とろける、アロマ(バレンタイン短編)
『わたし』がアウロラになり、こちらの世界の住人になって驚いたことがある。
それは、乙女ゲームであるにも関わらず、バレンタインデーという概念が存在していないことだった。
元々、世界観が地球ではないのだから、起源となる聖バレンタインが存在しておらず、転じてバレンタインデー…恋人や大切な人へ贈り物をする日が発生しなかったことは責められないとは思うけれども…(そういった事情を覆して御都合主義を展開するのが乙女ゲームではないかとも思うのだが)。
聖バレンタインが存在していなくても、暦のシステムが違っていても、『わたし』の中にバレンタインデーという概念が存在する以上、この行事を勝手に決行することとした。
ノヴァが工房からホテルのコンドミニアムに戻った時、ちょうどアウロラが外出する場面に出くわす。
彼女は外出用のドレスと外套姿で帽子をかぶっている。
「あ、ノヴァ。おかえりなさい」
メイドと話していたアウロラは彼の帰宅に気づいて振り返る。
「おかえりなさいませ、若様」
アウロラ付きのメイドたち、マーガレットとローズが丁寧に頭をさげる。
「ただいま」
3人に挨拶を返してアウロラと向き合う。
「出かけるのか?」
「ええ、今からお買い物に行こうと思って」
「買い物?」
ちらりとメイドたちを見やるが、彼女らは外出用の装いではない。一応確認しておかねば。
「どちらか連れて行くんだよな」
「わたしひとりよ」
アウロラはにっこり微笑んで答える。
ノヴァは再びメイドたちを見やると、ふたりは気まずく目線をそらした。これは、アウロラに「大丈夫だから」と押し切られたに違いない。
「……わかった。俺がついて行く」
「ノヴァったら。お買い物くらいひとりで出来るわ。ホテルのご近所から出ないから安心して。それにあなた、疲れてるでしょう?忙しいって言ってたじゃない。昨晩だって帰ってこなかったのだし…ちゃんと休んで?」
忙しいのは本当で、昨晩は徹夜だった。アウロラの「これは絶対に売れるわ」という俗な発言の通り、彼女の髪飾りを模した商品は街の少女たちのトレンドアイテム化していた。供給が追いついておらず、工房の下請け回りで彼は多忙の身だ。
ただ、それとこれとは話が別である。
「いいんだ、俺は休めるときに休んでるから。…それよりも、買い物なら荷物持ちが必要だろ?」
「そんなにたくさんお買い物はしないわ。ホテルで分けてもらえるものもあるから」
「?何を買いに行くんだ」
「お菓子作りの材料よ」
「なら、余計に荷物持ちが必要じゃないか。やっぱり俺がついて行く。いろいろ心配だしな」
「もう…一体なにが心配なの?」
「…ひとりでいると数歩ごとに男に声をかけられてるのはどこの誰なんだ」
「まあ。あれはただのキャッチセールスよ。街頭キャッチくらい撃退できるわ」
「キャッチセールス…?」
なんだそれは…と怪訝に眉を寄せるノヴァ。
「とにかく、あなたはしっかり休んでね。…じゃあ、行ってきます!」
「…あ、おい…!」
取りつく島もないとはこのこと。アウロラは軽やかな足取りで居間を出て行った。
と同時、マーガレットはローズを顔を見合わせ頷きあい、ノヴァに告げる。
「…若様、ご心配には及びません。わたくしがただいまからお嬢様の後に続きます」
つまり、尾行するということだ。
「…あぁ、頼むマーガレット」
「はい」
アウロラ曰くの『キャッチセールス(謎)』で彼女が対応に困った場合、偶然を装いマーガレットが登場し撃退するという流れである(確実に声をかけてくるのは不埒な軟派男なのだが、世間知らずが災いしてか、アウロラはあまりよくわかっていないようなのだ)。
マーガレットは足早に部屋を出て、身支度もそこそにアウロラを追う。
このように、使用人たちとノヴァの努力によって、彼女は不埒な軟派男から守られている。
無事買い物を終えた翌日。
アウロラは朝からコンドミニアム内にある厨房に陣取る。日常の食事は基本的にホテルから遇されているのでこちらの厨房が使われることはあまりない。そのため、いつ使用しても問題ないのである。
気になったノヴァが家令のフランツを連れてアウロラの様子を見に行くと、今まさに作業をはじめようかという状態だった。
作業台に乗せられている材料を確認する。その大半が板状のチョコレートであった。菓子作り用に売られているものだ。
しかし、分量として必要以上に多いチョコレートにノヴァは引っかかりを覚える。
「…これで、何を作るつもりなんだ?」
「トリュフやプラリネのチョコレートよ」
「……チョコレートがメインなのか?」
「そうよ。チョコレートでなければ意味がないの」
「意味?」
「ええ、……あ、えっと、本で読んだの。実は東方のある国では、バレンタインという行事があって、その日は女性から大切な人…主に異性にチョコレートを贈る習わしがあるそうなの」
「そんな習わし聞いたことがないな。どこの国の書物を読んだんだ?」
「…え、えっと…ど、どこだったかしら…」
問い詰められた時のことを想定していなかった。思わず目が泳ぐ。
「と、とにかく!わたしもその行事をやってみたくて、チョコレートを作ろうと思い立ったの」
「………。それで、誰に渡すつもりなんだ?」
質問するノヴァがどんどんしかめっ面になることを不思議に思いつつ、アウロラは続ける。
「とりあえず、まずはお父様と伯父様に差し上げて、できれば学校のクラスのみんなにも…」
「駄目だろ」
かぶせ気味にノヴァに否定され、アウロラは驚く。
「ど、どうして?」
「どうしてって…アウロラからは特に駄目だろ。その東方の国とやらの習わしはどうなってるんだ。どうしてチョコレート単体でなければいけないのか、理解に苦しむ」
「?」
こんなにも否定的なノヴァの表情を見るのは初めてで、アウロラはただただ戸惑った。
「で、でも……わたしが一番にあげたいのはノヴァなのよ。あなたのために作りたいの。それでも、駄目なの?」
「…な…っ…」
その言葉に、ノヴァは絶句し、次に頬を染め、遣る瀬無く口元を抑えて目をそらす。
「……っ…、お前は、…俺をどうしたいんだ……」
「?…ノヴァ?」
どうって…。
狼狽えるノヴァを前に、アウロラはきょとんとしてしまう。
なんだか、さっきから微妙に会話が噛み合っていないような……?
首をひねるアウロラに、見かねたマーガレットが素早くアウロラに耳打ちした。マーガレットが離れると首まで真っ赤になって震え、恥ずかしさに耐えきれなくなり、両手で顔を覆う。
「そ、そんな…!し、知らなかったの…っ、…ごめんなさい、ノヴァ…!」
マーガレットがアウロラに知らせた内容とは。
チョコレートは一種の滋養強壮、そして性的な興奮をもたらす『媚薬』の効果があるものとして、『大人の夜のお菓子』として食されている、ということだった。
大人のお菓子……大人の男女の…。
言われてみれば……確かに、そう確かに、おかしいと思っていたのだ。
アウロラの身になってからこのかた、チョコレート菓子を口にする機会はほとんどなかった。あったとしても、焼き菓子に加工されたもので、チョコレート要素は薄く、単体のチョコレート菓子が屋敷にあっても、オルキスやウィスタリアがすすめてくることはなく、いつもさりげなく姿を消していたように思う。
その理由はてっきり油断すると『虫歯になるから』なのだと考えていたし、それを疑ってはいなかったのだが、こちらの世界ではチョコレートを贈る意味合いが、「あなたはわたしの性的対象です」とでも言わんばかりの、かなり際どいものになってしまうことを今の今まで知らずにいたのだった。
ああ、もう、なんてこと…!
「そんなつもりはなかったの…!」
浅はか!…自分の無知が恥ずかしい…!何よ、虫歯って…!間抜けすぎるわ…!
しかも、捉え方によっては、ノヴァにとんだハラスメント発言を……!
こちらの常識に疎過ぎた。
『わたし』の世界では、子供でもチョコレートを食べることはできたので考えもしなかった。しかし、かつてはそのような謂れもあったことを思い出す。知識としてすっかり抜け落ちてしまっていたが。
「本当にごめんなさい!わたしったらなんてことを…」
「……いや、いいんだ…。アウロラが知らなかったのも無理はないというか…」
積極的に教えようとする身内の大人がいない環境で育ったのだから仕方がないのだ(アレクシアはかなり大雑把な性格なので娘に対する細やかな対応は期待できない)。
むしろ、皆あえてこの話題を避けていたのではないだろうか(自分も含め)。
可哀想なほど真っ赤になって震えるアウロラを引き寄せようと手を伸ばしかけたものの、メイドや家令がこの場にいることを思い出しはたと正気にかえる。が、雰囲気を察した使用人達は「ああそういえば仕事の途中でした」と聞いてもいないのに口走り、わざとらしく各々厨房からはけていく(なんだその統率力は…)。
使用人たちに気を遣われふたりきりになったが、今更引き寄せることに躊躇い、なだめるように彼女の頭を撫でた。
「俺も戸惑わせて悪かった」
思わず動揺してしまったが、乙女の彼女が性的な意味で菓子作りをするわけがなかったのに。特に、身内や自分に対しては。
過敏に反応しすぎた結果、彼女を必要以上に恥じらわせてしまった。
「…いいえ…あなたは悪くないわ。わたしが無知過ぎたのよ。その…作る前に止めてくれてよかったわ」
「…まあ、それは…そうだな」
実父のオルキスはともかく、ウィスタリアは問題だ。自分に都合よく解釈して、アウロラに(今以上に)誘いをかけてくるに違いない。また学校の男子生徒が受け取れば、あらぬ勘違いをさせることにもなる。…阻止できてよかった。
「…でも、このたくさんのチョコレート…どうしようかしら」
バレンタインの行事を強行することはもはや不可能。誰に渡しても問題が起きそうだ。
「チョコレートは腐るものではないからな。とりあえず今回は焼き菓子に使えばいいさ。それなら学校のみんなに配ってもいい。ケーキやクッキーを作ろう。俺がやるよ」
「そ、そうね。それなら大丈夫よね。……って、ええ?ノヴァが作るの?!」
「…アウロラに任せておくと、まだ時々特殊効果のついたものが出来上がったりするだろ?さすがに、配るには向かない」
とくに魔術回路を持っている者には危険な食べ物になりかねない。
「…そ、それはそうだけど…」
趣旨として、わたしが作らないと意味がないように思うのだけれど。
「だから…アウロラは俺の分だけ作ってくれ」
何もできないのでは可哀想だと思ってくれたのか、ノヴァの提案にアウロラはぱっと表情を明るくし、大きく頷いた。
「ええ、ええ!あなたへのお菓子はわたしが張り切って作るわ!」
「……いや、まぁ…ほどほどに頼む」
張り切るほどに特殊効果が付与される彼女の手作り菓子。その度にノヴァはあらゆる効果や耐性を獲得してきたわけだが……『媚薬』はさすがに、困る。
他の男に食べさせるのは以ての外だが、自分ひとりで全部引き受けるには胆力(いや、自制心?)に自信がない。
なんとも複雑な心情になりながら、ノヴァは上着を脱ぎ、腕まくりをして菓子作りをはじめる。
その手際の良さや次々出来上がる本職人顔負けの輝くような菓子の見栄えに、アウロラは心底感心して言うのだ。
「あなた、いつでもお婿さんになれるわね」
…などと微笑んで可愛らしく。
まったく。人の気も知らないで。
了