やさしい太陽のようだと
登場人物
・茎太-主人公。小学生。
・桜吹-茎太の叔父。小学校教諭。
優しすぎる叔父と、それに感謝し続けて生きる甥っこのお話です。
まだ、物心ついたばかりの頃。母さんを亡くして、おれはいとも容易く天涯孤独の身になった。
父親は、元々いなかった。母さんが妊娠してすぐ逃げ出したらしい。幼い記憶にすらしっかり残る、あの優しかった母ですら、そんなふうに捨てられる。
歳をとるごとに知っていくいろんな真実が、おれを年相応や無邪気という言葉から引き離していった。
この世界は、優しいものなんかじゃない。渡る世間は鬼ばかりだ。弱いやつは心を武装していないと生きていけない。
だから純粋に、おれは桜吹をすごいと思う。
桜吹は、おれの叔父だった。母さんとは異母兄弟だと聞かされていた。
母親が死んだ当時、おれには貰い手がつかなかった。親戚はみんなけむたがった。
仕方ない。誰が産ませたかも分からないような子供だ。人生の全てを諦めかけていた瞬間だった。その頃まだ大学を卒業したばかりで、教師一年目だった桜吹が、おれを引き取ると言い出したのは。
周りは反対したけれど、強くは止めなかった。そりゃそうだ、自分のところに押し付けられたら嫌だろう。
『茎太、僕のところでもいいかな?』
決しておしつけがましくはなく、けれど絶対に揺らがない瞳で、桜吹はおれに手を差し伸べた。
その手を取らない理由がなかった。おれは元々桜吹が大好きだったから。
その時から、桜吹がおれの一番大事な人になった。
そんな経緯で一緒に生活をするようになると、桜吹は、まったく、本当に、つくづく感心するほど、綺麗に生きる人間なのだと実感させられた。
朝は、四時には起き出す。そんな桜吹の、顔を洗うために水道を開けていたり、歯磨きをしていたりする生活音で、おれは目を醒ます。
目覚ましを一切使用しなくなって、そうしたら寝起きがものすごく改善した。昔は目覚ましで起床しては、頭痛に見舞われていたのに。
ひとの気配というものは、本当に安心するものだ。動いてなにかをしている、信頼できるひとが一緒にいるという幸福。同居が始まって、それを一番に感じた。
もうすこし寝ていてもいいんだよ、と笑う桜吹の言葉を無視して、おれは食事の用意を手伝う。普段は折りたたんでいるテーブルの脚を伸ばして、箸や醤油さしを真ん中に置く。
「うれしいけど、茎太、頑張り過ぎちゃだめだよ?」
朝食の支度にいそしみながら、桜吹はそんなことを口にする。
なにを言っているんだか。おれはため息が出るようなきもちだった。――頑張り過ぎているのは、誰のほうだと言いたい。
桜吹は完璧だった。朝から夜まで、まったくケチのつけようもないほどきっちりとこなす。必要なことはもちろん全部その日のうちに片付けるし、そのくせおれと喋るだけの時間も作っていてくれる。
あんまりにも、居心地がよくて、逆におれは妙な焦燥を感じた。
――おれは、桜吹の重荷じゃないのか。
桜吹だって、若い男性だ。顔もこれまた綺麗に整っている。桜吹にそのつもりがなくとも、寄ってくる女なんていくらでもいるだろう。
最初、桜吹のもとに来ると決めたとき、誓ったことだった。――決して、重荷にはならない。
でも、そうするように努めても、結果どうなっているのか分からない。桜吹は笑顔を崩さないし、たとえ負担に喘ぐほどでも、おれにそれを言ったりは絶対にしないだろう。
朝食に、ふたりでテーブルを挟む。焦げの一切ない出し巻き卵とサラダ。黙して食べていたら、桜吹が柔らかく声をかけた。
「今日は、予定はあるの? 日曜日だけど」
おれは首を左右に振った。友人の少ないおれを、桜吹はいつも心配している。今だって、ほら、眉が下がっている。
「桜吹は? 今日も、学校?」
尋ねると、珍しく首を振った。おれと同じように、左右に。
「僕は、部活の担当もしていないから…今日は自由だよ。…それでね、相談なんだけど」
相談。桜吹はそう言って小首を傾げた。様子を窺うように。なんだろう。身を乗り出すと、桜吹が、なぜか楽しそうに笑った。
「茎太、一緒に、おでかけしない?」
「…お、でかけ?」
「うん。せっかく日曜だし…必要なもの買うついでに、一緒にランチでも食べてこようよ」
にこにこ、桜吹は笑う。とんでもなく、魅力的な誘いだった。
何度も繰り返すが、おれは桜吹が大好きだ。そんな桜吹と外出なんて、楽しみ以外の何物でもない。
でも、おれは躊躇した。いいのか? 桜吹だって個人的な買い物がしたいんじゃないのか? 子供についてこられると、面倒なことだってあるだろう。
黙ってしまったおれの頭を、そっと伸びてきた桜吹の手が撫でた。
「茎太? またいろいろ気遣ってくれてるでしょ。ごめんね、いつも」
「な、んで、桜吹が謝ることはないだろ」
「そうかなあ。だって、いつも茎太は、僕のことを最優先に考えてくれるじゃない。僕がもっと器用に立ち回れたら、きっと、茎太も気楽になれるのにね」
だからごめんね。穏やかな笑顔。
いっそ哀しくなってしまう。桜吹は、ひとに優しくじぶんに厳しく、っていう信念が過ぎる。もっとひとに甘えたっていいのに、桜吹は、なにもかもを背負って、なんでもないような顔をして笑い続けるのだ。
「気遣いは、当たり前なんだよ。おれは、桜吹が一番大事なんだ、すきな人間を気遣うのは当然のことだろ。桜吹だって、自分のこと後回しにして、おれを優先してくれてるだろ」
急いたように口を動かしたおれに、桜吹は一瞬きょとんとして、それからまた、やさしく笑った。
「ありがとう。茎太がそんなふうに思ってくれてるなんて、僕は幸せ者だね」
胸の奥が、ぎゅうっと痛んだ。幸せ者。そんなわけがない。桜吹は、おれを助けたことで、確かにいくつもの可能性を失ったのだ。
教師として働き始めて間もなくの同居だった。ただでさえ不慣れな職場で頑張っているのに、早くおれと一緒に飯を食べるために、家に持ち込んだ仕事は数知れない。
おれの前で、生徒の答案の採点をするのを、桜吹は何度も謝った。せっかく茎太といるのに、仕事なんて持ち込んでごめんね、と。
そんなの、どうだってよかった。別に、なにも気にはならない。当然のことじゃないか。おれには、桜吹がいてくれるだけで、充分すぎて罰が当たるほど、幸せなのに。
おれは、桜吹の幸せを吸って、自分の幸せにしたのだ。それは確かに罪なのに、桜吹は曇りない笑顔ばかり向ける。
「僕は、茎太がいてくれる生活が楽しいよ。遅くなって寂しい思いさせてるかもしれないけど、帰った場所に茎太がいてくれるの、本当に、嬉しい」
その笑顔が、あまりに嘘やら虚勢やらを弾いて、汚れないので、いっそおれは泣いてしまいたくなる。母さんが死んだときでさえ、おれは泣かなかったのに。
「茎太。一緒に、出かけてくれる?」
柔らかな声が、そう問いかける。頷いた。声は出せなかった。出そうとしたら、それは一瞬で嗚咽に変わってしまう気がした。
桜吹と一緒に外出して、飯を食べ、夕飯の材料を買ってきたおれは、今、自宅の台所に立った桜吹の背中を見つめている。
かみさま、ってのは、ひどいものだ。
桜吹は、最近すこし、痩せた。本人は何も言わないけれど、疲労が酷いのだとは察せた。遅くまで、持ち帰った仕事をしているので、睡眠時間もかなり少ない。
やさしいひとが、損をする。この世界はそうできている。おれを引き取り、桜吹は、背負わなくてもいいものを背負い、持っていてしかるべきものを手放した。
おれは、その背中を見て、思う。はやく、大人になりたい。
桜吹が気を抜いて、楽に暮らせるようにしたい。今まで桜吹が捨てたものを、ひとつひとつ回収して、桜吹にもう一度手渡したい。
おれにできる報いなんて、その程度だ。その程度すら、本当にできるのか、不安もある。それでも、やるしかないし、やりたいのだ。桜吹を不幸にはしたくない。
背中を向けたままの桜吹が、急に口を開いた。
「ほんと、姉さんに、ありがとうって言わなきゃだね」
唐突な言葉に、おれは首を傾げた。
「なんで」
「だって、茎太を遺してくれたでしょう」
目を見開くおれを、桜吹は笑顔で振り向いた。
「茎太を産んでくれて、僕のとこに遺していってくれて、本当にありがとうって。そう言わないとって、しみじみ思ってね。明日、仏壇のお花買ってこないと」
一切の曇りもなく笑う桜吹。胸も、頭も、身体中が痛い。なんで、そうなんだ。いつだって桜吹は、おれを、おれなんかを、大切に導いて、守ってくれて…。
おれは、黙して立ち上がった。料理中の桜吹に、歩み寄る。不思議そうに名前を呼ばれて、おれは、エプロンをつけた桜吹の腹に額をくっつけた。
「…どしたの?」
うまく口を開けずに、くっついたままのおれに、桜吹は料理の手を止めて、背中に手を回してくれた。
母が死んだあの日、おれは未来を絶望していた。一緒に火葬してくれと、そればかり思っていた。母さんのことを哀しむ余裕すらなかった。
孤独のまま、死んでいくばかりだと思っていた。実際そうなる流れだったのだろう。桜吹が、おれを引き取ると言わなければ。
桜吹は、大好きな叔父だし、命の恩人だし、ときにやさしい父であり、母に似た笑みを浮かべ、友人のように笑い合ってくれる、救いの神のような人間だった。
おれが、何をしたら、その恩に応えられるのだろう。おれで足りるのか。なにも持たないおれなんかが、桜吹に幸福を与えられるのか。
桜吹は、おれの頭を撫でた。
「茎太は、頑張り屋で、ポーカーフェイスで。ほんとうにいい子だね。でも、僕の前で、いい子でいる必要はないんだよ。僕は、茎太の親代わりなんだよ…そのままの茎太の、家族なんだよ」
流すまいと思っていた涙が、目に膜を張る。抱きしめられて、抱き返そうとすると、桜吹の痩せた身体の、骨ばったところに触れた。――こんなに、肉もなくて。
「おれ、絶対に、桜吹が幸せになれるようにする。絶対にそうする。だから、もう、もうちょっとだけ…、ここに、置いてくれ」
鼻声で、おれは必死にそう紡いだ。桜吹は、おれの頭を何度も撫でた。
「ありがとう。茎太がいてくれて、もうものすごく幸せだよ。ちょっと、なんて寂しいから、いられるだけ、ここにいてくれたら嬉しいな」
おれは、声をころして泣くのが精一杯だった。
いつも温度があるアパートの一室。待っていれば帰って来てくれる桜吹。忙しいのも気にしないで、おれの学校でのはなしを笑顔で聞いてくれる。
そして、家が狭いから、眠るときは布団をくっつけて眠って。
いくつもの孤独に負けそうな夜を、おれは桜吹の寝顔を見ることで、何度も何度も乗り越えられたんだ。
逃げた父親、死んだ母さん。おれは、おれはもっと生きるよ。まだ死ねないんだ。桜吹を幸せな道へ送るため、おれはがむしゃらに生きていく。
必ず、必ず報いる。桜吹のくれたものすべてを返す。一番、いや、唯一大事な桜吹を、おれは必ず、守れるようになってみせる。
今日も、間もなく終わる。おれはひとりで布団に潜り込む。桜吹は、明日の授業の準備をしてから寝るのだと言った。最後にくれたのは、あたたかい「おやすみ」。
間もなく、うとうとし始めてしまう。子供だよな。でも、桜吹のペンを走らせる音に、こころはひどく安定していく。
目を閉じたまま、桜吹を思った。大切な大切な唯一の家族。
ありがとう。
うまく口に出せない台詞。それを脳内で呟いて、そしたらひと雫の涙がこめかみを伝い落ちた。
桜吹の筆記音に、いだかれるように、おれは目を閉じた。
END