ルベウスの魔女とアルスマグナ・序
誰でも一度は考えたことがあるのではないだろうか。
既存の物語の中に入り込み、その登場人物となって縦横に世界を駆ける壮大な『夢』を。
自分ならばもっとうまくやれる、というあてのない自信は、神の視点であるからこそのもの。
実際に紛れ込んでみれば、それほど容易ではないと、あなたも知ることになるだろう。
これはルベウスの魔女、400年の計。
さぁはじめようか。
世界の存続か、終焉かをかけた再始動不可能な遊戯を。
炎の中に在って、女は平然としている。
片手には魔女の杖、もう片手には贅を凝らした短銃が。
従えた異形の者たちが不快なうめき声をあげ、獲物である『彼女』を威嚇し、見下ろしていた。
「そろそろ終わりにしましょうか、クラリス。お前は本当に目障りだったわ」
女は圧倒的な強さでクラリスと仲間たちを大いに苦戦させていた。
勝てるのだろうか?
クラリスに不安がよぎる。
だがすぐに気持ちを立て直し、女を見据えた。
「あなたがどんなにわたしを嫌いでも、わたし、あなたに負けてあげるわけにはいかない!」
この世界を…大切なみんなを守るために、戦う。
手にした杖を握りしめ、クラリスはかつて友人であったはずの女を倒すと決めた。
「ああ…その目、その顔、いい子ぶって虫唾が走る!お前の四肢をめちゃくちゃに切り裂いて、魂ごと魔物たちに呉れてやるわ!」
長い黒髪、燃え上がるルビーの眼差し。美貌を邪悪に歪ませて、彼女は感情のままに全身から魔力を放つ。
道を違えなければ、稀代の魔女として名を馳せたかもしれないその女は、今は厄災の魔女として世界を滅ぼさんとしている。
狂った笑みをクラリスに向けるその女の名は………ーーーー。
はっと目を覚ます。
夢か。
いつの間にかベッドにもたれかかるかたちで眠ってしまっていた。
その手にあるものに目を落とし、息をつく。
ゲームソフト『アルス・マグナ』。
不意に思い立って部屋の掃除を始めたわたしは、本やゲームをおさめた棚を整理し始めた時、この懐かしいゲームソフトを見つけた。偉大な魔術という名のそれはいわゆる乙女ゲームのジャンルなのだが、シミュレーションRPG要素を多く取り入れた意欲作で発売当時話題を集めたのだが、ライトユーザー向けではない難易度設定のためか、人気は伸び悩み、数あるタイトルのひとつへと沈んでしまった。結果、今となっては世間から忘れられたゲームとなっている。
恋愛要素のみを楽しみたい女性にはまったく向かない高度なゲーム性だったため、『クソゲー』扱いをする人もあっただろうが、わたしはこれをとても気に入っていた。何周もやり込んだほどに。
『アルス・マグナ』の内容は、剣と魔法のファンタジーもので、ヒロインはその舞台となる国の元王族の姫君である。彼女が魔法学校に入学するところからはじまり、攻略キャラクターたちと交流しながら能力を成長させ、最終的にはラスボスであるとある魔女を倒し、世界の平和を守るという王道ストーリー。
このヒロインの名をクラリスといい、可憐な愛されキャラクターなのは当たり前なのだが、インパクトの強さではアンチヒロインのラスボスの魔女も負けていない。あまりにも強すぎて、ヒロインの育て方を間違えると勝利の見込みが立たないバランスブレイカーなのだ。そうした緊張感ある戦いの末に勝利を掴み、攻略キャラクターとの恋愛を成就させる達成感は嫌いではなかった。
棚の奥にしまわれていたゲームソフトを見つけた懐かしさでつい見入ってしまったのだが、いつの間にか眠ってしまうとは……疲れていたのだろうか。
夢の中ではいきなりクライマックスだったが、随分とリアルな夢だった。彼女らの息遣いを感じるほどに。
自分の想像力のたくましさに苦笑いをする。
「このゲーム、また遊びたいけどもうハードがないのよね…」
2世代前のゲーム機のゲームソフトで、すでに本体は処分してしまっている。ネット上でも配信されていないため、もはや幻のタイトルである。
「残念だけどこのまま、また棚の飾りかな…」
そうして棚に再び戻そうとした時、ずきりと頭が痛んだ。
「……っ…痛…」
思わず頭を抑えると、ゲームソフトを落としてしまう。
最近、正体不明の頭痛に悩まされている。
「さっきまでは大丈夫だったのに……気圧かな…」
それはまるで、遠くから押し寄せてくるような痛みだった。何かが迫ってくるような。
「……これはダメだ…薬を飲まないと…」
ゲームソフトを床に転がしたまま、会社に持参しているバッグの中から化粧ポーチを取り出して、常備している薬を取り出した。
頭を両手で押さえて歯を食いしばった。
「………い…たい…っ…」
今日に限って、どうしてこんなにも痛いのか。吐き気すらもよおしてくる。
このまま何度も頭痛が押し寄せてくるようなら、病院で検査を受けた方がいいだろう。
今はとりあえず、気休めでも薬をのまなければ。
キッチンへ向かい、震える手で包装シートから薬を取り出して、口に投げ込む。水でなんとか流し込んで息をつく。
頭を押さえながら、その場にしゃがみ込む。
痛みに紛れてノイズのように遠くから何かが聞こえてくる。人の声だ。
『お前のような賎民の女が、このアウロラに仕えることができるだけでも泣いて喜ぶべきなのに、こんなぬるいお茶を出すなんてどういうつもりなの?!わたしをバカにしているの?!』
甲高い少女の声だ。…聞き覚えは……ない。
……何、誰…?何なの…?
『お前たちは脆くてつまらないわ。もっと頑丈で壊しがいのあるおもちゃはいないものかしらね!』
苛立ちを隠せない少女の言葉はより邪悪になっていく。
『つまらない、本当につまらない。いっそ、この世界を壊してしまえば、少しは楽しい気持ちになれるのかしら』
最悪で最高の思いつきに歓喜する。
『世界だって手に入れられる!このアウロラは始祖様の再来に違いないのだから!』
自信に満ち溢れた声は次第に高笑いへと変わっていく。
まるで、壁一枚隔てた世界で起こっているように、少女は息づいている。
……何なの、これ……!
痛みからの逃避で幻聴でも聞こえているのだろうか。それとも、よほどか脳がおかしくなっているのか。
しかも、頭痛はその幻聴に同調するようにガンガンと響いてくるのだ。これは本当にまずいと青ざめて頭を振る。
すると、不意に痛みは途切れた。
世界が闇に沈んだように、沈黙し、耳鳴りがする。
『今より始まる、我がルベウス400年の計……』
なれ、心せよ。
耳元で、落ち着いた声音の女が囁く。
するとぐらりと世界が翻る。いや、翻ったのは、わたしだ。
ぼやけた瞳で捉えたのは、見慣れたはずの天井だった。そしてそれは黒い空洞となってわたしの意識を飲み込んでいった…。
※
用意されたお茶に口をつけてすぐ、アウロラは強い調子で元の位置に戻した。
途端、そばに控えているメイドの肩がビクリと震える。
そして、立ち上がると広い屋敷に少女の鋭い声が響き渡る。
「ローズ!!」
「……っ…」
呼ばれた若いメイドは青ざめてすくみ上る。
「なんなの、このまずいお茶は!」
アウロラは攻撃的な眼差しでローズと呼んだメイドを見やり、ためらいのない足取りで彼女に近づき蹴りつける。ローズは転げるようにして跪く。
そのまま彼女の髪を後ろから掴みかかり、何度も背中を蹴りつける。
「お前のような賎民の女が、このアウロラに仕えることができるだけでも泣いて喜ぶべきなのに、こんなぬるいお茶を出すなんてどういうつもりなの?!わたしをバカにしているの?!」
「……も、申し訳ございません…お嬢様……お…お許しください…っ」
「いいえ、許さないわ!お前にはもっとしつけが必要なようねぇ?喜びなさい、このわたし自ら指導してあげるわ!」
アウロラは加虐に満ちた表情を浮かべた。まるで、悪魔のそれだった。
「……ひっ…、お…お許しを…」
ローズは他のメイドたちに助けを乞うように視線を泳がせるが、飛び火を避けて、皆顔を背けている。ローズを庇えば、アウロラの暴力はその者にも及ぶ。彼らはアウロラが満足するまで、嵐が去るまで沈黙し続けるだろう。ローズは絶望する。
彼女は新しくきたばかりの使用人で、必ずしも出自がいいとはいえなかった。雇ってくれる名家を紹介されて、喜び勇んでやってきたまではよかったが、待っていたのはこの屋敷に暮らす小さな暴君であった。
彼女は少しでも気に入らないことがあるとひどい癇癪を起こし、使用人を虐げる。そのため、彼女の周囲は常に緊張感が漂っており、雇用されて間もないローズは格好の的となっていた。雇用条件がそれほど悪くなかったのは、この暴君の所為で次々に使用人が入れ替わっていたからなのだ。
彼女の理不尽な癇癪の所為で使用人たちはみな傷だらけだった。しかも、彼女が賢しいのは表から見えるところは蹴りつけないというところだ。
アウロラの気がすむまでローズを蹴りつけ、それが終わると彼女は荒い息で鼻を鳴らした。
「お前たちは脆くてつまらないわ。もっと頑丈で壊しがいのあるおもちゃはいないものかしらね!」
アウロラは少女とは思えないおぞましい言葉を吐く。
「つまらない、本当につまらない。いっそ、この世界を壊してしまえば、少しは楽しい気持ちになれるのかしら」
ああ、それはちょっと面白いかもしれない。貴賎の区別なく、逃げ惑い、皆が泣き叫ぶ様はさぞ愉快だろう。力は有象無象を蹂躙するためのあるのだ。わたしにはその『力』が与えられている。
皆、わたしの前に跪けばいいのよ!無様に命乞いすればいいんだ!
「世界だって手に入れられる!このアウロラは始祖様の再来に違いないのだから!」
新しいおもちゃを手に入れた子供のように、楽しくてたまらない気持ちでアウロラは笑う。そして、その高笑いの中、はるか遠くから地震のような振動を感じ取ってはっと周りを見渡す。
その振動は見えない壁を突き抜けるようにして、アウロラめがけてやってきている。そのように感じた。
脅威が近づいている。この屋敷の周囲には古くから外敵に備えた結界が張られているというのに、それすらものともしないような強い意志。
「何かが、くる…」
しかし、突然警戒しはじめたアウロラを使用人たちは不気味さと怪訝さとを複雑に絡ませた表情で見ているだけだ。
…これだから愚鈍な人間は嫌よ。間抜けな顔さらしてただ見ているだけ。この愚図ども…!
不快感に眉を寄せた瞬間。
振動は途切れ、背後に気配を感じる。それは、とても強い圧力だった。
脅威は、真後ろにいる。
恐る恐る振り返ると、そこに女が立っていた。
黒髪にルビーの瞳。
母によく似ている。けれど、知らない女、だがよく知っている女。もうここにはいないはずの女。
おそらく、自分以外は見えてはいまい。
「……お前は…」
アウロラが呆然と呟く間に、女は彼女を冷たく見下ろし、頭を掴む。
『なれでは果たせぬ』
「…?!」
途端、先ほど感じていた振動が頭の中にやってくる。天地が揺らぎ、ずきりと頭が痛んだ。
「……あ…あぁ?!」
すぐに脳が激しく揺らされて、猛烈なめまいに襲われる。そして次に強烈な頭痛がアウロラを襲った。割れそうなほどに痛い。
引き剥がされている。何が?何を?
わからない。だけど、消える、わたしが…消されてしまう…!
「いいいいいいいいいい、痛い痛い痛い痛いーーー!いやぁぁぁぁーーーーー!!」
たまらず転げてのたうち回り叫ぶのだが、その声がどこから出て、何を叫んでいるのか自分でもわからない。それほどの激痛だった。
使用人たちはただ呆然とその様を見守ることしかできずにいる。
だが、これを招いた女の姿はもうない。
そして突然。
糸が切れたようにアウロラは動かなくなっていた。
(2021/04/24改稿)
大幅に書き直しました。展開は一緒です。