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【コミカライズ第2巻6/27発売】ルベウスの魔女とアルスマグナ 〜乙女ゲームのアンチヒロインは世界の滅亡を回避したい〜  作者: 阪 美黎
第2章 眩惑蝶の皇子

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眩惑蝶の皇子(5)

 ノヴァがイリアの実験助手をつとめる間に、アウロラは図書館でアダマントの歴史書を復習(さら)う。

 魔物との大戦後、ルベウスの魔女が王宮魔術師になって以降のものを。

 巨大な岩山がふたつに割け、『明夷めいいの門』が開き、当時小国だったアダマントや周辺国は滅びに瀕したが、後に魔導石の産出地となり、これを管理・流通することによって持ち直す。国家間でも影響力を強め、世界の中心国家のひとつにあげられるようになった。

 大戦の最大功労者であるルベウスの魔女はアダマント王に忠誠を誓い、その証として退魔の剣『聖グラディウス』を捧げ、王佐の地位を得た。魔法庁設立後、その長に就任。以降、代々ルベウスの魔女はアダマント王家に仕え、その治世を助けた。…とある。

 歴史書におけるルベウスの魔女の記載は概ねこのように結ばれ、端的だ。大戦の最大功労者であるはずだが、彼女についての記載は少ない。

「……当たり前か…。これはアダマントの歴史書だもの。軸はアダマント王家のことに絞られてくるわよね…」

 小さく呟きながら、本を棚に戻す。

 いくつかの本を開いてみたが、やはり内容はほとんど変わらない。著者の主観や視点が少々異なる程度で。

「もっと角度を変えてみた方がいいかな…」

 魔女や魔術師が主題になっている本を探してみたほうがいいかもしれない。

 図書館には学者や魔女、魔術師が記した貴重な本も数多く所蔵しているが、その中でも異色な『魔女・魔術師名鑑』なるものを見つけ、手に取る。

「…こんなものがあるなんて」

 ミーハーな人でもいたのかしら。

 半分呆れながら本を開き、目次を目で追う。…と、そこにルベウスの項はあった。早速そのページを開いてみる。

『魔法庁の長、アダマント王国王宮魔術師、アダマント王国王佐を400年に渡り代々務める。

 ルベウスは最古の魔女の流れを汲む一族のひとつであり、『原始の赤き魔女』と呼ばれるルベウス、ルベライト、ガーネット三姉妹の長女であったとされている。特に魔物との大戦(ゼノとの戦い)における功労者スカーレット・ルベウスが有名(後にコランダム家を興し、始祖ルベウスと呼ばれる。※本名は不明)。実弟に魔術師サフィルスが在り。アダマント王に仕えるにあたり、聖グラディウスを捧げ忠誠を誓った。※サフィルス一門については別途記載項目を参照のこと。』

 頁をめくると、別の項目へと記載は移っていた。

「………これだけ?」

 原始の赤き魔女、そして三姉妹という情報は『わたし』には初耳だったが、これは今求める事柄ではなかった。

 念のためサフィルスの項目に目を通してみても、これも今更といった内容であった。

 逆に、異様に事細かに書かれている一族もあったりと……その落差から鑑みて、もしかしたら、一般層への影響力を強めたい魔術師一族が息のかかった作家に金品を支払って書かせた類の本かもしれない。体裁を整えるために、他家についても仕方がなく記しているだけならば、まあ、情報としてはこの程度か。

 アウロラは息をついた。

 森の本宅カントリーハウスにも存在しないルベウスの歴史書や伝記が、公の図書館に存在しているはずもなかった。

「ああ…この世界にもネットがあれば…」

 始祖ルベウスにまつわる歴史、俗説や諸説、怪しい逸話の類まで、(その真偽はともかく)手軽に拾えただろうに。この世界で手っ取り早く古い情報を得るには各家庭の書庫か、図書館に赴くしかない。しかも収穫がないとなれば、肩も落ちる。

 薄い情報の名鑑を棚に戻した時、アウロラの顔が弾かれたように横を向く。

「…?!」

 己が意識を無視した動きに驚くも、向いた先には異国の衣装をまとった人間が静かに立っていた。顔に見覚えがある。ヘレルの従者をつとめている青年だ。彼の従者はとにかく表情が薄く、感情の色が見えない。

 この青年が近づいてくる気配を感じなかった。だが、顔をそちらへ向けたということはアウロラの肉体か魔術回路かはこの青年に鋭く反応していたということになる。こんなことは滅多とないのだが、この従者の青年が気配を消していたので過敏に反応したのだろう。

「…失礼いたします、ルベウス様。今、よろしいでしょうか」

 ヘレルの従者は恭しく礼をし、口を開いた。

 話があるのか、彼は目配せして室外への退出を促した。

「ええ、大丈夫です」

 頷いてアウロラは従者に先導され図書館のロビーに出た。

「それで、御用は?」

「我が主、ヘレル殿下がルベウス様に折り入ってご相談があるとのこと」

「相談、ですか」

「はい。恐れながら…婚姻のことではないかと」

「!」

 アウロラはハッとする。

 クラリスが恋をしているような気配を感じてはいなかったが、クラリスの縁談の相手がヘレルだと噂されていた通り、人知れず二人は距離を縮めていたのではないだろうか。ふたりの気質からして激しい恋ではなく、穏やかで優しい恋である可能性もある。しかしヘレルの滞在期間は短い。もし真剣に結婚を考えているのであれば、協力者や相談相手が必要になる。ここでクラリスとヘレル、双方と顔見知りであり、また冷静な判断を下せる第三者のアウロラが適任だと考えるのは自然な流れのように思った。

「ルベウス様、今から少しお時間をいただけませんでしょうか」

「これからですか?」

「出来れば。殿下の時間は限られておりますので」

 と、彼は深々と頭を下げる。

 確かに、ヘレルがこの国で、そして魔法学校で過ごせる時間には限りがある。

 アウロラは図書館内に荷物を置き去りにしたことを後悔したが、すぐに思い直して頷く。

「わかりました。わたしのフラテルと図書館で待ち合わせをしているので、あまり時間はとれませんが、それでもよろしければ」

「ありがとうございます。…では、まいりましょう」

「ええ」

 ノヴァが迎えに来てくれる前に図書館に戻れるといいのだけれど。わたしの荷物だけ見つけたノヴァを心配させてしまうといけないし。

 どちらにせよ、アウロラはヘレルの誘いを断れない立場にある。ここで断ってふたりの関係が崩れてしまっては、国益にも関わってくる。迂闊なことはできない。

 まして、ふたりが恋愛関係であるのならば、押せ押せで応援していく義務がある。

 わたしがアンチヒロイン属性である以上…何が作用するかわからないものね。できるだけクラリスに関わることは肯定的でいないと…!

 そんなことを考えながら、ヘレルの従者に連れていかれた先は裏庭だった。一段高い位置にあるガゼボにヘレルと別の従者の姿が見えた。ヘレルの周辺には、いつかの幻術の蝶がいくつも飛んでいる。

 遠巻きにアウロラを見つけると、彼は微笑んだ気がした。が、裏庭に入り、ガゼボに近づこうとする足が何故だかぴたりと止まってしまう。無意識に、だ。

 綺麗につま先を揃えて止まった我が脚を見下ろして、困惑する。

 まるでこの先に進むことを体が拒んでいるようで。

 意識を無視した肉体の主張にアウロラは眉を寄せた。

「どうなさいました、ルベウス様。殿下がお待ちでございます」

「あ、…ええ!」

 怪しまれているかもしれない。アウロラは慌てて頷き、一歩を踏み出すと難なく歩き始める。

 …もう、一体何なの。自覚症状はないけれど、体調がよくないのかしら…?

 この肉体は自分であって、自分でないもの。いわば借り物の器。本物のアウロラが『わたし』を拒んでいるような不穏さを感じて心が重くなる。

 ガゼボの階段を登ってヘレルと対面する。アウロラは丁寧に礼をする。

「お待たせいたしました、ヘレル殿下」

「いいえこちらこそ、お呼び立てして申し訳ありません、紅玉の姫。楽になさってください」

「ありがとうございます」

「本日のお茶会、姫との時間はとても有意義でした」

「……わたくしも殿下のアルス・マグナへの造詣の深さに感服いたしましたわ」

「ふふ…褒めてくださるな。私のはただの趣味にすぎませんよ」

 幻術の蝶に触れながらうっすら微笑み、アウロラを流し見るヘレルの言動に、違和感を覚える。

 内気で穏やかな雰囲気の少年が、打って変わって今は出会った晩の凛々しさだ。

「…殿下、いやしくもわたくしにご相談があると従者の方に伺ったのですが、どのようなご用件でしょうか」

「ああ、ええ。そのことなのですが、もうすぐこちらを離れる身として、紅玉の姫にお願いしたき事があるのです」

 来た、と思った。

「殿下、皆まで言わずとも承知いたしております。クラリス様との橋渡し役でしたら喜んでお引き受けいたしますわ。お任せくださいませ」

 迷うことなく笑みを浮かべて告げると、ヘレルはきょとんとする。

「…クラリス姫、ですか?」

「ええ、殿下はクラリス様とのご縁談が持ち上がっているとお聞き致しました。喜ばしいことです。アダマントとフューシャ両国、アダマス家とのラトナラジュ家の結びつきと一層の発展のため、わたくしも微力ながらお手伝いさせていただきます」

 晴れ晴れしく言い切ったアウロラの顔を見つめ、ヘレルはしばらく瞬きを繰り返していたが、「…ああ、そういうことですか」と納得をした後、軽く吹き出した。

「…姫、あなたはどうやら大きな勘違いをしているようですね。…いえ、まあ、縁談については間違いではないのですが、クラリス姫も私もその気はなく、友人となりました」

「…え?」

 アウロラは顔を上げる。

「…とはいえ、実はクラリス姫に限ったことではないのです。これまで行く先々の国で姫や公女を紹介されてきましたよ。私にはまだ婚約者がいないので、父の老婆心でそれぞれの国に触れを出していたようで…困ったものです」

 ヘレルは微苦笑を浮かべて、やれやれと肩をすくめる。

「……そ、そうなのですか…?クラリス様とも、こ、恋人同士ではないと…?」

「ええ、姫は早とちりさんですね。…なんと可愛らしい」

 間抜けなアウロラの問いかけにヘレルは頷き、しまいには微笑ましい眼差しを向けられ……アウロラは恥ずかしさで顔を真っ赤にさせる。

「……こ、これは、大変失礼いたしました。わたくし、その、てっきり…」

 つまり、勘違い。

 最後まで話を聞かなかった自分の浅はかさが恥ずかしい。思い込みで話を進めるものではない。

「いえいえ、気にはしていませんよ。ですが、私もこのあたりで覚悟を決めた方がよいのではないかと思いまして。方々で美姫を紹介されたとて、いかなる花にもあなたの前では霞む」

「は、はい…?」

 赤くなった顔を押さえながら、アウロラは首をひねる。

 ヘレルは何が言いたいのだろう。

 彼は蝶をまとわせながら、戸惑うアウロラの手を取ると、膝をつき、見上げる。

「我が麗しのスカーレット。愛しい紅玉。どうか私をあなたの夫にしていただきたい。そして次代のルベウスの父に。…あなたが私を選んでくださるのならば、王位も国も放棄いたします。いいえ、いっそ、持参金としてあなたに捧げましょう」

「……?」

 一体何を言われているのか理解できなかった。何故彼が跪いているのかも。

 それが、求婚の類であることに気づくまでたっぷり数分を要した。

 そしてようやく意味を察した時、アウロラは再び顔を真っ赤にさせ、わなないた。

「…な、なななななな…なにを…おっしゃっているんですか…!まだ、わたしたち、で、出会ったばかりですよ?!」

 思わず素に戻ってしまう。

 今まで、ヘレルとの間に色恋が絡むような雰囲気はひとつもなかったし、彼もそんな素ぶりは見せていなかった。

「時間など関係ありません。あの舞踏会の夜、庭園で出会ったときから私の心は決まっていました。…いいえ、きっと出会う前から私の運命の女性はあなたと決まっていた。どうか、私の願いを叶えてください」

「?!?!?!」

 唐突すぎる展開にアウロラは混乱する。

 結婚?結婚を求めてるの?このわたしに?王位も国も放棄して、わたしに捧げる?持参金として…?………ええ??

 世界に選ばれしヒロインであるクラリスに求愛や求婚をするのならば話はわかる。けれど、アンチヒロイン属性のわたしに何故。

 理解が追いつかない。

 愛おしげに見つめてくる皇子の眼差しとぶつかって、アウロラは自問する。

 わたしはこの人が好きなのだろうか。生涯を共にしたいと思っているだろうか。…思えるのだろうか。

 好き嫌いを語れるほど彼を知らない。もちろん嫌いではないが、恋ではない。好ましい友人。その程度の感情だ。

 そう考えると次第に思考は冷静になってくる。

 今も胸はドキドキしているけれど、これは告白への驚きであって、ときめきではない。

 それに、わたしは今、恋愛などしている気持ちの余裕もなければ、結婚など時期尚早。自分のことだけで、精一杯だ。

 相手の事情を鑑みず、己の欲望だけを口にしたこの皇子の性急さや無責任さに、少し、嫌悪を覚える。

 彼はわたしの何を見て、結婚したいと思うのだろう。彼は、わたしの何を知っているというのか。

 アウロラはヘレルからそっと手を離すと、数歩下がって礼をした。

「お話は大変ありがたく、身に余る光栄ではありますが、わたくしはまだ夫をさだめる段階にはありません。殿下もまた、そのような軽はずみな発言をすべきではございません。…わたくしは、何も聞かなかったことにいたします。ですから、殿下もどうか、このお話はなかったことにしてくださいませ」

「一考の余地もないと?」

「わたくしは殿下のよき友人のひとりでありたいと思っております。これまでも、これからも」

「……なるほど」

 立ち上がったヘレルは小さく息をついた。

「わたくしでなくとも、殿下にはもっと相応しい姫がいるはずですわ」

「そういう言葉が一番傷つきますよ、スカーレット。あなたはいつも私を拒む。時を経たのならば、或いは、素直に応じてくださるかと思ったが……存外冷静でしたね、愛しい紅玉」

「……?」

 ヘレルの気配が変化する。いや、いつもと様子が違うことは気づいていた。

 彼への違和感はこれが初めてではない。魔法学校で挨拶をした時にも感じていた。

 おどおどした様子と、真逆の凛々しさ。人格が異なっているかのような。

「…殿下?」

「スカーレット、あなたはいつでも私を袖にする。ですが、だからこそ、あなたが欲しいのだ」

 妖しい笑みを浮かべるヘレルは、アウロラが知る彼ではなかった。

 彼の目はアウロラを写してはいない。もっと別の、アウロラの中にある『面影』を懐かしみ、それを得たいとする邪なるものの笑み。

 アウロラをスカーレットと呼び、紅玉と呼ぶ、目の前のヘレルは『何者』なのだ。

「……あなたは、誰なの」

「ヘレルですよ。……この体は、ね」

 ヘレルの口角が歪んだ瞬間、アウロラの背後にいた従者たちの体がみるみるうちに膨れ上がり、弾けた先から無数の青い蝶が飛び出す。解き放たれた蝶たちはガゼボを覆うように飛ぶ。

「……!」

 幻術だ!

 思わず一歩後退すると、そこに平な地面は存在していなかった。

 ずぶりと片足が沈む。

「…?!」

 転ばぬように沈んでいない足に力を入れれば、こちらもまたガゼボの地面に沈む。

「……っ…!」

 意識は正常だが、感覚が術中にはまりこんでいる。

 こればかりはアウロラ自身も混乱した。彼女に幻術は効かない。効かないはずなのだ。

「……混乱しているのでしょう?いかなる幻術もあなたを狂わせることはできない。それなのに何故、惑わされてしまっているのかと」

 アウロラに近づき、ヘレルは彼女を覗き込む。

「あなたはあらゆる耐性を持ち、魔力も強すぎるがゆえに、足元が見ていない。はじめてお会いした時に仕込みは完了していたのですよ、邪魔なサフィルスが離れてくれたおかげです」

 出会った時?だどしたら。

「…?!…まさか、蝶に…」

「察しがいいですね。あの晩、単純な殺気には敏感だとわかりましたが、一見無害な幻術については油断するだろうと思っていました。そして案の定、あなたは私の幻術を纏ってしまった。魔法勝負ではあなたには敵いませんからね。蝶たちにわずかな毒を含ませて、あなたの感覚を鈍くした。そして、私の、ヘレルの纏う香の匂いに反応し、毒は緩やかにあなたを蝕んでいたのです。このところ、ぼんやりすることが増えていませんでしたか?」

「…!」

「その顔は身に覚えがありそうですね。…サフィルスさえ気づけない、あなたにしか効力のない毒を研究し、作り出すのに…ふふ、400年も費やしてしまいましたよ」

「…?!」

 400年…?!冗談を言っているの…?!

「まあ、この毒にもあなたはいずれ耐性を持ってしまうのでしょうが、一時でも意識を奪えたなら私の勝ちです。できれば穏便に済ませたかった。素直にあなたが頷いてくだされば、手荒な真似はせずに済んだのですよ、スカーレット」

 その呼び名に引っかかる。

 そういえば、この人ははじめて会ったとき、『似ている』と言った。それは誰に?

 スカーレット、紅玉、400年……それらが示す答えは。

 まさかとは思うけれど、この人は『始祖ルベウス』とわたしを重ねているの…?彼女を知っていると…?

「…あなたは、始祖ルベウスを求めているの?」

 この幻術は、すでにアウロラの膝まで沈ませている。身体もしびれ始め、自由がきかない。このままでは呑まれてしまう。

「…なるほど。あなたはルベウスでありながら、自分を理解していないらしい。スカーレットはあなたであり、あなたはスカーレットでもある。特にあなたは顕著に彼女の特徴を有していますよ」

「……わたしは子孫にすぎないわ」

「…その概念も間違いではありませんがね」

「あなたの望みは何」

「もちろん、あなたです」

 ヘレルはアウロラの髪をひと房手に取り、口付けた。

 途端、ざわりとした嫌悪感が体を襲う。

「…触らないで…!!」

 拒絶の言葉は風の刃となり、ヘレルと幻術の蝶を鋭く切り裂いた。

 咄嗟に受け身をとったヘレルも傷を負い、また幻術の蝶たちは粉塵になる。

 己の言葉によって生まれた刃に驚き、アウロラはヘレルを傷つけたことに怯む。その表情を見て、彼は苦笑する。

「他人に傷を負わせたのは初めてですか?心配いりません、この程度で死にはしませんから。……ですが杖もなしに、まだ魔法が使えますか。さすがですね、紅玉。とはいえ、感情に任せて魔力を消費しない方がいい……すぐに気を失ってしまいますよ。まあ、好都合ですが」

 裂かれた頬の血を拭うように触れながら微笑む。

 切り裂いたはずの幻術の蝶の粉塵はその場にとどまり、アウロラを囲むように別の形を作り出す。

 命なきもの。おぞましき禁術。その名は。

「……レイス…?…レイスを用いるのは、禁止されているはず…!」

 レイスたちはぞれぞれ手に香炉を下げている。その香りはヘレルのまとっているものをより強くしたもので、鼻腔を刺激すると身体から力が抜け、くらりと目眩がした。

「私の時代にはそんな法はありませんでした。紹介しましょう。私の子孫、いずれも王であった者たちです」

「…?!」

 子孫、王…?このレイスたちが?…じゃあ、もしかして、この人は…。

「あなたはもっと警戒しておくべきだったのです。あなたは無防備すぎた。それに比べてサフィルスは随分とヘレルを警戒していましたからね。悟られているのかと少しヒヤリとしましたよ、ええほんの少しね。……まったく、時を経てもなお、奴は目障り極まりない」

 サフィルスと口にした瞬間、彼の眼差しは不快に満ちる。

「でももういいのです。あなたはこうして私の目の前にいる」

 残酷な笑みを浮かべるヘレルをアウロラは睨みつけた。

「ああ、その顔……スカーレットそのものだ。あなたは私の最高のアルス・マグナとしてずっと手元に置いてあげますよ。赤き蝶…意思ある美しきレイスとしてね」

 飲み込まれていく感覚が解除できない。取り囲むレイスたちが手にする香炉の煙がアウロラの力を奪っていくようだった。否、奪われているのだ。

 目眩はひどくなるばかり。本当に呑み込まれてしまう。

「さぁ、一緒に行きましょうか、私の愛しい紅玉」

 焦点が定まらない。

 まずい、これ以上意識を保っていられない。

 ああ、ノヴァごめんなさい。またあなたに心配をかけてしまう。

 のこのこと呼ばれるままに着いて行った愚かさを呪う。

 何がルベウスの魔女よ、何が始祖の再来よ、情けない。この体たらくで…!

 ヘレルへの違和感、自身に警告するような身体の反応、それら全てにもっと注意を払うべきだったのだ。

『…アウロラ、鈍感も過ぎると、痛い目を見るぞ』

 ええ、ノヴァ。あなたの言う通りだったわ。

 血の気が引く痺れる手で胸元を探り、力を振り絞ってぎゅっと両手でサファイアのペンダントを握り込む。

「……ノヴァ…」

 助けて…。

 燻る香の中、呟きは言葉にならず、崩れる体と共に意識は暗闇に落ちて行った。


 意識を失い倒れ込んだアウロラの足はもちろん沈んではおらず、ガゼボに変化はひとつもない。

 ヘレルはアウロラに手を伸ばし、サフィルスが作ったと思しき彼女の髪飾りを抜き取ると不愉快そうに横に投げ捨てる。

 アウロラを抱え上げると、レイスたちが魔法陣を展開させる。すると大きな光に包まれ、彼らの姿をかき消す。

 残ったのは無人のガゼボだけ。

 その瞬間を目撃していた女子生徒がいた。ステラである。

「……一体、何が…」

 授業後、スライトリーやメレクラスの女子生徒たちに頼まれて、占術を行うことがある。ほとんどは恋占いで、職業柄ステラの占いは人気があった。それらは生徒たちが使用可能な自習室で行うことが多い。片付けをしてそろそろ帰ろうかと、門への近道のため裏庭を通りかかったステラは遠巻きに彼らを見つけた。

 それがヘレルとアウロラだと気付いた時、何か素敵な展開に違いないと見ないふりをして通り過ぎたのだが、しかし妙に不穏な雰囲気を感じて振り返ると、気を失ったらしきアウロラを抱えてヘレルは姿を消した。それに、一瞬目に入った黒い影のようなものたちには嫌悪が走った。

 消え去った彼らに呆然としつつも、すぐに我に返って、確かめるように彼らが立っていたガゼボに近づく。

 杖を出して魔力探知を実行するが、特に危険はないようであった。

 ガゼボに異変はなかったが、ヘレルが普段まとっている香が鼻をつく。

「やっぱり…ここに殿下がいたことは間違いないわ…」

 …と、視界の端に煌めきを感じてそちらに顔を向けると、見覚えのある髪飾りが転がっている。

 慌ててそれを拾いに行くと、間違いなく、ノヴァがアウロラのために作ったという髪飾りだった。これはふたつとないマスターデザインであることくらいステラとて知っていた。

 ヘレルの香りと、アウロラの髪飾り。ふたりがここにいた確かな痕跡。

「ステラ、あれは夢じゃない…幻じゃないわ…。ここで何かが起こったのよ」

 嫌な予感を胸に、ステラは走り出した。



 ※



 イリアの『あらゆる伝達を可能とする石盤』という荒唐無稽なお題目の実験を手伝ったノヴァとラウルスは、片付けを終えるとイリアの実験室を出た。

「相変わらずテンション高いよな、イリア先生は。実験自体は割と面白いんだが」

「ひたすら先生の意味不明な独り言を記録している俺の身にもなれ。なかなかの苦行だぞ」

 廊下を並んで歩きながら、ノヴァはうんざり顔を見せる。

「あったら便利だけどな、あらゆる伝達を可能とする石盤」

「作れないことはないだろうが、コストも魔力消費もかなり高そうだ。魔導石を用いればいけるだろうが、その魔導石が高い。一般普及は難しいだろうな」

「夢がないなぁ、ノヴァ。そこはあったらいいな、で済ませておけばいいんだよ」

「………」

 確かにその通りである。つい、いずれサフィルス工房主になるという現実的な観点からものを見てしまう、ある意味つまらない自分に気付いて思わず黙り込む。

 その時。

『ノヴァ』

 アウロラの声がする。

 彼を待ちきれず逆に彼女が迎えにきてくれたのだろうかと、周囲を伺うが彼女の姿はない。

「…どうした?」

 ラウルスが不思議そうにノヴァに問いかけてくる。

「……いや、アウロラの声が…」

「…アウロラ?…近くにはいないぜ」

「ああ…そうだよな…」

 はっきり聞こえたのだが、空耳だったか。

 しかし。

『ノヴァ』

「アウロラ?」

 再びアウロラに呼ばれ、振り返る。

「まさか、またか聞こえたのか」

 呆れたように見返すラウルスにノヴァが戸惑う。

「お前には、聞こえてないのか」

「………お前にだけ聞こえてるのなら、それは愛の力だろ」

 茶化すように苦笑いを浮かべたラウルスを無視して、周囲を見渡すがやはり彼女の姿はない。

 幻聴だとしても、こんなことは始めてだ。

 …胸騒ぎがする。

『ノヴァ』

 アウロラ…。

『ノヴァ……助けて!』

 切羽詰まった様子のアウロラの声にノヴァは瞳を見開く。

 幻聴ではない。アウロラに呼ばれている。

 考えるより前に足は動き出し、図書館へと駆け出そうとする。

「…あ、ああ、おい、どこに行くんだよノヴァ!…っていうか、前を見ろ…!」

 ラウルスが注意を促す。

「…?!」

 角のところで女子生徒とぶつかりそうになる。寸でのところで回避したものの、体勢を崩した女子生徒を支える。

「すまない、急いでいて…」

 顔をあげたその女子生徒はステラだった。彼女は息を切らせて、相手がノヴァだと気づくと安堵の笑みを浮かべた。

「…ああ、よかった。やっぱりまだ学校にいたのね、ノヴァ!」

「…?…ああ、悪いステラ、アウロラのところへ行かないと」

「待って!これ、アウロラの髪飾りが落ちていて…!」

 アウロラの髪飾りをノヴァに示す。彼女の手から受け取り、低く問いかける。

「……これを、どこで…?」

「裏庭よ」

「裏庭?図書館じゃなくてか?」

「ええ、裏庭を通りかかって、ガゼボでヘレル殿下とアウロラが話しているのを見かけたの。気になって振り返ったら、ふたりは消えてしまって…。アウロラが落としたのだとしても、彼女がそのままにしていくなんてありえないでしょう?皇子とアウロラに何かあったんじゃないかと思って」

「………」

 髪飾りに目を落としてノヴァは青ざめる。

 ヘレル皇子とアウロラが消えた?

 一体何があった。俺が離れた隙を狙われたのか。

 あんなに追い詰められたアウロラの声は、聞いたことがない。

「……ステラ。裏庭で、もう一度状況を説明してくれるか。確認したい」

 焦燥と湧き上がる感情を押さえつけるように、つとめて冷静にノヴァは頼み込む。

「え、ええ。もちろんよ。ラウルス、あなたも来てくれる?」

「ああ、俺も一緒に行こう。人数は多い方がいいだろ」

 ノヴァの顔色やステラの慌てぶりを見て、ただ事ではない空気を感じ取ったラウルスが頷く。

 そして三人は裏庭へと駆け出した。

たぶんその石盤……スマホなどのタブレット端末みたいなものじゃないかと(たぶん)。

ここからこの章の物語が動き出します(やっと)。

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