3話:名無しのアリシア
用意されていた部屋は屋敷の内装同様、質素ながら手入れの行き届いた清潔な部屋だった。
掃除機もないのにここまで綺麗にできるんだとロウは素直に感心しようとして、部屋の隅の細いベッドを見て頭を掻いた。
明らかに部屋の内装にそぐわない場違いなベッドはアリシアの要請の結果、運び込まれたものだろう。
少年の頬を一筋の冷や汗が流れ落ちた。
「……そ、そういえば、ヴィーノさんに“法典”は使わないんですか?」
シオノハチロウは童貞である。而して、ここで逃げの一手を打ってしまうのも仕方ないことだろう。
そんな少年の動揺を知ってか知らずか、飴色のチェアに腰かけたアリシアは備え付けの水差しからカップに水を注ぐと、優雅に口をつけた。
テーブルを見れば、何気にロウのカップも用意されているあたり、貴族らしからぬ気遣いのできる少女だ。
「法典は一回開くと丸一日使えなくなるの。無駄使いはできないわ」
「となると、容疑者を片っ端から判定するというのは難しいんですね」
「碌に情報の集まっていない状況でそんなことしたらみんな有罪判定になるわよ。法典はそんなに便利なものではないわ。条件を限定し、適切に運用しなければ真実には届かない」
「成程、詰めの段階でしか使えない、と」
「ええ……」
「……」
「……」
それきり会話が途切れ、二人の間には沈黙が流れた。
ええいままよ、と心を決めたロウはアリシアの対面に座ってカップを呷ると、意を決して口を開いた。
「そ、それで、さっきは流してしまったんですが、僕ら一緒の部屋で寝泊まりするんですか?」
「信頼の証と受け取ってくれて構わないわ。貴方が重要参考人なら、私には貴方を守護する義務がある」
胸に手を当て、宝石を思わせる碧眼でロウを真っ直ぐに見据え、アリシアは迷いなく告げた。
「今、ラーガンは凶器のナイフの出所を調べに離れているし、貴方一人でいるのは危険よ。“掌から塩を生み出す”なんてトンチキな権能じゃ身を守れないでしょう」
「……ラーガンさん、昨日も不寝番してましたよね。いつ寝てるんですか?」
「彼は鬼角族だから。年齢もあって角は目立たないくらい短くなってしまったけれど」
「オーガ、たしか一日がすごい長い種族でしたね」
だからあんなに背が高かったのか、とロウは心中で老執事の長身を思い返していた。
鬼角族は概して長身で体格に優れた角ある亜人の一種だ。
その角は生まれた時は小指の先ほどだが年齢を経るにつれ長大化していき、人間で言う所の40代前後から縮み、寿命が尽きる頃にはなくなっているという。
そんなオーガ族の最大の特徴はひと月ほぼ不眠不休で動けるタフネスにある。彼らにとっては人間の一か月が“一日”に該当するのだ。
代わりにその後に半月ほどの休眠期を必要とするが、戦場で最大ひと月戦い続けられる彼らは鬼神の如く恐れられている。
(アリシアさんがラーガンさん以外の部下を連れていないのは彼一人で十分だからなのか……)
「とにかく、命が惜しいならこの部屋で寝泊まりしなさい」
「僕がアリシアさんを襲うとは思わないんですか?」
問いに、アリシアは一瞬きょとんとした表情をすると、次の瞬間、まるで己の纏う茨を見せつけるが如く口元を自嘲気に歪めた。
「別に寝台に潜り込んできてもいいけど、もしも子供ができたら貴方、ローゼス家の一員とみなされるわよ」
「えっと、それってまずいんですか?」
「私は“名無し”だから、端的に言ってハズレよ。負け戦に付き合うのはお勧めしないわ」
「“名無し”? たしか権能がない人の蔑称――と失礼」
「気にしないで。それがこの世界の常識だから」
「……」
権能にはそれぞれユーティス神より名前が与えられている。
そして、宣名する――すなわち、その名を呼ぶことで権能は真価を発揮する。
権能の名は、それが己が気質の顕れであることと併せて、この世界における究極の個人の証明となっている。
逆に、権能のない者は神より名前を与えられなかった者、すなわち“名無し”として迫害対象となる。
亜人を含む人類種族だけが権能を持つ。翻って、名無しは人間ですらないとしている国もある。
「なら、貴女は……」
動揺が喉を締め付け、ロウは二の句が告げられなかった。アリシアのこれまでの半生がどれほど辛いものだったのか、想像すらできなかった。
家なし、金なし、親類縁者はおろか常識すらなく異世界に放り出されたロウが曲がりなりにも生きてこれたのは、ただひとつ権能があったからだ。
それは、金銭価値のある塩を生み出せるからというだけでなく、彼が人間として認められる重要なファクターだったのだ。
(今度、神様に会ったらお礼言っておこう……)
地方の領主一族にすら知られている家の出身であるアリシアが、若くして地方執行官に従事しているのは名無しであることが少なからず影響しているのだろうとロウは考えた。
そして、同時に疑問も生じていた。
すなわち、神は何故、アリシアに権能を与えなかったのか。マレビトにすら権能を与えた神が何故――
「その、権能のないアリシアさんが法執行官に就くことは危険ではないんですか? 犯人が苦し紛れに攻撃してくることだってあるでしょう」
「――それでも私はこの“薔薇の法典”に選ばれた。だから、私は義務を果たす」
半ば無意識に口を衝いて出た問いに、少女は法典を手に一瞬たりとも迷うことなく答えた。
「――――」
あまりにも真っ直ぐな答えにロウは冷や水を浴びせられたように身を震わせた。
思わず目を逸らしてしまった。少女の在り方があまりにも高潔で眩し過ぎたのだ。
あるいは、と思う。あるいは、自分にもこんな魂があればカルフィアの街は――
「……すみません、失礼なことを聞きました」
俯き、なんとか絞り出したその一言に、くすりと小さな笑みが返された。
顔を上げれば、そこには鉄の仮面の隙間から僅かに年相応の笑みが垣間見えていた。
小さな、しかし、花の綻ぶような可憐な笑みだった。
「ほんと、貴方は変な人ね。謝ることなんてなにもないでしょうに」
「僕が謝りたいから謝っただけです。僕は貴女の誇りを疑った」
「そう……事件の考察に戻りましょう」
「いいんですか?」
「貴方は私の従者よ。意見を聞くのは当然だわ。それで、何を疑問に思ったの?」
云って、アリシアの表情から笑みが消える。
ロウもまた背筋を正し、手早く己の思考を整理した。
「ヴィーノさんは何故あの日に犯行に及んだんでしょうか?」
「どういうこと?」
「動機です。20年も疑心に耐えたあの人の心がどうしてあの日に決壊したのか、それが疑問なんです」
全ては因果だ。ロウはそう考える。切っ掛けが何であれ、原因があって結果がある。
それがたとえ狂人であっても、狂人なりの理屈と動機がある。ロウはそれを知っている。
「酒精が入って衝動的に、とは考えられないの?」
「であれば、何故、抱擁した際に隠し持っていたナイフで背中を刺したのでしょうか?
衝動的というならば、甥を殺そうと思う程の衝動があるならば、正面から胸を突いて然るべきではないでしょうか?」
「それは断定できることじゃないけど、少なくとも「衝動的に」「だまし討ちする」よりはあり得るかもしれないわね。
貴方はつまり、何か別の要因が介在したのではないか、とそう言いたいの?」
「はい、たとえば、――――という権能は有り得ませんか?」
ロウの推測――現段階では妄想の域を出ないそれに、しかし、アリシアは数分の熟考を重ねた。
「殆どの権能が直接人を傷つけられないのは知っているわよね」
「はい、ですから今回のような方法を採ったのではないでしょうか?」
「……否定はできない。けど、そんなことを考え出したらキリがないわ」
「では、領主が死んで利益を得る人に限定したらどうですか?」
その一言は、少女の秀麗な眉を微かに跳ね上げた。
◇
その後、アリシアの持ちこんだ保存食で夕飯を済まし、初秋の太陽が地平線に沈んだ頃、侍女が清潔な布とお湯を張った桶を持って来た。
できる限りもてなしは断る方針のアリシアだがさすがにこれを拒否することはしなかった。桶の一杯とて湯を沸かすのはひと苦労なのだ。わざわざ運んできたそれを廃棄させるのは忍びなかった。
一方のロウは慌てて席を立った。
脳裡をよぎった桃色の妄想はなんとか追い出すことに成功したが、いつまで平静を保っていられるかは自信がなかった。
「じゃあ、僕ちょっと出てますね」
「でしたら食堂の方へどうぞ。お湯はまたご用意いたします」
「お願いします」
風呂が恋しいロウだが、それが電気もガスもないこの世界では贅沢であることは理解している。
ともあれ、寝る前に旅の埃を落とせるのはありがたかった。
だが――
「いえ、一緒でいいです」
「…………え゛?」
――それどころではなかった。
少女の一言に、部屋の空気が固まる。
ロウが首をぎりぎりと巡らせて見れば、アリシアは表情ひとつ変えずにドレスを脱ぎ始めていた。
侍女は何も言わずに退出した。
「一緒って、あの、いいんですか?」
「見られて恥ずかしい体はしてないわ」
言っている間にアリシアはドレスを脱ぎ終わり、次いでコルセットと下着も外してしまい――ロウは首がもげかける勢いで反対側を向いた。
一瞬視界を映った細いのに柔らかそうなミルク色の曲線を記憶しようとする脳内の悪魔を追い出す。
危ない所だった。ドレスは旅してるから一人で脱ぎ着できるようにしてるんだな、と少年は横道に逸れることでどうにか理性を保つことに成功した。
「なにしてるの、お湯冷めるわよ?」
(去れ、マーラ!!)
「…………隣、お借りします」
ロウは油の切れた機械のようなぎくしゃくとした手つきで上着を脱ぐと、桶に視線を固定したまま体を拭き始めた。童貞にこの状況でズボンを脱ぐ勇気はなかった。
十分な熱を保っていたお湯に布を浸し、絞り、温かなそれで体を拭けばそれだけでも内に溜まった凝りが溶け出るような感触がする。
自然と出かかった声は喉奥で留めた。ここは故郷の自宅ではないのだ。
それに、安堵してばかりもいられない。ちらちらと視界に映るほっそりとした白い手や時折聞こえる気持ちよさげな吐息がその先を想像させる。一時、聖人と化した少年の精神も長くはもちそうになかった。
手早く体を拭き終えたロウは固く絞った布で水気を取るとそそくさと割り当てられた領地へと避難した。
「……終わったわよ」
数分後、シーツを被って般若心経を唱えていたロウに若干呆れを含んだ声がかけられた。
少年がもぞもぞと這い出ると、果たしてドレスを着直した少女が顔を拭いている所だった。
「すっきりしたわね。こればかりは自前で用意するのも難しいし」
「そうです……ね?」
ふと、顔を拭き終え、布から解放されたアリシアを見てロウはぴたりと停止した。
そこには真白い肌の少女がいた。
化粧で隠していたのだろう。くすみのあった肌色はきれいに拭き取られ、その下に隠されていた新雪を露わにしている。
湯気を含んで深みを増した真紅の髪はうなじの辺りで緩く結われ、桜色に染まった頬と相まって少女の雰囲気を柔らかなものに変えていた。
凛として、しかし、そこはかとなく憂いを湛えるかんばせはこの世のものとは思えないほど美しい。
アリシアの素顔に、少年は目の前の少女が自分よりいくらか年上であることを感じていた。
(しかし、これは美醜の感覚がこっちだと違うのかな?)
「仕事に差し支えるからよ、色々とね。それに、私の一族は肌があまり強くないの」
「あ、すみません、顔に出ていましたか」
「貴方はまだマシな方よ」
「……精進します」
ぼやきながらもロウは従者らしく湯の冷めた桶を廊下で待機していた侍女に渡し、ついでに就寝することを告げてそれとなく追いやった。
部屋に戻れば、自分のベッドに腰かけたアリシアはどこか試すような目つきでロウを見据えていた。
「さて、仮に貴方の言う通りだとして、これからどうするの?」
「……アリシアさん、僕は名無しであることを明かした貴女の信頼に応えようと思います」
夜空と同じ色の瞳で碧眼の宝玉を見返すと、少年は静かに言葉を紡いだ。
「僕の権能の“名前”は――」
そうして、夜は更けていく。