帰還
元々ね、私はママと逸れたワケじゃなかったの。
ママが私を置き去りにしただけの話だったの。
私が居ると、邪魔だから。
ほら、私って足が遅かったじゃない?
だから逃げるのに都合が悪かったのよ。
だから私は、おいてけぼりにされた。
通りかかる人も、自分が逃げるのに精いっぱいで、私を助けてる余裕なんてなかった。
だって、当然よね、私を助けてる隙にあいつらに捕まったら、食べられて終わりなんだもの。
だからね、あの時、あの人が私を助けてくれたのは。
本当に、奇跡だったんだと。
今になって思うワケ。
まあ、そう理解した時は、全部遅かったんだけど。
大通りで振り向いた人達は、全員、おかしかった。
身体から血を流している人がいた。
足や手が変な方角に向いてる人が居た。
全身真っ黒になるほどの火傷を負ってる人が居た。
身体の一部分が欠けてる人が居た。
這いずってる人が居た。
倒れたまま動かなくなってる人もいた。
色んな人が居た。
そして。
私のすぐそばに居る、巡査さんも。
首が半分千切れかけていた。
それでも、動いて、私の方に声をかけてきた。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
意味不明なしゃがれ声。
私を見つめる、白濁した瞳。
あの人なんかよりも酷い匂い。
そんな物体が。
そんな物体達が。
私に向かって、歩いてきていた。
怖かった。
怖かった。
怖かった。
私は怖かった。
彼らが怖かった。
けどね。
私は、知っていたの。
恐怖に対抗する方法を。
だから、私は今まで通り。
「我慢」
「怖くても我慢、何も考えずに」
「何時もやっていたこと」
「怖くても、痛くても、相手が飽きるまで」
「我慢、我慢、我慢」
「がまん、がまん、がまん」
彼らはもう、すぐ傍まできていた。
集まってきていた。
お化けみたいな声。
怒った時のママの声みたいに。
恐ろしい声が。
近くまで。
「がまんしよう、そうすれば」
「きっとだいじょうぶ」
私はそのまま、彼らに押し倒された。
沢山の彼らの、汚い手が、臭い顔が。
私に近づいてきて。
私は、目を瞑った。
我慢する為に、目を瞑った。
何も考えないように。
真っ暗な視界の中、音が聞こえる。
何かがぶつかる音。
這いずる音。
うめき声。
ブチブチと何かが千切れる音。
ポタポタと何かが落ちる音。
何かが私に触れて。
そのまま持ち上げて、抱えられた。
痛くなかった。
不思議な事に痛くなかった。
その代わり、匂いがした。
随分薄まったけど。
良く知っている人の。
汗の匂いが。
声を出そうとしたけど、手で口をふさがれた。
「しーっ、あんまり大きな声出しちゃだめだからね、しーっ」
「そうそう、大人しくしてね、もう少しで、もう少し……ふひっ、ふひひ」
目を開けなくても、判った。
自信のなさそうな声。
怖さや不安を誤魔化す為に、無理して笑ってる声。
あの時と同じように。
私を助け出してくれた、この人は。
ドタンバタンと扉を止める音がする。
部屋の中は静寂に包まれた。
あの人の息の音だけが響いている。
私は、あの人に声をかけようとして。
謝られた。
「ご、ごめんね」
「え?」
「や、やっぱり、駄目だった、外では、守れない、私じゃ、無理」
「私は、私はね、準備してたの、ホラー映画とか、好きだったし、世の中がこうなる前から、ずっと準備してた」
「期待してた、そういう世界になったら、私でも、私でも映画の主人公みたいになれるって、けど、けど無理だったの」
「食料や資材や武器は用意できても、私には、無理だった」
「勇気がね、勇気が無いの、あいつらの前に出たら、ちゃんと動けない、怖くて、不安で、何も考えられなくなって」
「それに、少し走っただけでも息切れしちゃうし、体力も筋力も足りないし、ふ、ふひひひ」
「そう、準備するんだったら、まず体を鍛えるべきだった、道具だけ揃えたって、無駄だった、ふひひひ」
「ふ、ふひ……」
彼女は泣いていた。
夜、私の布団に入り込んでくる時みたいに。
泣いていた。
だから私は気付いた。
きっと、彼女は。
私を守れなくなることに不安で、泣いていたんだと。
それに気づいた時、私の身体は自然に動いた。
蹲る彼女を、ぎゅっと抱きしめて。
「……ありがとう」
「ありがとう、ありがとう」
「守ってくれて、ありがとう」
「助けてくれて、ありがとう」
「うれしかった」
「そんなことは初めてだったから」
「凄くうれしかった」
「そんな事を受け入れるのが怖くなってしまうほど」
「凄くうれしかった」
私も、泣いていた。
彼女を抱きしめて、私も泣いていた。
初めてだった、誰かを抱きしめて。
誰かに抱きしめられて、泣くなんて事は。
私が記憶している限り、誰かと一緒に泣いたのは、それが最初で最後。
だって、彼女は私を助けるときに噛まれていたから。