表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

やさしい太陽のようだと

作者: 浮須木エマ

登場人物

茎太(けいた)-主人公。小学生。

桜吹(おぶき)-茎太の叔父。小学校教諭。

優しすぎる叔父と、それに感謝し続けて生きる甥っこのお話です。

 まだ、物心ついたばかりの頃。母さんを亡くして、おれはいとも容易く天涯孤独の身になった。

 父親は、元々いなかった。母さんが妊娠してすぐ逃げ出したらしい。幼い記憶にすらしっかり残る、あの優しかった母ですら、そんなふうに捨てられる。

 歳をとるごとに知っていくいろんな真実が、おれを年相応や無邪気という言葉から引き離していった。

 この世界は、優しいものなんかじゃない。渡る世間は鬼ばかりだ。弱いやつは心を武装していないと生きていけない。

 だから純粋に、おれは桜吹をすごいと思う。


 桜吹は、おれの叔父だった。母さんとは異母兄弟だと聞かされていた。

 母親が死んだ当時、おれには貰い手がつかなかった。親戚はみんなけむたがった。

 仕方ない。誰が産ませたかも分からないような子供だ。人生の全てを諦めかけていた瞬間だった。その頃まだ大学を卒業したばかりで、教師一年目だった桜吹が、おれを引き取ると言い出したのは。

 周りは反対したけれど、強くは止めなかった。そりゃそうだ、自分のところに押し付けられたら嫌だろう。


『茎太、僕のところでもいいかな?』


 決しておしつけがましくはなく、けれど絶対に揺らがない瞳で、桜吹はおれに手を差し伸べた。

 その手を取らない理由がなかった。おれは元々桜吹が大好きだったから。


 その時から、桜吹がおれの一番大事な人になった。



 そんな経緯で一緒に生活をするようになると、桜吹は、まったく、本当に、つくづく感心するほど、綺麗に生きる人間なのだと実感させられた。

 朝は、四時には起き出す。そんな桜吹の、顔を洗うために水道を開けていたり、歯磨きをしていたりする生活音で、おれは目を醒ます。

 目覚ましを一切使用しなくなって、そうしたら寝起きがものすごく改善した。昔は目覚ましで起床しては、頭痛に見舞われていたのに。

 ひとの気配というものは、本当に安心するものだ。動いてなにかをしている、信頼できるひとが一緒にいるという幸福。同居が始まって、それを一番に感じた。

 もうすこし寝ていてもいいんだよ、と笑う桜吹の言葉を無視して、おれは食事の用意を手伝う。普段は折りたたんでいるテーブルの脚を伸ばして、箸や醤油さしを真ん中に置く。

「うれしいけど、茎太、頑張り過ぎちゃだめだよ?」

 朝食の支度にいそしみながら、桜吹はそんなことを口にする。

 なにを言っているんだか。おれはため息が出るようなきもちだった。――頑張り過ぎているのは、誰のほうだと言いたい。


 桜吹は完璧だった。朝から夜まで、まったくケチのつけようもないほどきっちりとこなす。必要なことはもちろん全部その日のうちに片付けるし、そのくせおれと喋るだけの時間も作っていてくれる。

 あんまりにも、居心地がよくて、逆におれは妙な焦燥を感じた。

 ――おれは、桜吹の重荷じゃないのか。

 桜吹だって、若い男性だ。顔もこれまた綺麗に整っている。桜吹にそのつもりがなくとも、寄ってくる女なんていくらでもいるだろう。

 最初、桜吹のもとに来ると決めたとき、誓ったことだった。――決して、重荷にはならない。

 でも、そうするように努めても、結果どうなっているのか分からない。桜吹は笑顔を崩さないし、たとえ負担に喘ぐほどでも、おれにそれを言ったりは絶対にしないだろう。


 朝食に、ふたりでテーブルを挟む。焦げの一切ない出し巻き卵とサラダ。黙して食べていたら、桜吹が柔らかく声をかけた。

「今日は、予定はあるの? 日曜日だけど」

 おれは首を左右に振った。友人の少ないおれを、桜吹はいつも心配している。今だって、ほら、眉が下がっている。

「桜吹は? 今日も、学校?」

 尋ねると、珍しく首を振った。おれと同じように、左右に。

「僕は、部活の担当もしていないから…今日は自由だよ。…それでね、相談なんだけど」

 相談。桜吹はそう言って小首を傾げた。様子を窺うように。なんだろう。身を乗り出すと、桜吹が、なぜか楽しそうに笑った。

「茎太、一緒に、おでかけしない?」

「…お、でかけ?」

「うん。せっかく日曜だし…必要なもの買うついでに、一緒にランチでも食べてこようよ」

 にこにこ、桜吹は笑う。とんでもなく、魅力的な誘いだった。

 何度も繰り返すが、おれは桜吹が大好きだ。そんな桜吹と外出なんて、楽しみ以外の何物でもない。

 でも、おれは躊躇した。いいのか? 桜吹だって個人的な買い物がしたいんじゃないのか? 子供についてこられると、面倒なことだってあるだろう。

 黙ってしまったおれの頭を、そっと伸びてきた桜吹の手が撫でた。

「茎太? またいろいろ気遣ってくれてるでしょ。ごめんね、いつも」

「な、んで、桜吹が謝ることはないだろ」

「そうかなあ。だって、いつも茎太は、僕のことを最優先に考えてくれるじゃない。僕がもっと器用に立ち回れたら、きっと、茎太も気楽になれるのにね」

 だからごめんね。穏やかな笑顔。

 いっそ哀しくなってしまう。桜吹は、ひとに優しくじぶんに厳しく、っていう信念が過ぎる。もっとひとに甘えたっていいのに、桜吹は、なにもかもを背負って、なんでもないような顔をして笑い続けるのだ。

「気遣いは、当たり前なんだよ。おれは、桜吹が一番大事なんだ、すきな人間を気遣うのは当然のことだろ。桜吹だって、自分のこと後回しにして、おれを優先してくれてるだろ」

 急いたように口を動かしたおれに、桜吹は一瞬きょとんとして、それからまた、やさしく笑った。

「ありがとう。茎太がそんなふうに思ってくれてるなんて、僕は幸せ者だね」

 胸の奥が、ぎゅうっと痛んだ。幸せ者。そんなわけがない。桜吹は、おれを助けたことで、確かにいくつもの可能性を失ったのだ。

 教師として働き始めて間もなくの同居だった。ただでさえ不慣れな職場で頑張っているのに、早くおれと一緒に飯を食べるために、家に持ち込んだ仕事は数知れない。

 おれの前で、生徒の答案の採点をするのを、桜吹は何度も謝った。せっかく茎太といるのに、仕事なんて持ち込んでごめんね、と。

 そんなの、どうだってよかった。別に、なにも気にはならない。当然のことじゃないか。おれには、桜吹がいてくれるだけで、充分すぎて罰が当たるほど、幸せなのに。

 おれは、桜吹の幸せを吸って、自分の幸せにしたのだ。それは確かに罪なのに、桜吹は曇りない笑顔ばかり向ける。

「僕は、茎太がいてくれる生活が楽しいよ。遅くなって寂しい思いさせてるかもしれないけど、帰った場所に茎太がいてくれるの、本当に、嬉しい」

 その笑顔が、あまりに嘘やら虚勢やらを弾いて、汚れないので、いっそおれは泣いてしまいたくなる。母さんが死んだときでさえ、おれは泣かなかったのに。

「茎太。一緒に、出かけてくれる?」

 柔らかな声が、そう問いかける。頷いた。声は出せなかった。出そうとしたら、それは一瞬で嗚咽に変わってしまう気がした。


 桜吹と一緒に外出して、飯を食べ、夕飯の材料を買ってきたおれは、今、自宅の台所に立った桜吹の背中を見つめている。

 かみさま、ってのは、ひどいものだ。

 桜吹は、最近すこし、痩せた。本人は何も言わないけれど、疲労が酷いのだとは察せた。遅くまで、持ち帰った仕事をしているので、睡眠時間もかなり少ない。

 やさしいひとが、損をする。この世界はそうできている。おれを引き取り、桜吹は、背負わなくてもいいものを背負い、持っていてしかるべきものを手放した。

 おれは、その背中を見て、思う。はやく、大人になりたい。

 桜吹が気を抜いて、楽に暮らせるようにしたい。今まで桜吹が捨てたものを、ひとつひとつ回収して、桜吹にもう一度手渡したい。

 おれにできる報いなんて、その程度だ。その程度すら、本当にできるのか、不安もある。それでも、やるしかないし、やりたいのだ。桜吹を不幸にはしたくない。

 背中を向けたままの桜吹が、急に口を開いた。

「ほんと、姉さんに、ありがとうって言わなきゃだね」

 唐突な言葉に、おれは首を傾げた。

「なんで」

「だって、茎太を遺してくれたでしょう」

 目を見開くおれを、桜吹は笑顔で振り向いた。

「茎太を産んでくれて、僕のとこに遺していってくれて、本当にありがとうって。そう言わないとって、しみじみ思ってね。明日、仏壇のお花買ってこないと」

 一切の曇りもなく笑う桜吹。胸も、頭も、身体中が痛い。なんで、そうなんだ。いつだって桜吹は、おれを、おれなんかを、大切に導いて、守ってくれて…。

 おれは、黙して立ち上がった。料理中の桜吹に、歩み寄る。不思議そうに名前を呼ばれて、おれは、エプロンをつけた桜吹の腹に額をくっつけた。

「…どしたの?」

 うまく口を開けずに、くっついたままのおれに、桜吹は料理の手を止めて、背中に手を回してくれた。

 母が死んだあの日、おれは未来を絶望していた。一緒に火葬してくれと、そればかり思っていた。母さんのことを哀しむ余裕すらなかった。

 孤独のまま、死んでいくばかりだと思っていた。実際そうなる流れだったのだろう。桜吹が、おれを引き取ると言わなければ。

 桜吹は、大好きな叔父だし、命の恩人だし、ときにやさしい父であり、母に似た笑みを浮かべ、友人のように笑い合ってくれる、救いの神のような人間だった。

 おれが、何をしたら、その恩に応えられるのだろう。おれで足りるのか。なにも持たないおれなんかが、桜吹に幸福を与えられるのか。

 桜吹は、おれの頭を撫でた。

「茎太は、頑張り屋で、ポーカーフェイスで。ほんとうにいい子だね。でも、僕の前で、いい子でいる必要はないんだよ。僕は、茎太の親代わりなんだよ…そのままの茎太の、家族なんだよ」

 流すまいと思っていた涙が、目に膜を張る。抱きしめられて、抱き返そうとすると、桜吹の痩せた身体の、骨ばったところに触れた。――こんなに、肉もなくて。

「おれ、絶対に、桜吹が幸せになれるようにする。絶対にそうする。だから、もう、もうちょっとだけ…、ここに、置いてくれ」

 鼻声で、おれは必死にそう紡いだ。桜吹は、おれの頭を何度も撫でた。

「ありがとう。茎太がいてくれて、もうものすごく幸せだよ。ちょっと、なんて寂しいから、いられるだけ、ここにいてくれたら嬉しいな」

 おれは、声をころして泣くのが精一杯だった。



 いつも温度があるアパートの一室。待っていれば帰って来てくれる桜吹。忙しいのも気にしないで、おれの学校でのはなしを笑顔で聞いてくれる。

 そして、家が狭いから、眠るときは布団をくっつけて眠って。

 いくつもの孤独に負けそうな夜を、おれは桜吹の寝顔を見ることで、何度も何度も乗り越えられたんだ。

 逃げた父親、死んだ母さん。おれは、おれはもっと生きるよ。まだ死ねないんだ。桜吹を幸せな道へ送るため、おれはがむしゃらに生きていく。

 必ず、必ず報いる。桜吹のくれたものすべてを返す。一番、いや、唯一大事な桜吹を、おれは必ず、守れるようになってみせる。

 今日も、間もなく終わる。おれはひとりで布団に潜り込む。桜吹は、明日の授業の準備をしてから寝るのだと言った。最後にくれたのは、あたたかい「おやすみ」。

 間もなく、うとうとし始めてしまう。子供だよな。でも、桜吹のペンを走らせる音に、こころはひどく安定していく。

 目を閉じたまま、桜吹を思った。大切な大切な唯一の家族。


 ありがとう。


 うまく口に出せない台詞。それを脳内で呟いて、そしたらひと雫の涙がこめかみを伝い落ちた。

 桜吹の筆記音に、いだかれるように、おれは目を閉じた。



END

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ