エピローグ
晩秋の青空は皮肉なほどに晴れ渡っていた。
笛に似た鳴き声のとんびによく似た鳥が空高く悠然と舞うのをロウは黙って見上げていた。
あの日も、こんな青空だった。
その感慨を過去のものとして想起している自分に気付き、少年は大きく深く息を吐いた。
総教主の名で模倣犯の死亡が布告されてから10日が経った。
平穏を取り返したヘカリトスは急速に元の賑わいを取り戻し、模倣犯に破壊された各所の復旧に勤しんでいる。
いずれ彼女の痕跡は跡形もなくなるだろう。それでいいのだとロウは思った。
少年は今、都市の外、アリシアの馬車の傍で出発を待っている。
都市ひとつを占拠した重犯罪者の神判および討伐はアリシア(とその従者であるロウ)に小さくない褒章を与えたが、ふたりは失礼にならない程度に賜り、あとは固辞した。
アリシアにしてみれば「職務を遂行しただけ」とのことであり、ロウに至ってはほぼ100%私闘であったからだ。また、あまり深く追及されて天罰の権能が露見するのも避けたいところだった。
結局、ロウは教会に己の権能を明かさなかった。
いい機会でないのかとアリシアにも問われたが、聖人などという立場はやはり自分にはふさわしくないという思いが勝ったからだ。少年の主もそれを聞いてひとつ頷くと、以後このことを問うことはなかった。
むろん、懸念はある。
完全な姿を取り戻した“天罰・塩の柱”は全力で発動すればその効果範囲は都市ひとつに留まらない。個人が持つにはあまりに強大過ぎる力だ。体制側が管理しようとするのも理解できる。
だが、ロウはどうしてもその理に従う気になれなかった。不審に近い疑念を感じたのだ。
なので、さしあたっての目的もあり、今しばらくは不心得者として日々を過ごすことにした。
「調子はどうですかな?」
ふと老執事に声をかけられてロウは現実を呼びもどした。
振り向けば、驚異的な回復力で全快したラーガンが常と同じ柔和な笑みを浮かべて隣に立っていた。
模倣犯の死亡と前後してラーガンも己の権能を取り戻していた。尤も、本人はそれを使うことを戒めているようであったが……。
「ラーガンさんこそ、もう起きて大丈夫なんですか?」
「ええ。ですが、そろそろ休眠期間です。半月ほどお別れです、ロウ様」
鬼角族は眠ることなくひと月ほど活動できるが、代償に一度に半月ほどの休眠を必要とする。
ふたりが出会ってもうすぐひと月。最初の別れが近付いていた。
これまで影に日向に手助けしてくれた老執事の不在は小さくない空隙だろう。
ロウは祖父と孫以上に年の離れた老執事を見上げて、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました、ラーガンさん」
「いえ、私の助力など些細なものですよ。それより……」
ラーガンはどことなく気遣わしげな表情で顔を上げたロウを見返した。
「後悔してらっしゃるのですか、彼女を殺さなかったこと?」
「いいえ、いいえ、それだけはしないって決めたんです」
どうせ自殺するのなら、この手で殺すべきではなかったのか。
その想いは今でもある。カルフィアで消え去った人たちの復讐を遂げるべきではなかったのか、と。自らの想像で生み出した怨嗟の声は一生消えることはないだろう。
だが、それは後悔ではない。何度その選択を強いられても、きっとロウは同じ選択をする。
未来でも、過去でもなく、死者でも、神でもない。
今を生きる人が裁くべきなのだ。あのエメラルドの瞳にロウはそう誓ったのだ。
「だから、これでいいんです」
どこかすっきりした表情でロウはそう告げた。
ラーガンもいつもの柔和な顔容を取り戻すと、年の離れた同僚の頭をそっと撫でた。涙は滲むほどに優しい手つきだった。
「良い顔つきになられましたな。貴方様は私とは違う選択をした。素晴らしいことです。この老いぼれから申すことはもうありません」
「ほんとうにありがとうございます、ラーガンさん。その色々と」
「お気になさらず。お嬢様と仲良くなさってください。では、どうかご壮健で」
「はい、ラーガンさんも良い夢を」
そうして、老執事は手を振ってどこかへ去っていった。
その背を見送るロウの脳裡に(どこで半月も寝るのだろう)という疑問がよぎったが、それを尋ねるのはさすがに失礼な気がして口を噤んだ。
◇
出発の準備を終えて暫くして、アリシアがやってきた。
この10日間、論功なりパーティなりで目も回るほどの忙しさであったが、不自由はしていなかったのだろう。真紅の髪に真紅のドレス、片手に薔薇の法典を携えた姿は以前と変わりない。
ただ、ようやく本来の職務に戻れることに少女が安堵すら感じているのをロウは如才なく感じ取った。
最近、ロウも美貌の鉄面皮を透過して少女の内心を感じとれるようになってきていた。努力の成果だ。
「アリシアさん、お疲れさまです」
「ロウ、貴方、けっきょく言葉づかい元に戻ったわね」
観賞動物のようにお歴々の間を連れまわされた10日間がよほどストレスだったのだろう。
どこか拗ねた様子のアリシアは可愛らしい八つ当たりをする。ロウは笑顔でそれを受け止めた。
「あはは、すみません。なんだかこっちの方がしっくりくるんです」
「いいけど……私の鼻が伸びてしまったらどうしてくれようかしら」
「言葉遣いひとつで変わるアリシアさんじゃないですよ」
「それ、褒めてるの?」
ようやく肩の力も抜けてきたアリシアは雪の欠片ほどの微笑を零すと、頬にかかった髪を払い、一度深呼吸してロウを真っ直ぐに見遣った。
「貴方は……これからどうするの?」
「“カルフィア”に行こうと思います。もう何も残ってはいませんが、せめて報告だけでも。――やっと終わったんだって」
「そう……なら――」
その返答を少女は予想していた。
ぽややんとした外見に反し、この少年はひどく義理がたい。その一心で今まで表に出ることのなかった模倣犯に追いついてしまうほどに。
頑固なのはどちらの方よ、とも思うが、実のところ、少女は少年のそういった面を気に入っていた。
「――私も一緒に行くわ」
だから、もう少しだけ一緒にいたいと思ったのだ。
「貴方をひとりで行かせたらまた生き倒れそうだもの。忘れたの、貴方は私の従者ってことになってるのよ?」
あとからついてくる理屈は言った自分でも支離滅裂に思えて、頬が赤くなるのを止められなかった。
言われた方も呆気にとられていたが、徐々に意味を理解してその表情をくしゃりと歪めた。
「アリシアさん……」
「もう、そんな泣きそうな表情はやめなさい。貴方には笑顔が似合ってるわ。みている人も笑顔になる、その、素敵な笑顔よ」
「そっか。うん、ありがとう……」
少年は胸の奥から零れそうになる何かをこらえて、なんとか笑みを作った。
くしゃくしゃの笑みは不器用で、だからこそ少女の胸を打った。
「礼を言われるほどのことじゃないわ。それと……その……」
珍しくもじもじと口ごもった少女は、バラ色の頬のままずいと少年に詰めより、大きく息を吸い、
「――ハチロウ」
吸った息の何十分の一かの声で目の前のマレビトの本当の名を囁いた。
「あ……」
「練習したの。この世界でひとりくらい、貴方の名前を呼んであげられる人がいてもいいだろうと思ったから」
目を瞠ったまま、ロウは言葉を喪っていた。
予想はしていた。元よりアリシアは努力の人で、律義な人だ。きちんと名前を呼べない状況を放置はしないだろうし、一度聞いた音の連なりを再現するくらいはやってのけるだろうと思っていた。
だから、驚くことではない、筈だった。
「あ、ありがとう……ございます」
「折角笑ったと思ったら、ほんとに仕方のない人ね」
なのに、不思議とロウの両目からは涙が零れていた。
喪ったと思っていたものがひとつ取り戻されたことが、ただただ嬉しかった。
そっと抱きしめられた少女の腕の中で、堪えていた筈の何かが決壊し、溢れだした。
「貴方はひとりじゃない。私がいる。だから、今は泣いてもいいわ。でも、いつかは笑いなさい」
「うん……頑張る、から……」
「ええ、私はしばらくこうしているから」
「うん、うん……」
泣き笑いの表情で頷く少年をもう一度抱きしめて、少女は目を閉じた。
そうしていなければ、胸の奥に宿った、熱くて暖かな何かを逃してしまう気がしたからだ。
「好きよ、ハチロウ」
自分ですら聞きとれないほどの声で少女は呟いた。
意図した囁きではなかった。そこに込められた意味もまた、本人ですら完全には理解できていなかった。
まだ恋にすらなっていない感情の蕾からどのような花が咲くかはアリシアにもわからないのだ。
だが、いつかは答えがでるだろう。そのときまで共にいようと少女は決めた。
秋の風が黒と真紅の髪を揺らし、青空へと抜けていく。
もうすぐ冬がやってくる。そして、雪が溶ければ春が訪れる。
ふたりの行く旅路は遥か彼方まで続いている。
泣きやんだ少年が顔を上げたとき、その一歩目をふたりはたしかに踏み出した。
こうして、ひとつの事件の終結とともにシオノ・ハチロウの旅は終わり――ふたりの旅が始まった。
罪と塩、完