月は静かに二人を照らす
大きな月が柔らかい光で火山島を包むように照らす、明るい夜だった。
宴を終えて誰もが寝入った頃、コテージのリビングのソファーで横になった俺の元に、ステラがひょっこり顔を出した。
窓から射し込む月明かりもあって、魔力灯を点ける必要もなく彼女の表情が見て取れる。
少女は小声で呟いた。
「さっき言ってた大事な話、訊かせてくれるかしら?」
もう少ししてから、こちらからステラを呼び出すつもりだったが、彼女の方からやってきたのは予定外だ。
「ええとですね……」
ソファーで上掛けを外して起き上がりかけたところで、のっそりと影がリビングに現れた。
なにを思ったのか、ステラが俺のソファーに飛び込んで上掛けの中に潜りこんでくる。
人影はこちらのドタバタには気づかず、スーッとトイレに消えていった。
後に、激しく嘔吐く声が聞こえて、それからスッキリした顔でベリアルがベッドルームに戻っていた。
こちらの様子には気づいていない。
俺の胸に頬をぴたりと寄せて、ステラは体温調節する子犬のように、短くハッハッと息を吐く。
上掛けをめくると、上目遣いで赤毛の少女は俺を見つめた。
「ここじゃ落ち着いて二人きりで話せないかも」
「ええ、そうですね。せっかくの明るい夜ですから、散歩でもしながらにしましょう」
ステラを連れてコテージを出る。まあ、少し歩けばビーチもあるし、そこで話せばいいだろう。
と、浜辺に続く防砂森林を抜けると、思いのほか人手で賑わっていた。
どれも二人一組の男女である。
「やだ、なんかそこかしこで影が一つになっちゃってるんですけどぉ」
ステラはモジモジとしながら、俺に身を寄せぴたりとくっついて歩く。
「美しい月夜ですから、二人だけの時間を過ごそうという方々も多いのかもしれません」
「ほ、他に誰かいる場所で、大事な二人だけの秘密の話って……ふ、風情がないわ」
昼間に海水浴をした白い砂浜に出たはいいが、そこかしこに点々と、カップルたちの姿があった。
「風情はともかく、皆さん、自分たちの世界に没入していますから、きっと大丈夫ですよ」
肩を寄せ合うカップルもいれば、じっと見つめ合うだけのカップルや、恥ずかしそうに手を繋いだまま、お互い顔を合わせられずモジモジする二人の姿もあった。
ステラがブンブンと首を左右に振る。
「だ、だだダメよ! ほら、邪魔しちゃ悪いし。どこかもっと人気の無い場所に行きましょう? 大事な話なんですもの。落ち着いて、きちんと心の整理をつけた状態で聞きたいのよ」
「しかし、コテージにはニーナさんが……」
「護衛ならさっき、ベリアルも目を覚ましたし、アコにカノンにキルシュもいるんだし、セミ男程度なら、ベリアルが本気になればイチコロよ!」
魔王様は鼻息も荒い。どうやら興奮しているらしく、かすかに汗ばんでいた。
ぎゅうっと俺の手を握ってくる。その白い手がしっとりとしていて、温かい。
「わかりました。そういうことでしたら、ぴったりの場所があります」
そうとでも言わなければ、ステラは冷静に話を訊いてくれそうにない。
「あ、やだあの二人……き、キスしてる……え? ちょ! あっちなんて胸に手を……やだ、なにあれくっつきすぎでしょ?」
こんなことならコテージ内で話せば良かった。
「仕方ありませんね。少し遠いですが、良い場所を知っています」
村の市場通りを抜けた先、酒場や酒店のもっと向こうには、地元の漁師たちが漁船を並べる小さな入り江がある。
そこまでいけば、流石に観光客カップルもいないだろう。
村を抜ける間も、そこかしこに男女の姿があった。抱き合い見つめ合い、まるで世界の中心はここですと、どのカップルも自己主張しているかのようだ。
遭遇するたびステラは「あわわ」と震えてしまった。
そんなカップルの群れも、町外れの酒店の辺りまでくるとようやく途切れて、夕方に筋肉軍団に案内された漁船の並ぶ入り江に到着する。
人の気配もなくなり、やっとステラも深呼吸して落ち着きを取り戻した。
「お、男の人と女の人が、あんなにくっついてるのって見たことなくて……なんだかわからないけど、胸がドキドキしちゃって……」
言いながら自分の胸を両手でスッと手ブラするように隠すステラだが、そういう彼女自身も俺にコバンザメのように張り付いていた。
俺は浜に上げられた小舟の縁にそっと腰掛ける。
すると、ステラも俺の隣にちょこんと座って、膝を並べて寄り添った。
「え、えっとねセイクリッド。遠慮はいらないから。ここなら他に誰もいないみたいだし、あたしもやっと覚悟がついたっていうか、うん、旅先のテンションだからとか、そういうんじゃなくてね……ずっと……ずっと待ってたっていうか……」
俺の顔を見上げて少女は早口になったかと思うと、言葉が尻切れ蜻蛉になって途切れてしまう。
「具合が悪いようでしたら、治癒いたしましょうか?」
そっとステラのおでこに触れると、やはりしっとりとしている。
「あ、あぅぁぁ」
うめき声を上げた少女だが、熱があるのかイマイチわからない。魔王の発熱には要注意だ。時折、ステラは力の出し過ぎなどで魔法力不足になり、熱を出して寝込んでしまう。
念のため、少女のおでこに自分の額を軽くつける。
「はうぅ……」
ステラはブルルッと震えたが、触れた感じでは平熱といったところか。そっと離れると、少女は両手で顔を覆った。
「い、いきなりなにするのよ?」
「少々熱っぽいようではありますが、ほぼ平常値です。ステラさんは慣れない環境で疲労してしまったかと思いましたが、この程度なら魔法力不足の発熱の心配もないでしょう」
さて、やっとこちらも本題を切り出せると思ったのだが、ステラは顔を覆ったままだ。
「あの、ステラさん。魔王様? どうして顔を隠していらっしゃるのですか?」
「は、は、恥ずかしくて無理ぃ」
「恥ずかしいとはいったい……まあ、耳がふさがっているわけではありませんから、そのまま聞いてください」
と、言った途端にステラは両手で耳を塞いだ。
「こ、これならどうよ!」
エヘンと胸を張る。いや、どうよじゃないって。
「それではお話できませんね。ああ、この声も聞こえていないのですか。えーでは、僭越ながら……魔王の胸は洗濯板」
「あるわよ板じゃないわよ起伏も膨らみも人並みよ。むしろ品乳なんだから」
「良かった聞こえていたのですね」
ムッとしながら眉尻をつり上げるステラだが、耳を塞ぐのをやめてすぐに大きな溜息をついた。
「ハァ……もう、なんでいつもこんな感じになっちゃうのかしら。せっかくの素敵な夜が台無しよ」
「台無しだなんてとんでもない。この入り江からでも月は綺麗ですよ」
俺は入り江に浮かぶ月の影を指差した。
夜空の月が水面に映る。波にもまれて月の複製は常に形を変えていた。
ステラは空の月と海の月を交互に見てから「たしかにそうだけど」と、ポツリ。
それきり喋らなくなってしまった。
静かな夜だ。
本当に、静かな。
ここにあるのは俺とステラと、一定のリズムを刻む潮騒くらいなものである。
まるで俺とステラだけしか、この世界には存在しないのではないかと錯覚するほどに。
「ステラさん。大事なお話があります」
そっと視線を赤毛の少女に向ける。
少女は小さくコクリと頷くだけで、俺の言葉を待った。
そのルビーのように紅く透き通った瞳を潤ませながら。