幕間
「借用概念というのを知ってるかい?」
朗々とした声が響く。
どことも知れぬ曖昧な世界の中心で、男にも、女にもみえるソレは己を神だと名乗った。
足元まで届く髪は天の川、酒杯を持ち上げる指は大理石の彫刻、酒を飲み下す唇はどんな花よりも美しい。
寛いだ風に姿勢を崩したその姿は、ロウより多少高いくらいの背丈だが、しかし、相対すると何倍にも大きく見える。
存在の尺度が違うのだと魂が理解していた。
だが、それでも相対する塩野八郎の目にはソレは歯車にみえた。
「不完全な物を他の媒体から持ってきた概念で補完することだ。君に与えた権能“天罰・塩の柱”もこれにあたる。君の世界の神話を元にしたチカラということだね」
「はあ」
八郎も塩の柱にまつわる神話については多少の知識はあった。
旧約聖書において、ロトという男が天使のお告げを受け、滅ぼされるソドムを脱出した。
だが、その際に「振り返ってはならない」という忠告を守らなかったロトの妻は黄金の光――硫黄の炎ともいわれている――を目にして塩の柱になってしまったという話だ。
似たような話はパンドラの箱やイザナギとイザナミの神話、もっと卑近な例では鶴の恩返しなどにもみられる。
タブーの中でも比較的メジャーな『見るなのタブー』を扱った一節だろう。
「まあ、貰えるものは貰っておきますけど……」
「うんうん、そうしとくといい。なんなら波乱の運命とかもいるかい? 退屈とは無縁の人生を送れるよ。ちょこっと因果率を狂わせるだけだし大した苦労じゃないよ」
「結構です」
「謙虚だね。英雄願望でもあるかと思ってわざわざ世に二つとない権能をあげたのに」
「え、ちょっと待ってください」
いきなり突っ込んできたトラックに轢かれてから八郎の主観時間でまだ幾分も経っていない。
少年の頬を冷や汗が流れ落ちる。状況の変化についていけなかった。
だが、神は構わず話を続ける体勢に入っていた。
「これから君の向かう世界は不完全だ。その世界に“神の裁き”は存在しない。ただ、神より権能を与えられた人間が人間を裁くのみだ」
「それはそれとして僕はどんな危険物を貰ったんです?」
「私は既に世界の運営を半ば放棄している。そこに生きる物の自主性に任せていると言えば聞こえがいいだろうか。することといえば、権能を授けることと因果から零れた魂を受け入れるくらいだ」
「僕のことですね、わかります。それで、僕はどんな爆弾を貰ったんです?」
「君は本来死すべき運命になかった。あと50年ほど平凡に生きて、平凡に死ぬ筈だった。君の認識で言う所の天国に君の居場所はまだない」
徹底的に八郎の言葉をスルーして、神はもう一度酒杯を煽った。
「余った50年分、好きに生きるといい。私は君に何の指図もしないし、期待もしない。
英雄となるもよし、さっさと死んで閻魔の世話になるもよし、全て好きにするといい」
そうして、最後にいけすかない微笑を浮かべ、神は小さく手を振って八郎を送りだした。
◇
「――とまあ、以上のような経緯で、僕はマレビトになったわけです」
ガタガタと車輪の齎す振動が体を小刻みに揺らす。
馬車の中、ロウの過去話を聞いたアリシアは頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
狭い馬車の中で膝を詰めて座るロウも口元に苦笑を深く刻んでいた。
「色々と聞かなかったことにしたいわ」
「ご愁傷様です」
「他人事みたいに言ってるけど、貴方も当事者なのよ」
「はは……」
思わず乾いた笑みが零れた。
「……貴方に天罰の権能が与えられた意味とか、そのあたりは何も仰られなかったの?」
まるで意味があって欲しいと言いたげな、痛切な物言いにロウは僅かに傷ましげな顔をしたが、すぐに表情をフラットに戻した。
「誓って、今話したので全てです。とはいえ、僕も全てを理解できた訳ではないのですが……」
「大雑把ね。まあ、神様というのはそういうものなのかもしれないけど」
法典にしてもね、とアリシアは膝上の銀装丁をひと撫でして心を落ち着かせると、常の凛とした表情を取り戻した。
「この世界では普通、誰でも15歳までに権能に目覚めるわ」
「目覚める、ですか」
「ある日、夢で権能の名と使い方のお告げを受ける……らしいわ」
“名無し”の少女は僅かに顔を顰めた。
それは彼女には与えられなかったものだ。
「一般的には、お告げによって自分の内に眠る権能の存在を自覚するのだと言われていたけれど……。
貴方の話を鑑みると、本気でユーティス神か、それに類する御方から権能を賜っているのかもしれないわね」
「僕がこの権能を貰ったメカニズムと同じということですか?」
「お告げを受けた時に神と話したって事例は聞き覚えがないわね。あるいは、天罰の権能は特別なのかもしれないけど、天罰の保持者が希少過ぎて調べようがないわ」
そうして、おとがいに指をかけた少女はふと対面の少年を見遣って小首を傾げた。
さらりと揺れる真紅の髪からは微かに薔薇の香りがする。
「貴方、たしか15歳よね」
「ええ。こっちに来てからの日付はきちんと数えていませんが、日数的に誕生日は迎えていると思います」
「ということは、権能を賜った時はまだ14歳だったのね」
「そうなりますね」
「……」
車内に数瞬、気まずい沈黙が流れた。
その一瞬、アリシアの顔をよぎった落胆の影をロウは見逃さなかった。
神と謁見できれば自分も権能を獲得できるのではないか、そんな想いが少女の鉄面皮を超えて滲み、しかし、一瞬の内に押し殺されたのだ。
殆ど偶然に天罰の権能を与えられたロウには何も言えなかった。
どんな言葉をかけようと、それは“持つ者”が“持たざる者”にかける哀れみでしかない。
本質的には、アラン・サーミリオンがアリシアを詰った言葉と変わりはしないのだ。
「……その、ごめんなさい。気を遣わせちゃったわね」
「いえ……」
「貴方が罪悪感を覚える必要はないの。むしろ、誇っていいくらいよ」
アリシアは沈黙を払うように手を振ると、真っ直ぐにロウは見つめた。
整ったかんばせに浮かぶ気遣うような表情が痛ましかった。
「ロウ、貴方にはその権能を使いこなす義務がある。模倣犯がどれくらい貴方の権能を奪っているのかわからないけれど、現状こちらの戦力で対抗できるのは貴方だけなのだから」
「はい」
少女の励ましの言葉にロウは強く頷きを返した。
模倣犯の動きは未だ掴めていない。権能を奪うフィードバックから、模倣犯のいる方角をロウが感知できるだけだ。
また、ロウの知る模倣犯の容姿等にアリシアは心当たりがなかった。
初犯なのかもしれないが、それよりも今まで法執行官にその犯行が捕捉されていない可能性の方が高いだろう。
そんな相手の手の内に今、強力無比な権能があるのだ。
――“天罰・塩の柱”
触れた相手を塩の柱に変える天罰の権能。
その名を宣名して発動すれば、街ひとつを壊滅させることすらできる戦術兵器じみたチカラだ。
その力を持つ相手に対しては、たとえアリシアがローゼス家の特権をフルに活用して国軍を向かわせたとしても一方的に敗北する可能性が高い。
模倣犯に対抗するには、それこそ暗殺するか、あるいは同じ天罰の権能を用いるしかない。
そして、アリシアの知る限りにおいて対抗できる存在はロウ以外にいない。
「私は、私の持ち得る全ての手段で模倣犯を追い詰める。だから――」
薔薇の少女は碧眼に炎を秘めて告げた。
「――勝ちなさい、ロウ。過去に、そして、模倣犯に勝ちなさい」