1話:辺境の村
シオノ・ハチロウが降り立った異世界において、人の営みはいまだ緩やかな発展の途上にある。
人々は海の向こうに何があるかを知らず、自らが拠って立つ大陸にすら人跡未踏の地は多い。
それは大陸唯一の王国――つまりは都市国家の域を超えた唯一の国であるサルジェンヌ王国が拡張政策をとっていない為だ。
稀代の錬金術師にして音楽家、そして誰よりも発明家であった初代国王サルジェンヌⅠ世が複数の都市国家を取りまとめて興したのがサルジェンヌ王国だ。
王国には外国や外敵という物が存在しない。大陸の主要な都市国家は既に王国に帰属しているのだ。
彼らが王国に帰属したのは“道”の為だった。
サルジェンヌⅠ世が発明し、普及させた『石の街道』は従来のそれとは一線を画する。
王自らが錬成方法を確立させた“石畳”――塩野八郎の目には原始的なコンクリートにみえた――で舗装された街道は、併せて開発された新機軸の車輪や蹄鉄と相まって馬車での移動時間を半分に短縮したと言われる。
無論、都市から都市へと街道を敷くのは数十年がかりの大規模事業だ。その為に必要な人員と物資は都市国家ひとつで容易に賄えるものではない。
故に、各都市は自然な流れとして協力し合い、後年、街道のもたらす利益によって結び付いた彼らは都市国家を超えた新たな国として王国を自称するようになった。
“街道革命”――国が興るに足る大発明だったと言われている。
ともあれ、そうして各地の都市が臣従してきたのも今は昔。
後に残った辺境集落には滅ぼす程の危険性はなく、かといって道を敷くに足る利益も見込めず、王国とは距離をとった状態が続いている。
現在、集落の多くは特産品の売買などで繋がる緩やかな王国の庇護下に納まっている。
街道の維持や、盗賊の掃討時に多少の税を取られる以外は口を出されることもない――ただひとつの例外を除いて。
「そのただひとつの例外が法執行官なの。石の街道が敷かれていない村にもこうして何年かに一度訪れて、私達の存在を知らせておくの。困ったことがあったら呼んでくださいってね」
「夜警国家というやつですか」
「そうね。実際、王国内の都市の多くが自給自足で成り立っているから、それ以上は求められていないのでしょうね」
ロウとアリシアは今、件の街道から外れた辺境の村の集会所にいた。
簡単に手入れされた暖炉と炊事場、20人ほどが寝られそうな広間だけというさっぱりした造りの場所だ。
軒先に獣避けをかねた玉ねぎのような球状の野菜――オニールという名らしい――が吊るされていることから、常は仮眠室のような扱いなのだろう。
ともあれ、アリシアが来ていることは既に村中に周知されているらしく、村人が近づいてくる様子はない。
辺境の村では宿屋がないこともざらであり、そういった場合、来客は集会所か村長の家に泊まることが多い。この村は前者だった。
一行は既に村長に面通しを済ませ、夕食を御馳走になって後は寝るだけという状況だが、その段になってアリシアから講義を提案されたのだ。
曰く、従者として付け焼刃でも格好くらいはつけておくべき、そうでなくても知っておいて損はないだろう、と。
ロウも異論はなく、干し草を詰めたクッションに胡座をかいて興味深げにアリシアの講義を聞くことと相成った。
「しかし、そんな何年かに一度ふらりと来るだけの法執行官に依頼することなんてあるんですか? 話を聞いてる限り自分たちでどうにかしようと考えそうなんですが」
「後腐れのない部外者に厄介事を丸投げすることはよくあるのだけど、ロウが言いたいのは権威の問題よね。……ユーティス神のいない世界から来た貴方に説明するのは難しいわ。どう思う、ラーガン?」
アリシアがいつの間にか背後に侍っていた老執事に話を振る。
扉の開いた音しなかったような、と思いつつもロウはお帰りなさいと声をかける。
ラーガンは微かに目元を緩めて目礼を返し、落ち着いた低音の声を響かせた。
「“法典”や天罰の権能への畏怖は信仰に由来する根源的なもの、言い換えれば常識に位置するものでございます。ロウ様、人は突きつけられた剣の切っ先を恐れるように、お嬢様やロウ様を恐れるのです」
「そういうものですか」
「そういうものだとご理解ください。理屈ではないのです」
「ふむ……」
肝心要の常識のないロウにはいまいち実感に欠ける話だったが、困ったときはとりあえず警察を呼ぶよな、と自分なりに解釈した。
その様子にアリシアも満足げに頷いて立ちあがった。
両手を挙げてぐっと背中を反らすと年齢以上に大人びて見える胸部が激しく自己主張する。
15歳の青少年はそっと視線を反らした。
「今日はここまでにしましょう」
「ありがとうございました」
「私としても有意義な時間だったわ。マレビトの知識は似ているようでズレていて興味が尽きないわ」
17歳の少女は仕事中は決して見せないリラックスした笑みで少年の努力をねぎらった。
法執行官としての冷たい炎のような横顔でもなく、貴族としての薔薇のような佇まいでもなく、ただの少女としての朗らかな笑み。
それがどうにも眩しくて、ロウはそれとなく話を逸らした。
「マレビトなんて言葉があるくらいですから、僕のような異世界人って他にもいるんですよね」
「ええ、貴方達の持つ知識は非常に有用だし、貴族や教会は積極的に保護……言い換えれば、飼い殺しにしているわ。貴方にとっては不快な話かもしれないけれど」
「いえ、当然の処置でしょう」
電気、火薬、あるいは各種思想。
ロウのような学生でも知識を絞り出せば、この世界に於いてのアタリが出る可能性がある。
況や、それが何らかの専門家だったら大アタリだ。野放しにはできないだろう。
だが、ロウの態度をアリシアは気遣いだと感じたらしく、申し訳なさそうに言葉を続けた。
「ローザス家の食客にも昔いたらしいの。そうよね、ラーガン?」
「はい、このラーガンめも非才の身ながら戦闘技術について指南を受けました。尤も、その方は老齢でしたので、お嬢様が生まれる前に天寿を全うされましたが」
「その人も天罰の権能を持っていたんですか?」
「……ロウ、勘違いしているみたいだから言っておくわ」
ロウとしては至極まっとうな疑問だったのだが、返ってきたのはアリシアのちょっと不満そうな半眼だった。
「マレビトだからって天罰の権能を有している訳ではないわ。母数を考えれば、貴方がマレビトで初めての天罰保持者である可能性も高いくらいよ」
「はあ、そうなんですか」
あの神様、ノリで権能付与してるんじゃなかろうか。
ロウの脳裡に一抹の不安がよぎったが、アリシアの手前、口に出すことは控えた。
「というか、貴方がどうしてそう考えていたかの方が気になるのだけど……」
「え、あはは……」
少年は笑ってごまかした。渇いた笑いだった。
塩野八郎15歳、1年前の諸々は黒歴史として葬り去っている。
壊れたカラクリのように笑うロウをアリシアは不審げな表情で眺めていたが、そういえば、と両手を合わせて背後の老執事に碧眼を向けた。
「ラーガン、頼んでいた物は届いたかしら?」
「此方に」
予想していたかのように、ラーガンは手にしていた包みを開いた。
中には老執事が着ているのと同じ執事服が綺麗に畳まれていた。
「執事服?」
「貴方の仕事着よ、ロウ。言ったでしょう、付け焼刃でも格好くらいはってね」
茶目っけを感じる笑みを浮かべてアリシアは、座ったままぽかんと口を開けていたロウの手を取って立たせた。
「とりあえず着てみなさい」
「い、今からですか?」
「丈が合ってるかみないといけないでしょう。今合わせておけば寝ている間にラーガンが直してくれるわ」
「ラーガンさんは手芸もできるんですね……」
「執事の嗜みでございます」
「手芸は私もできるわよ。馬車に乗っている時でもできるし」
さあ、とロウを急かすアリシアはその場を動く気がないらしい。
どんな羞恥プレイだ、と思いつつも厚意を無下にする訳にもいかず、ロウは少女をできるだけ視界の外に置いてこれまで着ていた平服を脱いで執事服に袖を通した。
清潔な白色のシャツに手袋、黒色のスラックスにジャケット、灰色のウェストコートと見事に暗色で揃えられた中、タイだけは深い真紅の色合いをしている。
よくみれば薄く薔薇の意匠が編み込まれているのを見て、ロウはアリシアの気遣いを感じた。
それなりに見識のある者なら、ローザス家の手の者を下には扱わないだろう。
「……意外と着心地がいいですね。もっと窮屈なものかと思っていました」
「旅の間も着用しますからな。見えない所に余裕を持たせております」
カフスを留めながらぼやいた言葉に、ラーガンは好々爺然とした笑みを浮かべて応え、さりげない手つきでロウのジャケットをぴんと伸ばした。
それだけで少年は背筋も伸びた気がした。
「丈もいいわね。流石はラーガン、いい仕事よ」
「ありがとうございます」
「貴方も意外と様になってるわよ、ロウ。意外と上背あるのね」
「お褒め頂き感謝の極みでございます、お嬢様」
「そっちはまだまだね」
冗談めかした言葉に辛辣な採点を食らい、ロウは至近距離で楽しげにタイを弄る少女に苦笑を返した。
目の前で、後頭部で結った真紅の髪が尻尾のように揺れる様は、端的に言って自制心を試される光景だった。
「しかし、こんなのいつの間に用意したんですか? まあ、サイズはラーガンさんが測ったみたいですが」
「物資と情報の輸送に長けた従者がいるのです。お嬢様のお世話はこのラーガン一人で行っておりますが、法執行官の職務についてはそうもいきませんので」
「“伝令員”って私達は呼んでいるわ。どこから通報があるか分からないし、前科やら類似の事件を調べるには王都に問い合わせる必要もあるから、長足の権能の持ち主を中心に雇っているの」
「成程」
飛脚とか忍者みたいな感じか、とロウは適当に納得した。
その内にアリシアは満足いったのか、うんと小さく頷いて綺麗に結ばれたタイから手を離した。
「悪くないわ。旅の間は格好をどうこう言わない。気を付ける時は言うから、慣れるまではラーガンに見て貰って」
「わかりました」
「ジャケットを脱げばそのまま寝られるくらいの余裕はあるけど……今まで着ていたのはどうする? 処分するならラーガンに預けておけばいいけど」
「……できれば取っておいていただけませんか」
ロウはいつの間にか畳んで置かれていた平服に手を触れた。
綿のような材質でできた、何の変哲もない上下。今の季節は兎も角、冬になればこれだけでは寒いだろう。
「この服は、こちら側に来てはじめて自分で買ったものなんです。……今となっては数少ないカルフィアの物です」
「……そう。わかったわ。邪魔になるというほどでもないしね。ラーガン」
「かしこまりました。いつでも着られる状態で保存しておきます」
ラーガンは一礼して平服を受け取ると静かにその場を後にした。今の内に洗濯しておくのだろう。
後には微妙な空気が残った。
ジャケットを脱いで寝袋を準備をしながら、何を言うべきかロウは迷ったが、その内にアリシアが口火を切った。
「聞きそびれていたのだけど、貴方、何でカルフィア消失犯を“模倣犯”と呼んでいるの?」
「ああ、それは“託宣者”がそう呼んでいたからです」
託宣者はその名の通り、神託を受ける権能を持つ者だ。
大には災害を予知し、小には個人の未来を指し示す彼らは当然のように教会で保護され、表立って活動する者は限られる。
尤も、神本人の口から世界の運営を放棄していると聞かされたロウとしては、彼らが一体何から託宣を受けているのか気になる所だが――。
「託宣者ってカルフィアから行ける範囲だと“南の託宣者”かしら? 運がいいわね。彼女は波長の合う相手のことしか視れないのに」
私は駄目だったの、とアリシアがぼやいた言葉の意味はロウにも察せられた。
自身の権能が何故ないのか彼女は問いたかったのだろう。
この少女が自身の欠点について打てる手を可能な限り打ったであろうことは、まだ短い付き合いのロウにも確信が持てた。
「……南の託宣者は、僕が模倣犯を追えば、いずれ追いつくだろうと」
「そう。それだけでもやり甲斐が湧いてくるわね。でも、よく代金払えたわね。彼女の託宣については教会も大っぴらに対価を要求していたと思うのだけど」
「現物で払いました。こっそり土から造った塩ですが」
「いくら権能とはいえ塩の密造は犯罪なのだけど?」
「…………あ。あー、まかりませんかね?」
「まかりません。模倣犯を捕まえたら次は貴方ね」
つん、とそっぽを向いたアリシアはそのまま寝袋に潜り込んでしまった。
ロウもまた後頭部を掻いて自身の寝袋に潜り込んだ。
暫くして、瞼の裏の闇の中でロウは気付いた。
密造については即座に罪を断じたアリシアだが、ただの一度としてロウにカルフィア消失の責を問うたことはなかった。
それが法執行官たる彼女のできる精一杯だったのだ。
(不器用な人だな……)
「今、謂われのない中傷を受けた気がするわ」
「気のせいです!!」
咄嗟に言い返したロウはくすくすと聞こえる忍び笑いに心がほぐれていくのを感じて、そのまま安寧の闇に身を投じた。
外では夜空に満月が浮かび、微かに聞こえた遠吠えが空気を震わせるが、それもすぐに止んだ。
事件が発覚したのは翌朝のことだった。