カノンの決断
ウジウジする勇者に業を煮やしたのは、俺ではなく女房役だった。
「やる前からできないできないって、諦めるのが早すぎるでありますよアコ殿! セイクリッド殿がおさわり禁止なら、じ、自分がお手本を見せるであります!」
カノンがじりじりとニーナの背後に回り込んだ。解呪の方法は教えていないのだが、ひとまずニーナを捕まえてベリアルから引き離そうという魂胆なのだろう。
「ニーナちゃん、後ろから不審者来てますよ?」
キルシュのバカ。もう知らない。
元暗殺者の忠告に、ニーナはひらりとカノンの腕をすり抜けた。
「あ! カノンちゃんひどいんだからー! ニーナが悪い子になったからって、捕まえるなんてえ。ぷんぷんなのです!」
腰の辺りに手を当てて、ニーナはぷっくりほっぺたを膨らませた。そしてアコをじっと見つめる。
「それにアコちゃんせんせーもアコちゃんせんせーなのです。ちゃんとみんなの……ニーナのお手本になってくれなきゃ、ニーナも安心して悪おちしてられないのです」
言っていることが若干支離滅裂なのだが、幼女の声はアコの胸に染みたらしい。
勇者は涙に潤んだ瞳を腕でゴシゴシと拭いた。
「そ、そうだね。うん……そうだったよ。ボクは勇者としては頼りないけど、ニーナちゃんよりはお姉さんで……先生なんだ」
アコの視線が俺に訊く。どうすればいいのか? 何ができるのか? そんな問いを含んだ勇者の決意の眼差しに、俺はゆっくり頷いた。
「抱きしめてあげてください。アコさんの抱擁が、きっと悪しき力を打ち破るでしょう」
「わかった……やってみる!」
アコは走った。幼女の元へと一直線に駆けると、その身体を正面からぎゅうっと抱きしめる。
すると、アコの胸元に聖なる光が宿って弾けた。
「きゃああああああああ!」
ニーナのどことなく緊張感の無い、棒読み気味な悲鳴が響く。
ステラが息を呑み、カノンは「い、いったいなんでありますか!?」と、眼鏡のレンズを拭いてアコの胸から広がる清浄な輝きに目をこらした。
ふと、ステラが呟く。
「まさか……勇者の聖印? そうよねセイクリッド?」
ご明察だ。俺はステラに頷いて返事に代えた。
アコの胸には勇者の聖印がある。
先日、火山島でステラがアコに抱きつかれた時の事を思い出したのだ。
魔王であるステラの力を弱めたのであれば、吸聖姫の放ったゼリーワームも弱体化できるやもしれない。
解呪の方法を知らずとも、勇者の抱擁は幼い魂を闇の底から引き戻した。
「ふやあああああぁ」
ニーナの背中に張り付いていたゼリーワームが煙となって空気に溶けて消える。
これには余裕しゃくしゃくだったポンコツピンクの魔族少女が、目を丸くした。
「な、な、なんなのだ!? ゼリーワームが完全に悪堕ちさせてたのに……まさか、さっきの良い匂いの正体は……」
アコはニーナをステラに任せると、リムリムと対峙した。
「ふっふっふ……ボクは……ボクは勇者アコだよ! この胸の聖印が目に入らぬか!」
先ほどまで落ちこんでいたのが嘘のように、ニーナを救ったことで自信を取り戻し、さらに調子に乗り始めたアコは、上着を脱いでブラのホックに手を掛けた。
すかさずカノンが止めに入る。
「そ、そ、そういうところでありますよ! ムラッ気がひどいであります?」
「どうしたんだよカノン? ムラッ気って、もしかしてボクのおっぱいにムラムラしてたのかい?」
ああ、神よ。どうしてアコに(以下略)
勇者は神官見習いの制止を振り切り、ブラを脱いで頭上でタオルよろしく振り回す。
「さあかかってこい! 抱きしめてあげるから! 素肌で! 直に!」
リムリム相手に臆するどころか、堂々とした胸の張りっぷりだ。
勇者とは勇気ある者。胸に秘めたる勇気だけを武器に、苦難に挑むというのか。
そんなアコの足下にすがりついて「女の子がはしたないでありますよ~!」と泣くカノンが不憫でならない。
まったく、神聖な教会の聖堂で脱ぐとは、人としていかがなものだろう。
ちなみに、着替えなど必要があって脱ぐことはノーカウントということを、ご了承いただきたい。俺は穿いていた下着を頭上でロックンロールするような、奔放な人間ではない。
リムリムはニンマリ笑った。
「おお、すごい聖なる力なのだ。これはいただきなのだぁ!」
リムリムの両手から、無数のゼリーワームが湧き上がった。
それらは聖なる力の匂いに惹かれるように、アコめがけて殺到する。
「う、うわ! うわあああああ!」
勇者がたじろいだ。これは少々やっかいだ。が、手を貸してしまってはアコは再びダメ人間になりかねない。
人を導くことの難しさを痛感し、一瞬――俺の判断は遅れた。
リムリムが次々とゼリーワームを手のひらから生み出しながら胸を張る。
「誰かを浄化できても、自分自身が悪堕ちしたら浄化はできないのだ♪ リムリムってば頭いいのだ!」
「タンマタンマタンマタンマ!」
狼狽える勇者が……突き飛ばされた。
「下がっているでありますよアコ殿」
哀しげな表情を浮かべながらカノンが微笑みながら、押し寄せる波のようなゼリーワームにその身を投じる。
アコの口から小さな声がこぼれた。
「カノン……どうして」
十匹近いゼリーワームに一斉に貪られるように蹂躙されて、カノンの本体――眼鏡だけが暗黒水饅頭の固まりから、ペッと吐き出されるようにして、床に落ちる。
レンズはひび割れ、アコの目の前で神官見習いの魂は漆黒に染まりきった。