逃げちゃだめだ……逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ
ある朝――
清掃用具を手に礼拝堂の掃除をしようと思ったところで、大神樹の芽から光が溢れて大聖堂が真っ白に染まった。
「朝からなんなんですかいったい」
光が止むと講壇の上に、青い水晶のような物体がふわふわと浮かんでいた。
正八面体だ。同時に大神樹の芽からメッセージが壁に映し出される。
『危険地域に神官を配置するのは非人道的という意見が出たので、自立防衛型記憶水晶の試験的配備を行います。 敬具 大神樹管理局:設備開発部』
なるほど、これが噂の記憶水晶というやつか。
神秘的な輝きの巨大な水晶は、十字架のように広がる大神樹の芽を背にして、空中にぴたりと静止している。
講壇のど真ん中だ。まるで教会の主は自分だと言わんばかりだった。
と、聖堂の入り口がゆっくり開いて、ひょっこり赤い髪の少女――魔王ステラが顔を出した。
「お、おはようセイクリッド。あのね……あ、朝ご飯一緒にどうかしら? もちろん作るのはあなただけど……って、ちょっとなによその大きなサファイアは?」
気づくなという方が無理なレベルで、青水晶は鎮座している。
「ついさっき、本部から送られてきたんですよ」
ステラはスタスタと赤い絨毯を進み、腕組みをして講壇を見上げた。
「はは~ん♪ さては魔王であるこのあたしへの貢ぎ物ね。安物の宝石でもこれだけ大きいならお高いんでしょ?」
「貢ぎ物ではないと思いますよ。マイナス15点の魔王ステラ」
「なんで朝一番、会って早々減点されなきゃなんないわけッ!?」
「貴方の日頃の行いがそうさせるんですよ」
ステラはほっぺたをぷくっと膨らませた。
「もう! で、それじゃあこれはなんなのかしら?」
「神官の代わり業務をこなす魔法装置の一種ですね」
青い水晶にそっと触れてみる。ヒンヤリと冷たい感触だ。
俺が触れると反応して輝き、水晶はその身にまとう青さを深めた。
フォーン……フォーン……フォーン……フォーン……
神秘的な“女の歌声”のような音が聖堂内に響く。
ステラが片方の眉を上げた。
「なんだか不気味ね」
「そうですね。しかしこれで私も……」
赴任一週間。
長いようで短い教会の司祭生活だった。ようやくベッドの硬さにも慣れてきたところだが、俺の代わりが来たということは、つまり別れの時である。
ステラがビクッとなった。
「え? ちょっと、ねえセイクリッド? なんでそんなに寂しそうな顔をするの?」
「もうニーナさんに会えないのかと思うと、そればかりが心残りで。彼女が立派なレディーになるまで見守ってあげたかった」
「嘘でしょ?」
「まだ何も申し上げていませんよ」
「ロリコンがロリの成長を祈るなんてあり得ないわ!」
「何か勘違いなさっていませんか?」
ステラは尻尾をピーンと立てた。
「この前、ニーナが『おにーちゃのお膝にのっけてもらったのー! うれしいのー!』って、すごく喜んでたのよありがとね! じゃないわこのロリコン魔界紳士!」
「せめて罵倒するにしても神官の要素を入れてください。紳士の部分はあっていますが、魔界と私は無関係です」
ほっぺたを膨らませてステラは青い記憶水晶をビシッと、指差した。
「だいたい、こんな石ころにあなたの代わりなんて務まらないわ!」
「ちゃんと旅の記録ができますし、蘇生も可能です。毒の治療や呪いを解くだけでなく、触れれば体力が全快するみたいですね。どうやら大神樹の芽から魔法力を供給されているようで、おかげで完全無料みたいですし」
少女の赤いツインテールが激しく揺れた。
「ニーナを膝に乗せてくれないし、絵本だって読まないし、一緒に王都へ買い物にも連れてってくれないでしょ? あたしが求めてるのは……あ、あなたよ」
そのままステラは小さな肩を落としてシュンっとうつむく。
「ステラさん……」
「このごにおよんでさん付けなんて……ねえセイクリッド? 本当に行っちゃうの?」
「正式な辞令はまだですが、じきに届くでしょう」
ステラは慎ましやかな大きさの自分の胸にそっと手をあてた。
「教会なんて辞めて魔王城で働かない? この魔王の軍門に降るというのなら、特別に悪魔神官の椅子を用意するわ! しかも今なら副賞としてニーナの家庭教師の称号も上げるわよ!」
「なんですその、買うともう一つプレゼントみたいな言い方は。それに悪魔神官の地位よりも特典の方が魅力的だなんて」
「でしょでしょ!? オマケ付きっていうのはみんなオマケが欲しくて買ってるんだから!」
どうしてこうもステラは俺を引き留めようとするのだろう。俺は溜息を一つ。
「口うるさい上に、貴方よりも強い神官が綺麗さっぱりいなくなるというのです。魔王としては喜ばしいのではありませんか?」
「あ、あなたを倒せるのはこのあたししかいないわ!」
親指を立ててステラは自身の顔を指さし、口元を緩ませた。
「それは魔王じゃなくてライバルのセリフです」
「と、ともかくダメなものはダメよ! 人の手の温もりが感じられる憩いの場として、この“最後の教会”の存続を認めてあげたけど、石ころなんかに任せられないんだから!」
「私の仕事ぶりを評価していただいて光栄に思います魔王様」
「ちゃかさないでよ! ほんとに……帰っちゃうの?」
赤い瞳が涙に潤む。
少々意地悪くなりすぎてしまったか。
「そうですね。ただ……こういった魔法装置というものには破損や故障はつきものですから。うっかり壊れてしまわなければいいのですが」
俺がそう言うと、ステラはそっと手を握ってきた。
白い柔らかな感触は可憐で、魔王の恐ろしさなど欠片もない。
「こっち来て。うんそうそう。もっとね。はいストーップ」
わざわざ教会の入り口まで俺の手を引いていき、金属製の扉を開け放つと俺とともにステラは荒野に出た。
魔王城を背にして彼女は呪文を唱える。
「極 大 爆 発 魔 法ッ!?」
王でなければ使うことのできない上級以上の黒魔法。
しかもすべてをなぎ払う爆発のそれだ。
いかに教会の建物が大神樹の芽によって護られているからといって、いきなり極大級の魔法とは……。
「建物が吹き飛んだらあたしが素敵な闇の神殿を建て直してあげるから!」
ステラが両手を開いて前に突き出し、魔法力を絞り出すようにして魔法を放った。
ゴポワアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!
一瞬の閃光――
そして大爆発。教会全体を渦巻く爆風が襲いキノコ雲が上がった。
が――
「な、なによ……なんで無傷なわけ!?」
こじんまりとした白い教会は、小さな鐘楼も無事残っている。
ステラが魔法の標的とした青い水晶は、何事もなかったように静かに光をたたえていた。
光の戦士たちを導きそうな威風堂々としたたたずまいである。
フォーン……フォーン……フォーン……フォーン……フォ
奇妙な歌のような音が止んだ。
そして青い正八面体はその場でぐるっと回ると、その頂点の一つをステラに向ける。
「え? な、なによ? なに? なんなのやろうっていうの!? こっちは魔王様よ? セーブポイントごときがこの魔王ステラに角を向けるなんて良い度胸……」
ステラの口上の間に、記憶水晶の端に魔法力が集中した。
「魔法力が極所に増大。いけませんね。防御魔法展開」
俺は前面に集中させる形で防壁を三重で張る。
間一髪――
青い水晶体から放たれた魔法力の火線が走り、ステラの胸を射貫こうとした。
俺の防壁の二枚を一瞬で突き破った威力は、かなりのものだ。
「は、は、反撃するなんてあり得ないわ!」
その間に二発、三発と記録水晶は魔法の火線をステラめがけて放ち続ける。
防壁をミルフィーユのように積層しながら俺は思う。
あれ、こいつ魔王より強くね?