好機
あの人は困った顔でこう答えた。
「私はねえ、子供の頃から笑うのか苦手でねえ、こうやって無理やり声に出さないと、笑ってるって判ってもらえないんだよぉ」
そして不安そうな顔でこちらを見つめてきた。
大人なのに、子供の私に対してそんな顔をするのが、すごく不思議だった。
「君は、この笑い方が嫌?」
「……」
「正直に言ってくれていいよ、ふひひひ」
どうしよう、怒るかな。
けど、さっきは大丈夫だったし。
きっと……ママとは違うんだよね……。
そう感じた私は、決意した。
ちゃんと答えようって。
「……うん、変、キモイ、止めて欲しい、正直ないわ」
「ふぇぇぇぇぇ……」
あの人は、とても悲しそうな声を出した。
ちょっと可哀想だったかも。
けど。
けど、怒られない、この人は大人なのに、正直に物事を言っても、怒られない。
それがとても不思議だった。
この人は、優しい。
私の言う事を聞いてくれる。
私の目線で話してくれる。
けど。
「うっ、うううっ、うっ、はぁ、はぁ、はぁ」
これだけは、嫌だなあ。
どうして、夜、布団の中に入ってくるのかなぁ。
どうして、私を抱きしめて、こんな事をするのかなあ。
毎日、毎日、こうだもん。
「うっ、ひっく、うぅぅ、グスン」
どうして、私を抱きしめて、こんなに泣くのかなあ。
苦しい、苦しい、苦しいよぉ。
息も苦しいけど。
それ以上に、胸の中が、苦しいよぉ。
どうして?
どうして、この人は、他人に身を預けて泣く事が出来るの?
私はずっと我慢してるのに。
泣きたくても我慢してたのに。
どんなに殴られても、詰られても、ご飯を抜きにされても。
ママを抱きしめて泣いた事なんて無かったのに。
どうしてこの人は、私に対して、こんなに弱さをさらけ出すんだろう。
「どうして」
「どうして」
「どうして」
そうだ、そうだよ、私には、ママがいる。
この人は優しいけど、ママは優しくない。
ママの方が怖い。
早く、早く帰らないと、ママに、またママに……。
「うぅ、グスン、ヒック」
……この人が、どうして泣いてるのかなんて、判らないよぉ。
どうして私をこの家に閉じ込めてるかなんて、知らないよぉ。
知らない事よりも、知ってる事を優先した方がいいよぉ。
早く帰らないと、ママが怒る。
それが、私の知ってる、一番大きな事だよぉ。
この人が、寝ちゃってる今なら。
今なら……。
私は、そっと布団から抜け出した。
あの人は眠ったままで、気づいていない。
今なら、外に抜け出せるかもしれない。
外へ通じる扉は、塞がれてしまっている。
窓も板が打ち付けられている。
けど、私はこの家に入る時に見ているのだ。
「それ以外の出入り口」を。
それは幼馴染の家にも設置されていた物だった。
小さな犬が出入り出来るように作られた、小さな扉。
大人の視点しか持たないあの人は、きっとこれを見落としている。
「人が通れるはずがない」と思い込んでしまっている。
けど、小柄な子供である私なら。
或いはギリギリ通れるかもしれない。
試してみる価値はある。




