眩惑蝶の皇子(7)
ヘレルが育ったのは都から大きく外れた位置に建つ離宮だった。
母と父は、はとこの関係にあった。身寄りも後ろ盾もない母は後宮に入ることを拒み、父はこの宮を与えたのだった。
何人もの妃や愛妾を持つ父が母を愛したのは一時のことで、ヘレルが生まれる頃には寵は別の女に移っていた。
夫の足が遠のき、活気を失った離宮の中で、母は寂しさから次第に衰弱していった。元々心の強い人ではなかったのだ。
魔術師として生まれたヘレルが見せる幻術の蝶を彼女はとても喜んだ。母が笑うとヘレルも嬉しくなった。
けれど、母に生きる活力を与えることはできなかった。彼女はヘレルが10歳になる年に失意の中、儚くなった。彼女の臨終の際にも父は駆けつけなかった。
悲しかったのは母を失ったことよりも、その母の生きる支えになれなかった自分の存在価値のなさにだった。
冷たい孤独の中、ヘレルは身の振り方を決めなければならなくなった。
皇子という肩書きに未練などなかった。成人後はただの魔術師となって生きることを決めた。
彼の決意を父王は受け入れ、本格的に彼に魔術師の教養を学ばせるように手配をした。成人するまでは、王宮魔術師が彼の師匠となる。
離宮から王宮へと居を移る支度をしていた彼の目に、いつもは砂で霞んでみえない、寂れた古の都が夕日に照らされていた。人の侵入を拒むように、その枯れた都は砂塵に包まれていて、彼もその姿を確認したのは初めてのことだった。
まるで呼び寄せられるように、ヘレルは支度の手を止めて、離宮を出ると砂の都へと向かった。
馬を走らせてその古都へ近づくと、かつては立派な都市であった名残を端々に垣間見る。比較的形を留めている城は、先祖が暮らしたものであることは知っていたが、実際に目にすると感慨深いものがある。
ほんのわずかに水場は生きていたが、しかし多くの人間を賄うことはできない。そのため、この街を捨てることになったのだろう。
馬を水場に残し、ヘレルは街を見て歩く。そしてその足は自然と城へとたどり着く。
城は一部屋根が崩落してはいるものの、いくつかの部屋はまだ当時の風情を残している。
一通り見て歩き、とある部屋に残る窓辺に腰掛けて、息をつく。
かすかに残る壁の装飾から、おそらくこの部屋は王か皇子の居室であったことを察する。
成人したら、王宮を出て生きていこう。しっかり修行すれば、魔術師として生計を立てることもできるだろう。
それまでは、父や周囲の人間を利用するだけのことだ。
母を捨て置いた父には恨みがあるだけで、情などない。父の方とて、数いる子供のひとりとしか思っていまい。
改めて、成人するまでの我慢だ、と自分に言い聞かせ立ち上がる。
離宮をはなれる前に、この古の都を見ることができてよかった。それだけが、今の心の慰め。
部屋を出るために歩き出すと、部屋の壁の一部が音を立てて崩れて落ちる。
驚いてそちらに顔を向ければ、小さな小部屋へとつながっているようだった。
ただヘレルを驚かせたのは、その小部屋はずっと隔離されていたのか、風化を免れ、本棚な調度品が当時の姿のまま残されていたことだった。
扉のない部屋。意図的に入り口を塞がれ、塗りつぶされた形跡を見て、眉を寄せた。しかし怪しさよりも、風化を免れたその秘密の部屋に、ヘレルは小さな好奇心を抱き、近づく。
突然空気に晒され、急激に劣化する小部屋の品の中で、ひとつだけ色彩を変えないものを見つける。
一冊の本、いや、日記のようなものだった。
何重にも厳重に封が施されたそれを不用意にも手に取ってしまう。
…と、その封は時を経て弱まっていたのか、わずかに触れただけで脆くも崩れ落ちた。
『封印は解かれた…!』
「?!」
地響きのようにその声はした。
そうして独りでに開かれた本の中から、その影は飛び出した。
ヘレルは驚いて尻餅をつく。
黒い影は人間のように動いた。
『私を封印するなど不敬も甚だしい!礼をしてやらねばなるまいが…その前に』
影はヘレルを見据えた。
『感謝しよう、少年よ。私の名はフューシャ。そなたは恩人だな』
影は笑ったように見えた。
不思議と恐れを感じない。
これが、ヘレルとフューシャという影との出会い。
長く封印されていたルベウス狂いの男の魂を解き放ってしまった瞬間であった。
時を同じくして、王宮より急ぎの知らせが届く。
ヘレルの兄弟たちが唐突に病を得て、看病も虚しく次々に夭折したというのだ。
この時のヘレルは知らなかったが、実は兄弟たちの死は封印に恨みを持つフューシャの呪いである。
結果、父の息子の中で存命なのはヘレルだけとなり、王位継承権からは程遠かった彼に、望まぬお鉢が回ってきた。
『皇太子』という役割が。
成人したら、ただの魔術師となって野に下るつもりだったのに。
いずれ自分がこの国の王になどと。
随分と笑えない冗談だ。
※
使用人を置き去りにするかたちで長距離転送を繰り返し、ヘレルはアウロラを連れて自身の国へと帰還を果たしていた。
とはいえ、ここは王宮のある都ではなく、かつて都が置かれていた枯れたオアシスの街だ。
わずかな水場を残し、砂に埋もれつつある街並みや城に、かつての栄華はない。
そう、ヘレルがフューシャの封印を解いた地だ。
四方を砂漠に囲まれ、激しい風塵によって守られた自然の要塞。
廃墟と化した城の一室に、ヘレルはいた。
ヘレルは分厚い敷布の上に寝かされいるアウロラの枕元に立ち、その表情を見下ろす。
魔香炉から吐き出される香によって、アウロラは気を失うように眠っている。
香は微粒の塵を撒き散らし、彼女の魔力を奪い続ける。
この塵はルベウスにしか効果はなく、他者には無害であるため、ヘレルは平然としているがこの香の製造方法を彼は知らない。
単純な魔法勝負では彼女には敵わない。ならば、その魔力を奪い続ければいい。その考えに至り、狂気にも似た研究の末に生み出された『秘薬』の一種だ。ルベウスへの懸想、執着、妄執の塊。
これを作り出したのはヘレルの遥か遠い先祖にして、国祖。その名が国名にもなったフューシャという大商人の顔を持った魔術師。息子たちの手を借りて、彼は魂だけの存在となったがその研究が禁忌に触れ、ルベウスの耳に入り、粛清されることを危惧したその後の子孫によって彼はその研究が記述された日記へと封印され、都と共に捨てられた。
日記ごと燃やして隠匿をはかることを憚ったのは、フューシャの呪いを恐れたからだろう(結局は呪いを受けてしまったが)。
そうして時は流れ、彼の存在は過去のものとなったが、ヘレルが封印を解いたことによって蘇り、秘薬は造り出され、目論見は実行に移された。
ヘレルは彼の依り代だ。彼がヘレルの体を用いている間は、記憶が途切れてしまう。そのため、ほどんどは事後に事態を認識するだけだ。
遊学についてはヘレルの希望もあったが、この機会を狙ってアウロラを攫う算段はすべてフューシャがつけた。ヘレルは一切関与していない。
アウロラの失われつつある顔色に、ヘレルは眉を寄せた。
「……やりすぎなのではありませんか、フューシャ様。このままでは、彼女は本当に死んでしまいます」
『…いや、これでよいのだ。このまま衰弱させつづけ、その魂を取り出す。さすれば、彼女は私と同じモノとなれる』
ヘレルの肉体から黒い影がざわめきながら現れる。
「そうしてあなたは彼女の意識を縛り付け、晴れて魂のつがい雛というわけですか。サフィルスが簡単にそれをゆるすとは思えませんが」
『あやつらがここへたどり着く頃には、紅玉は私のモノになっているさ。やつらを出し抜いてやった。上を下への大騒ぎであろう。こんな愉快なことはない』
楽しげに震える影を横目に、かつての偉大なる魔術師の成れの果てに息をつく。
「あなたは先の大戦の英雄のひとり。そのあなたを狂わせたルベウスの魔女が私はおそろしい」
『ふふ、私は英雄などではない。紅玉に気に入られたくて協力を申し出たに過ぎぬ。一目見た時、私の商人の勘が囁いたのだ。彼女は『特別』だと。そしてやはり、そうであった』
「…特別?」
怪訝に問い返すと影は蠢く。
『そうだ、ヘレル。紅玉はまさに生きたアルス・マグナなのだ。スカーレットより以前のルベウスとは異なり、その身に赤き竜を宿している』
「……竜…?ドラゴンをですか。……たしかに、今のルベウスの紋章にもなっていますし…伝説ではルベウスはドラゴンを召喚し、魔物と戦ったとありますが…」
『伝説などではない。現に、私は何度も彼女が竜を呼ぶ姿を見た。厳しく、恐ろしいあの竜を従えて、まさに彼女はこの世界の女王と呼ぶに相応しい気高さであった』
「……アウロラ殿にも、ドラゴンが宿っていると?」
『紅玉の身に宿る竜は娘…つまり自身の分身へと受け継がれる。そして、この姫の魂の輝きは、スカーレットそのものだ。スカーレットは紅玉の血の中から再び生まれると宣言していた。そして私はその出現を魂だけとなって待ちづけることを決めた。……忌々しくも長らく封印されてはいたがな。だが、私は間に合った。お前が私の封印を解いてくれたおかげである』
「………」
『欲しい、唯一無二にして最高の魂を持つ美しき紅玉。ああスカーレット……君の意識は彼女の中に宿っているのか…。はやく、私のモノにしたい…そして共に永遠の存在となるのだ』
影は欲望に満ちたその手を横たわるアウロラの頬へ向けた。
肉体なきフューシャは、ヘレルの身から出てしまえば、ただの混沌の塊である。そして純粋な悪意の姿。すなわちそれは、アウロラを害するモノ。
故に、その変化は起こった。
魔力を奪われ続け、肉体の自由がままならないはずの彼女が、胸の前で頑なに握り込んでいた指を解いたのだ。同時に、『それ』が目覚める。
いつも彼女の胸を飾っているサファイアのペンダント。澄んだ深い青は、この靄がかる香で満ちた部屋の中において、霞むことなく、煌めき、そして……歯車が動き出すように魔法陣が展開して浮かび上がり、青白い閃光を放つ。
アイギス、発動。
光にたじろいだ瞬間、ヘレルとフューシャは吹き飛ばされる。
「……うっ……?!」
『なんだ…?!』
ヘレルとフューシャの前に現れたのは、球体の壁だ。無数のルーン文字で文様化され構成された半透明の防御壁。アウロラを守るように覆いかぶさっている。否、守っているのだ。
「……これは…」
ノヴァ・サフィルス・コランダムがアウロラのために作ったというペンダント。
ヘレルがその指を解こうと試みたものの、決して開かれなかったのは、これを奪われまいと抵抗していたからか。
「……こんな仕掛けが組み込まれていたとは…」
目を見張るヘレルの横で、『ふん、この程度』とフューシャは息巻く。
『いでよ、我が忠実なる子孫たち!』
命じるとどこからともなく別の影たちが這い寄り、人の形となる。フューシャが王家の墓所を暴き、無理やり魂を捕縛して作られた彼の意思なき使い魔。魔術師であった歴代の王たちだ。
『その壁を破壊せよ!』
影たちは命じられるまま、あらゆる属性の魔法を一斉に放つ。だが、防御壁に衝突すると、相殺されるように消える。
何度繰り返しても、壁は揺るがない。
ヘレルが腰に携えた短剣を突き立ててみるも、びくともしない。
力を込めると弾かれる。
どうやら単純な方法での破壊は不可能。
壁の魔力がこちらを勝っているからだ。
追い込まれてもなお尽きぬアウロラの力か、それとも……サフィルスの力か。
「……これはすごい。魔法も物理も通さない万能な壁とは。ノヴァ・サフィルス…これを単独で設計したのなら、彼は天才の類かもしれない。しかし困りましたね、フューシャ様。ここで大魔法は使えませんし…何より加減を間違えれば命取りです」
つまり、アウロラに触れることは困難になった。魂を得ることも。
困ったようにヘレルは笑う。彼は傍観者を決め込んでいる。フューシャがこの身を用いることも、また一興であると。
捨て鉢になっているといわれても仕方がないが、自分というものに彼は価値を見出していないのだ。
母を失い、顔も知らぬ兄弟たちが夭折し、皇太子になってからというもの、望まぬ役割だけを果たす人形のような自分に。
『……っ…!小僧と侮っておったが、おのれ青玉…!!己が所有でも示すかのようなあの首飾りははじめから目障りであったがこのような防御壁を仕込むとは小癪な…!!……今も昔もどこまで私の邪魔をすれば気が済む…!!』
フューシャは憤慨し、震える。
彼女と隔てる壁はひとつしかないが、構成している回路…計算式やルーン文字を解読し、これに風穴を開けるのは骨が折れるだろう。…ペンダントに宿る魔力が尽きるのを待つという手もあるが、その前に居場所を嗅ぎつけたサフィルスがアウロラ奪還に乗り込んでくるに違いない。
彼女を連れて再び別の場所へ転送するには、この壁をどうにかしかければならないが、全てにおいて時が足りない。
『矮小な策を用いおって!!おのれおのれおのれ!!』
混沌を爆発させ、どす黒い気を放つフューシャをヘレルは見る。
ルベウスを手に入れるために研究に没し、寿命が持たないと判断すれば、あっさりとその肉体すら捨てて魂だけとなったわが先祖。欲望に忠実すぎるがゆえに最終的に子孫に疎まれ封印されはしたが、酷く偏ってはいるものの、彼の情熱はヘレルにはないものだった。
ある種の眩しさを覚えながら、サフィルスの壁に守られるアウロラに目を向けた。
内気な少年の顔をして騙すようにあなたを油断させていた私をお怒りになるだろうか。
本当の私は、空虚な人間でしかない。
不毛な微睡みを強いられている彼女の表情は青ざめたまま動かない。
ルベウスの姫、その身にドラゴンを宿すというあなたは今、どんな夢を見ているのか。
なるべくこの回は短めに…と意識しました。ので、いつもより文章が少ないです。




