわち…。
「……あ、あなたは、ルベウスの始祖様、なの」
「……後の世では随分と仰々しく呼ばれておるのだな」
眉を寄せる彼女を前に、アウロラは信じられない気持ちでいっぱいになる。
始祖ルベウスは400年ほど前の魔女だ。実体ではないのだろうが、その魔女が目の前にいて、さらには会話をしている。
さすがは始祖と呼ばれるだけあって、ただ座っているだけでも迫力がある。
先祖と子孫の邂逅。
…というような生易しいものではない気がする。
「あの晩、なれを見たことで我には疑問が生じた。よろず、意味のないことなどない。あそこになれがいたことはきっと我にも関わりのあることだと直感した。故に、なれに再び接触する機会を伺って先の世を探っていたのだが……しかし、なれはなぜ今、精神体で行動しておるのだ」
「あ…ああ、それは…」
アウロラは戸惑いながらも、仔細を説明する。
すると、彼女はクッと口角を歪めて楽しげに笑った。
「フューシャめ、ルベウスを絡め取るとは、やるではないか」
常人ならば震え上がりそうな迫力ある笑顔である。
「我を欲するあまりにそこまで腐れるとはの。…で?なれはその腐れにまんまと引っかかったわけか」
「………。全く、面目ありません」
「ふふ。…いや、おそらく過程として必要なことだったのだ。ここで我と見えるために。あえて見逃したのだ」
「?」
誰が?
意味わからず首をかしげるアウロラを他所に、彼女は続けた。
「ここで、再びなれと見えて確信を深めた。なれの体は、我そのもの。本来、先の世で再び我が宿るはずだった肉体であろう。…だが、現実にはそうはならなかった」
瞳を細めて彼女は思案をはじめる。アウロラには何のことはよくわからない。
「…アウロラが、あなたの再来だと言われていたことと関係が?」
「『再来』か。…おかしなことだ。我は我の魂と記憶を有したままその体を持つはずなのだ。…だが、そうならなかったのならば、我にも覆せぬ不都合が生まれたのだろう。……まあよい、その肉体を有するなれには伝えておかねばならぬことがある」
「…伝えておくこと?」
「うむ、気まぐれに我は転生を繰り返すにあらず。明夷の門が開く時、我もまた生まれる。すなわち、再びゼノが攻め入ってくるぞ」
「…………ええ…?!」
寝耳に水。アウロラは腰を浮かして声を上げる。
「…いえ、魔物はあなたが倒したのでは?それに、また攻めて来るって…」
「倒してはおらぬ。門の外へ押し戻しただけだ。そもそも、やつらを滅ぼすことはできぬ」
彼女はやれやれと息を吐き、大きく背もたれにもたれかかった。
「やつらは厄災のようなものだ。防ぐことはできても、無に帰すことはできぬ。できるのならば、我がしておったわ」
忌々しい、と目元を歪める。
「……でも、でもどうして、あなたの出現と魔物の侵攻が重なると言い切れるのですか」
「…我は、そのために『作られた』からだ。やつらと拮抗するための『脅威』として。我とやつらの侵攻は呼応する。切っても切り離せぬ。やつらが動き出せば、我もまた生まれ来るのだ」
作られた?脅威として…?
それはどういう意味なのか。
「…だが、我自身ではなく、なれがその身に宿っている以上、なれが立ち向かわねばならぬ。ゆえに伝えておくことにした」
「……そ…そんな…」
「なれの時代の魔術師は為政者共に飼いならされて、さぞ牙を抜かれて腑抜けておるであろう。忘れるな、アウロラよ。なれは食われる側のウサギではない。だが地を駆け、空を舞う単純な捕食者でもない。なれは、どれにも属さぬ、理から外れた異端の者だ」
「………」
「それほど猶予はなかろう。支度を怠るな。人でも物でも国家でも、利用できるものはなんでも使え。…だがまずは、カルブンクルスを得よ」
「カルブンクルス……魔法銃の」
「そうだ。なれは正当な使い手である。カルブンクルスも従うであろう」
「…でも、わたし、どこにあるのか知りません」
「そなたの母にでも聞け。そのように後世に残す」
「………」
アウロラは混乱していた。いや、ほとんど理解できていなかった。
この状況下で爆弾を落とされるとは思わなかったからだ。
魔物が攻めてくる?また?世界を滅ぼすために?
とんでもない話ではないか。
ブラッディ・ルベウスとなり、アウロラが狂気を撒き散らさなくとも、門は開いて魔物たちが侵攻するというのか。
始祖の生まれ変わりであるはずのアウロラが誕生した時点で、確定された未来。
それらと対峙せねばならないのか、アウロラが。勝利を約束されたヒロインではなく、斃されるはずのアンチヒロインのアウロラが。
どういうこと?シナリオが、機能していないの…?
アウロラにわたしが成り代わったことで、流れが変わってしまった?
アウロラは青ざめた。
「…それからなぁ、ずっと気になっておったのだが」
「?」
「もしや、なれは魔力が不安定なのではないか?」
「そ、それは…」
見透かされ、はっとして顔を上げる。
「精神体故によく見える。なれの魔術回路にこびりつく淀みがあるな。なれの中に巣食うっておるその澱…取り除いてもよいか。いや、我に取り除かさせるために残したか。だとすればこれは通過儀礼…」
味な真似をさせる、と彼女は笑った。
「え?」
身構える間もない速さで彼女は動き、腕をアウロラの胸に突き刺した。
「…?!」
痛みはない。
だが、心臓を掴まれたようにぐっと息がつまる。精神体から隔てた肉体へとその手は及んでいるのだ。
始祖、おそるべき魔女。
「よし、掴んだ」
突き刺した時と同じ速さで抜き取ると、その手のひらにはヘドロがこびりついている。
「……な、…?」
ヘドロは彼女の手のひらで蠢く。
「…こやつ意思を持っておるのか。…ならばさぁ、『偽らざるその姿を我に示せ』」
命じるように魔法をかけると、そのヘドロは歪に震えながら徐々に人の形を作り出した。
ヘドロは、少女の姿を取る。
アウロラは息を飲む。
それは、10歳の姿をしたアウロラだったからだ。
ヘドロのアウロラは顔を怒らせて口を開いた。
「……この偽物!わたしの体を返せ!!」
…と邪悪に満ちた眼差しで第一声を放った。
アウロラは、いや『わたし』は咄嗟に立ち上がった。
手がつながったままのアイギスは驚いたようにアウロラを見上げた。そして次にヘドロを見やり、嫌悪する。
「……あのこ、いつも、ひめさまをじゃましてた。すごく、すごくいやなこだよ」
「邪魔?違う!そいつがわたしから体を奪ったんだ!わたしの体でのうのうと!!よくも、好き勝手にやってくれたな……!」
「……あなた、アウロラ、なの」
本物の。
愕然とする『わたし』に、アウロラは感情的に続ける。
「他に誰がいるっていうの?!お前がわたしの人生を奪ったんだ!返せ!!わたしの体を返せ!!」
「………っ…そんなこと、言われても…わたしだって、どうしてこんなことになってるのかわからないのに…!」
「お前の事情なんかどうだっていい!!返せ、返しなさいよ!!そうして滅ぼしてやるんだ!!わたしにこんな屈辱をあたえた連中を痛めつけて、全部ぶっ殺してやる!!お母様もお父様も伯父様も……全部全部壊してやるんだ!!」
「……なかなか偏っておるな。なるほど、回路の歪みを正すため、善良な魂を必要としたか…」
ひとりで納得するように始祖は腕を組む。
「まずお前の魂を引き裂いてやる!!輪廻に乗れないくらいにズタズタにしてやるんだ!!永遠に虚無をさまよえばいい!!」
残酷な言葉しか紡がないその口は、何かを思いついたようにニヤリと笑う。
「…そうだ。あいつ、ノヴァ」
「…?!」
「あいつはわたしのフラテルよ。死ぬまでわたしのおもちゃとしてたくさん遊んであげなきゃね…!」
きゃはははと笑う醜いヘドロに、『わたし』は…否、アウロラであるわたしは堪えられない怒りがこみ上げる。
アウロラはノヴァを従属させ、支配しつづけた。精神を、肉体を虐げ、絶望だけ与えて苦しめ続けた。家族を傀儡にし、最後は殺した。
此の期に及んでも、己の欲望にしか興味がないのだ。この少女は。…邪悪な魔女は。
「…そんなこと…そんなこと絶対許さないわ!あなたが自由にしていい道理なんかひとつもない!ノヴァはわたしのフラテルよ!ノヴァを、家族を傷つけるようなあなたを認めないわ!!あなたに体は返さない!!」
それははじめて『わたし』が抱いた明確な意思だった。どこか、いつもアウロラに対して遠慮があったように思う。
彼女の肉体を奪っているような後ろめたさがわたしの中にはあった。
でも、もう…そんなこと考えないわ。
守るのよ、わたしがノヴァを。家族を。
「アウロラは、わたしよ!!あなたじゃない!!消えるのは、あなたの方よ!」
「……なっ…」
ヘドロのアウロラは気圧されたように震える。しかし、すぐにその感情を怒りに染めた。
「…ふざけるな!どの口でわたしを名乗るんだ!!わたしがアウロラなんだ!認めてもらう必要なんかない!…それに元を正せば、お前の所為だ!あの時あらわれた女、あれは…お前だった…!」
告発でもするように始祖を指をさすヘドロのアウロラの口元がゴボっと吹きあがって潰される。
「もう囀るな」
ヘドロは内側から弾けるようにして潰れて崩れ落ちる。
何か、重要なことを言いかけていたように思ったが…。
崩れたヘドロに目を落とす。これが邪悪な少女、アウロラの末路。
「可哀想な子。こんな風にしか成長できなかったなんて。でも、同情しないわ」
始祖はそれを指先で引き寄せて再び手のひらに乗せた。
「……なかなかに混沌を抱えておる娘だったの。しかし執念で回路にしがみついておったこの娘の根性は認めてやらねばな」
そして、啖呵を切った『わたし』…アウロラを見て微笑む。
「弱腰のまま、この娘に屈したらどうしてやろうかと思ったぞ」
「わたしも、感情的に怒鳴ったりできるとは思っていませんでした」
アウロラは苦笑を浮かべた。
「さて、こやつはどうする?虚無へ投げ捨ててやってもよい。しかしこれほどの殺意……これはこれで使い道は他にもあるが」
「…使い道?」
「そうだ」
頷く彼女は少し考えるそぶりを見せると、ヘドロの上にもう片手を当てて、すばらくスライドさせた。
その瞬間、ヘドロは禍々しい赤黒い剣に姿を変える。
「…あの子が、剣になった」
「正確には魔法剣のスモールソードだが、なれには使い勝手がよかろう。なれのサフィルスに退魔効果を持つ銀で柄と鞘を作らせるがよい。とはいえ、これは殺意のかたまり故、軽く刺突しただけで即、死に至らしめるだろうがな」
「そ、即死…」
ぞっとする。
「そうさな、銘はミセリコルディアとでもしておくか」
「……ミセリコルディア……じ、慈悲、ですか?」
「一瞬で苦しみを奪うのだ。言い得て妙であろう」
いや、どちらかといえば随分と皮肉の効いた名前だ。
「あやまってサフィルスを切りつけて命を奪わぬように、なれの血石を持たせるがよい」
「き、切りつけたりしませんけど……でも、血石って?」
初耳だ。
「知らぬのならサフィスルに聞け。あれは色々と便利だぞ。我も弟に持たせているが我のあらゆる攻撃の巻き添えを食わぬしな。つまり、危うく殺しかけることがない」
なるほど。つまり、その血石とはお守りのようなものだろうか。
「それ、持っていけ」
彼女はアウロラに生まれたばかりの剣を差し出す。
剣に触れた途端、それは姿を消す。
「…?!」
「案ずるな、なれの回路に格納されたのだ。もう悪さはできぬし、以後なれの魔力は安定するであろう」
「あ、ありがとうございます」
まさか、まだ体にアウロラの意思が残っていたとは思わなかったが、しかし魔力が安定しなかった理由が彼女の横槍であったのならば、納得もできた。
かつてのアウロラの残滓が剣となった今、魔法を使うことに躊躇いがなくなった。
気持ちの霧が晴れたように思う。あとは、自分の体が正常な状態に戻るだけだが。
その時、アイギスがはっと顔をあげて、アウロラの手を引いた。
「ひめさま、『かれ』がきたよ」
「ノヴァが…?」
「うん、『かれ』がよんでる。ひめさまをすごくしんぱいしてる。いこう、ひめさま」
アウロラはノヴァが来てくれたことの喜びから安堵の笑みを浮かべた。
「ええ、行きましょう」
立ち上がったアイギスに手を引かれて、部屋を出て行こうとするアウロラを彼女は呼び止めた。
「アウロラ」
「…はい」
「忘れるな。なれはウサギではない」
「……はい、始祖様…いえ、スカーレット様」
アウロラは神妙な顔で頷いた。
すると彼女は少し表情を緩めて、「スカーレットはやめよ」と遮り、名乗った。
「我はアリザだ。アウロラ」
それが、彼女の名前なのか。どこにも記されていなかった、始祖ルベウスの名。
「……はい!アリザ様」
「では、またな」
アリザは片手を上げて漆黒に飲み込まれていくアウロラを見送った。そして、アリザも闇に溶けるのだ。
※
意識が覚醒すると、アリザは髪をかきあげた。
随分と長く意識下に潜っていたようだ。
部屋の様相は同じだが、窓には陽の光が降り注いでいる。
流石に時を隔てた邂逅は魔力消費が激しく、疲労を感じる。あまつさえ、魔法剣まで作り出してしまったことであるし。
あの娘、アウロラの生きているときはざっと400年ほど後だ。血の繋がりがあるとはいえ、なかなかに苦労を強いられた。
しばらくは休息が必要だ。
「無防備すぎるよ、姉さん。一体どこまで飛んでたんだ?」
その間、ちゃんと俺が母子共々守ってたけどね、と近くで赤子を抱えてあやす弟は笑う。
「探し物と接触できた」
「へぇ。姉さんが見たっていう、未来のルベウスと?」
「そうだ。あの娘と邂逅して以来、何度か未来視を試みたが、答えはいつも同じだった。そして、確信した。やはり我は転生できぬらしい。……ならば、我らも動き出さねばな」
真顔で呟く姉を見つめ、彼は肩にかかる長い三つ編みを赤子に弄ばれながら「その子に恨まれるだろうけど…仕方がないね」と肩をすくめてみせた。
「我にできるのはお膳立てだ。世界の存続も滅亡も、最後はあれが決めること。その選択を我らは受け入れる。それがルベウスと、これからはじまるサフィルスの意志である」
「ええ。全ては姉さんの仰せのままに」
次代のルベウスである赤子を抱いたまま、わざとらしくうやうやしい礼をして茶化す弟の顔も近々見納めになるだろう。実行に移せばもう、生きて彼にも娘にも会うことはないのだから。
あとがき書き忘れてました。
始祖様はアリザと名乗ってますが、略名です。正式名を名乗る時がなさそう(創作内で)。




