フラグなき日々
ゲームのシナリオ通りに魔法学校生活が始まったが、ひとつ不思議なことがあった。
クラリスに恋愛イベントのフラグが立たないのである。彼女と友人になって行動を共にしてはいるが、その気配に遭遇したことがない。彼女はアウロラやステラと過ごす以外は、兄(従兄弟)のグロリアや、護衛騎士のノックスと一緒にいて、日々は穏やかそのもの。トラブルの類は一切起こらない。
……おかしい。ヒロインとトラブルは切っても切れない密接な関係にあるはずだ。トラブルメーカーはヒロイン属性が持つスキルのひとつだと思っているのだが。
どうして何も起こらないのか。彼女は間違いなくヒロインだというのに。
「……妙だわ…」
昼食を摂り終えた午後のひととき、中庭の東屋で談笑しているルーキス・アダマス兄妹とその護衛の少年を離れた廊下から眺めてアウロラは呟いた。
「何が妙なんだ?」
肩にかかっている横髪をそっと払ってくれながらノヴァが声をかけてくる。
アウロラはノヴァを見上げて瞳が触れ合うと、「そういえば」と逆に問いかける。
「ノヴァ、あなたクラリスをどう思う?」
彼は攻略対象キャラクターだ。クラリスの可憐さに心惹かれていてもおかしくはない。アウロラの知らないところで、フラグが立っている可能性はある。
「…どうって…」
何故か期待のこもった眼差しで見つめられ、ノヴァは当惑した。
「ふわふわしていて、とても可愛らしい方でしょう?素直で優しくて飾らなくて……理想の女性だと思うの」
愛らしい少女の具現化。そう、誰からも愛されるのがヒロイン属性。彼も好印象をそろそろ抱いた頃ではないだろうか。
ノヴァはわずかに瞳を細めた。
アウロラはクラリスに随分と傾倒しているようだ。はじめて出来た同性の友人であるから仕方がないのかもしれないが、しかし、だからといってなぜクラリスのことを自分に問いかける必要があるのか。特に接点もないのに。それにそもそも。
「…ふわふわってところを別の言葉にすれば、全てアウロラにも当てはまるんじゃないか?俺個人の好ましさという点では、完全にアウロラに軍配があがるな」
「え?」
「それに、容姿だけで判断するなら、元々美形揃いの王族の血筋なんだから、あんなものじゃないか?」
東屋の方を一瞥するノヴァはさらりと言って退けた。
「……あ、あんなもの…」
男たちの愛を独占する絶対的ヒロインをつかまえて、あんなもの、って。
愕然とする。
「俺は昔からグロリア殿下を知ってるんだぞ。クラリス姫が美形なのも察しはついてたさ」
「………そ、そう…」
ノヴァがクラリスと顔をあわせる前に、神がかった美貌のグロリアと面識があったことはマイナス要素であるとは思う。思うのだが、それにしたって…。
「…あなた、どれだけ目が肥えてしまったというの…」
「10歳の頃からお前の傍にいるんだ。並みの麗人じゃ俺の情緒は揺らせないよ」
そう言って指を伸ばしてアウロラの髪を梳く。
「…………」
どういう意味かしら。さっきも、クラリスと比べても遜色がないような言い方をして。個人的にはわたしの方が好ましいとか…。わたしがヒロインのような『愛され』なわけがないのに。
「ノヴァったら欲目が過ぎるわ」
「……アウロラがそれを言うのか」
確かに。ノヴァにも、欲目が過ぎる、と言われることはあるが。
互いに見合って、表情を和ます。幼馴染故の安心感がそこにはあった。
東屋に視線を戻す。
幼少期から一緒にいるのは彼らも同じ。
春には花咲き乱れる庭で、夏には蛍飛ぶ小川で、秋には枯葉舞い散る森で、冬には輝く雪原で、無邪気にはしゃぎあったに違いない。優しい兄と忠実な幼馴染に囲まれて育つクラリスを夢想する。
ああ、まるで美しい小説のようじゃないの…!
想像してアウロラは胸を熱くさせた。
そして、同じように幼馴染である自分とノヴァといえば。
縋るようにしてフラテルになってもらい、誕生日に呪いに近い護符を渡し、暇さえあれば彼を巻き込んで森を駆けずり回り、あやしい手作り菓子を食べさせ続け……彼に負担をかけているだけの日常であった。
なんてこと…!う、美しさの欠片もないわ…!
思わず恥じ入る。
「……ご、ごめんなさいノヴァ。わたしいつもあなたに迷惑ばかりかけて…」
アウロラが唐突に反省を述べてくることは、珍しくはなかった。ノヴァはこれを『思い出し反省』と呼んでいる。大概は過去を振り返って彼女が勝手にいたたまれなくなっているだけなのだが。
「構わない。もっと迷惑をかけてくれ」
「…そんなこと言われたら、気をつけなきゃって気持ちになるわ」
「だから言ってるんだろ」
「…!…」
「冗談だよ。俺はアウロラのためにいるんだから、あやまる必要なんかない。わかったか?」
ノヴァはアウロラの髪の中に指を差し込んで首の後ろに触れると、抱えるように彼女の頭を引き寄せた。
「返事は?」
耳元で囁くと、彼女は躊躇いつつも頷いた。
「…ええ。ありがとうノヴァ」
そのままノヴァにもたれ掛かって息をつく。
……もう、すっかりわたしの扱いがうまくなって。困った弟だわ。
目立つ白い制服姿ふたり組のやりとりを廊下の角から遠巻きにしているセディルは「はわわ…」と顔を赤らめる。
「…さ、さすがノヴァ君だよ…ぼくたちの姫様とあんなに仲睦まじく…!」
工房でしか顔を合わせなかった今までとは異なり、同じ魔法学校に籍を置くようになってから、新たな彼の一面をたくさん目撃するようになったセディルは興奮気味に呟く。
たまたま通りかかった先で見かけた彼らを観察するように足を止めてしまったら、最後まで見届けなくては気持ちがおさまらなくなってしまったのだ。
セディルは魔法学校に入ったことによって、はっきりとノヴァに憧憬を傾けていることに気がついた。
ノヴァがあらゆる面で優れているのはもちろんだが、アウロラへの接し方は王子か騎士かはたまた恋人かという細やかさで、完璧なフラテルであったからだ。
全サフィルスの憧れ、ルベウスの魔女。そのルベウスの魔女に添うただひとりの選ばれし『弟』はサフィルスの頂点であり、嫉妬と羨望の対象でもある。ただ、彼は栄誉に浴するかわりに、生涯を、心を、血肉全てを『姉』に捧げる。…夫婦になることはなくとも。
美しい…なんて切なくて美しい関係なんだ…!どんな宝石より尊いよ、ノヴァ君…!
セディルはロマンチストであった。ロマンス小説など大好物である。
その彼の目の前に美しい物語が転がっているとあっては、目撃しないわけにはいかない。
妙な感動に打ち震えていると、彼の周辺に熱量を感じてハッと振り返る。と。
メレの制服を着た同級生の少女たちが、彼同様に頬を染めてでコランダム姉弟を見守っているではないか。
「……うわぁ…っ」
驚いて飛び退くが、彼女らは気にすることなく一斉に話し出す。
「ああ、今日も素敵ねルベ様とサフィー様!」
「ええ、美しい一対のおふたりはまさに絵画のよう!お部屋に飾りたい!」
「ルベ様を優しく労わるサフィー様の手つき、いつ見ても震えますわ」
「先ほどは何かを囁かれていたご様子!」
「サフィー様にしか触れさせないルベ様のプライド、気高い!」
「ふたりの世界に浸るルベ様とサフィー様…全てが福眼、福眼ですわ」
「姉と弟という…禁断が阻むおふたりの関係……妄想が捗りますわね」
「本当に。おふたりと同世代でよかった!」
彼女らの言う、ルベ様はアウロラのことであり、サフィー様はノヴァのことだ。メレクラスではいつの間にか彼らのことはそのような呼び名になっていた。
きゃあきゃあ楽しげに騒いでいる彼女らに呆気にとられていたセディルだが、その中のひとりが彼に話しかけた。
「あなたサフィルスなのでしょう?おふたりとはお話したことがありますの?」
「え、えええっと、ぼ、ぼくは……」
異性への免疫がないため、とっさにうまく言葉が出てこない。
「う、うん…ノヴァ君とは工房が同じで……姫様にはお声をかけていただいたことがあるよ」
なんとか告げると、彼女らの熱量がまた上がる。
「まあ、それは素晴らしいわ。お話を聞かせてくださらない?!」
「ええ、普段のおふたりのことを知りたいわ」
彼女たちは楽しそうに話しかけてくれる。
ノヴァはモテる。すごくモテる。当人はまったく意識していないようだが、とにかくモテる。
圧倒的光属性の(妹に甘い)グロリアか、わずかに陰りを宿す(姉贔屓の)ノヴァか、という女子生徒人気を二分する勢いで(女子ではないがセディルはノヴァ派だ。もちろん)。
彼女らは自分たちがノヴァの特別な存在になることは早々に諦めて(アウロラと張り合おうとするのは不毛である)、己が夢をふたりに乗せることにしたのだろう。…気持ちはわかる。
「……う、うん…ぼくでよければ…」
異性に免疫がなさすぎて気後れしかないセディルだったが、これを機会に「お茶会友達」が出来上がる。コランダム姉弟やロマンス小説を話題にして、異性とも(比較的)自然に会話できるまでに成長するのだ。のちに職人の片手間にロマンス小説作家としてデビューすることにもなるのだが、その小説シリーズのモデルがコランダム姉弟であることは、一応、秘密ということになっている。そう、一応。
当人は思い返すと残念な幼馴染との日々ですが、他人様から見れば彼らも美しい小説のようなふたりなのでしょう。