3話:ヒトは裁き
ひと気のない都市内には鼻をつく腐卵臭だけがあった。微かに吹く秋風は沈殿したように残る臭いを散らすには弱過ぎる。
ふたりは警戒しつつ、そこかしこに鎮座する塩の塊を踏まないように都市の奥へと進んでいく。
ここまで近づけば、ロウはもう迷うことはなかった。権能を奪われる疼きは過去最大の音量を発し、相手の鼓動さえも伝えているかのよう。
そうして、導かれるように都市内部を進んでいくうちに、ふたりは朽ちた教会に辿り着いた。
壊れかけた扉を開けると、礼拝所の向こう、穴の開いた屋根から青空がのぞいていた。
朽ちてはいてもやはりそこは教会だった。外とは隔絶した一種の異界だ。
そんな場合でもないのに、ロウは自然と背筋が伸びるような印象を受けた。
そして、祈るでもなく佇んでいた模倣犯が紫紺色の髪と中身のない袖を揺らして振り返った。
露わになった赤と緑のオッドアイにはともすれば親愛の情すら垣間見えた。
「久しぶりだね、おにーさん」
「ああ、やっと追いついたぞ、“模倣犯”。あの夏の日から随分かかったよ」
「模倣犯? ふぅん、誰が付けたのか知らないけど、いい二つ名だね。オレには名前がなかったからちょうどいいや」
この瞬間、神託は果たされた。
ここから先の未来をロウは知らない。
「それにしても、女連れとは随分と余裕じゃない」
「保険だ。それとも、お前はもう僕を殺せるのか?」
「いいや、まだだよ。今、おにーさんを殺せば権能の強奪が中断されちゃうさ。よかったね」
残酷なほどに無垢な笑みを浮かべたまま、模倣犯が一歩踏み出す。
「けど、殺さなくても止めることはできる。とりあえず足一本いっとく?」
「やってみろ」
言葉と同時にロウは左足を踏みきった。
体ごとぶつけるかのように猛然と右手を突き出す。
応じて、模倣犯も残る左掌を射出して、ロウの右掌に触れさせる。
「――“天罰・塩の柱”!!」
「――“伽藍魄離・塩の柱”」
宣名と共にかつてひとつであったふたつの天罰がぶつかり合う。
触れたものを塩柱に変える黄金の光が、互いを裁かんと尾を喰らう蛇の如く相食む。
刹那、ロウが左腕を伸ばした。
隻腕の模倣犯に対して、ロウには両腕があり――そのどちらの腕でも天罰の光を放つことができる。
しかし、あと少しで触れるという所で模倣犯の姿が掻き消え、気付けば、数メートル離れた場所には立っていた。
各種肉体強化と高速移動の権能を併用したのだ。ラーガンでさえ捉えきれなかったその速度をロウが捉えられる筈がない。
珍しく少年は舌打ちした。権能の同時使用は実際に見るとその厄介さに舌を巻く思いだ。手札の数が違い過ぎる。
「この感じ、奪えたのはちょうど半分。となると、どちらが先に相手に触れるか、早打ち勝負になるね」
「……それじゃあ、お前の手は届かない」
「ふぅん、どうかな?」
ロウは左手を突き出して権能を発動状態で維持し、黄金の光を盾のようにして半身を守る。
心身にかかる負担は大きいが、模倣犯の高速移動に対応するにはこれしかない。
「へえ、そんなこともできるんだ。いつもはすぐに奪えるからこういうのははじめてだよ」
嗤い、模倣犯も即座に同じように発動を維持する。
視認、選択、発動のプロセスを律義に辿っていた少女には思いつかなかった使い方だ。
互いに天罰の光を構えてにじり寄る姿はまるで古代の戦争のようだ。
一見して拮抗しているようにみえるがしかし、状況は模倣犯に有利だ。
少女は元よりロウが追いかけてくることを想定していた。対策は既に済んでいる。
遠距離攻撃は無駄だ。あの光に触れれば全て塩に還される。どころか、そこから本体まで塩柱化を波及させてくるおそれすらあるし、手加減も難しい。
故に近接戦、而して早打ち勝負となる。
しかし、模倣犯にはロウと比して採れる選択肢が無数にある。肉体強化と高速移動の権能がある。これは限りない有利をもたらす利点だ。
模倣犯は好きな時に攻撃を仕掛ければいいが、いつ接近されるかわからないロウはそうもいかない。強力な権能を持っていようと少年は一般人に過ぎない。
この場のイニシアチブは模倣犯が握っているのだ。
「んじゃ、弱い所から攻めようかな」
そして、彼女は思考する隙を与えず即座に先手をとった。
踏み込みと同時に、一瞬にしてロウの傍を駆け抜け、その背後にいたアリシアの首に手を回す。
アリシアが抵抗する間もなく、その薄紅の頬の紙一枚向こうに天罰の光を纏った指先を照準する。
「へえ、ホントに権能を持ってないんだ、薔薇のおねーさん」
「貴女は他人の権能が視えるのね。あと、余計なお世話よ」
人質になっても表情ひとつ変えないアリシアを、模倣犯はどことなく不満そうな表情で見遣り、ややあって視線をロウに戻した。
「ほら、早打ち勝負だよ。オレとおにーさん、どっちが早いかな?」
慌てて振りむいたロウは即座に駆け出そうとして、しかし、無為を悟ってその足を止めた。
少年は悔いるような表情を取り繕って、アリシアに視線を向ける。
「……少しだけ時間をください」
「クク、外道だね、おにーさん。いいよ、少しだけ待ってあげる」
模倣犯はアリシアを捕えたまま、歌うように数を数え出した。
いくつ待つかを言わないあたりが、模倣犯の厭らしいところだろう。
少女は明らかにこの状況を楽しんでいる。
「アリシアさん」
「わかっているわ、ロウ」
だが、元より時間はかからない。ふたりの間で交わされた会話はそれだけで事足りた。
そして――
「――法執行官アリシア・ローゼスの名において“法典”を開帳す」
アリシアが銀薔薇装丁の“法典”を掲げ、聖句を告げる。
自ら風を起こし、法典のページが高速でめくられ、あるページで止まる。
「いたずらにカルフィアの街を滅ぼしたその容疑を神判する。
重ねて、殺意なき場合は無罪とする。やむにやまれぬ事情があった場合も同じく。
――それでも尚、この者に罪有るならば、その胸に黒薔薇を授けよ」
直後、銀光がひと際強く放たれ、法典から幻想の茨が勢いよく伸びる。
それはアリシアの背後の模倣犯の心臓と法典とを結び――果たして、そのビザールに包まれた胸元には黒薔薇が咲いた。
禍々しい黒色をみせるそれは、法典が少女の罪を認めた証に他ならない。
「――模倣犯、汝に罪あり」
模倣犯は敢然と言い切ったアリシアの横顔を呆気にとられたように見つめていたが、ややあって口元に三日月状に裂けた笑みを取り戻した。
「おねーさんって馬鹿でしょ?」
「これが仕事なの」
「冴えない遺言だね。もういいよね、おにーさん?」
「……アリシアさん、目を閉じてください」
「ええ、後は任せるわ」
“法典”を閉じ、アリシアは判決を待つ死刑囚のように、あるいは神に祈る殉教者のように、目を閉じて沈黙した。
なにかしらの展開を期待していた模倣犯はどことなく拍子抜けした相貌でロウにオッドアイを向けた。
「麗しい友情だね。何の意味もないけど。――じゃ、さよなら」
「――いいや、去るべきはお前だ、“模倣犯”」
瞬間、アリシアを掴んでいた模倣犯の隻腕が根元から崩れ去った。
腕が、まるではじめから存在していなかったように、塩の塵となって風に舞って散る。
それは紛れもなく“天罰・塩の柱”の効果だった。
「…………え?」
「お前の敗因はその権能だ」
予期せぬ喪失に呆然とする模倣犯にロウは淡々と告げた。
最初の疑問は『なぜこの光に本能的な恐怖を感じるのか』だった。
接触によって効果を発する権能ならば、その恐怖は無用な効果だからだ。
「お前は他人の権能を奪って行使できるが、その使い方まで模倣できる訳じゃない。
――お前は神の声を聞いていないんだ」
「なんで? おにーさんの権能は触れた物にしか効果を発揮できないハズじゃ――」
「お前はこの権能を知らない」
断言し、ロウはかつてアリシアと交わした会話を思い出す。
答えはいつも少女との会話の中にあった。ただ、自分が気付かなかっただけだった。
『ある日、夢で権能の名と使い方のお告げを受ける……らしいわ』
神と相対した時、名は与えられたが、使い方を教えられたとは思わなかった。
だが、そうではない。そうではなかったのだ。
――主は、硫黄と火とを主の所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて
カルフィアの街にいた時には、模倣犯と初めて会った時にはわからなかった。
そのとき、ロウは自分がまるでこの世界の住人であるかのように錯覚していた。
――これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。
だが、今ならわかる。それは錯覚でしかなかった。
復讐心が、模倣犯に対抗するために重ねた思考がロウにその事実を気付かせた。
己はマレビト。この世界にとって不純物なのだ。
「神様は借用概念と言っていた。この権能の出典は僕の世界だ。だから、使い方は最初から知っていたんだ」
――しかし、ロトの妻はうしろを顧みたので塩の柱になった。
(創世記19章24-26節)
ロトの妻は振り返ってはならないという忠告に背いて振り返り、黄金の光――硫黄の炎ともいわれるそれを見た為に塩の柱と化した。
ネツィブ・メラーの本質は触れる事にはない。
振り返ること、禁忌に背くこと、見るなのタブー、すなわち――“黄金の光を視認すること”。
ただそれだけで全てを塩の柱に還す。それこそが塩野八郎が神から与えられた力の本質。
今までロウが行ってきた、そして、模倣犯が真似していた権能の発動プロセスは対象を限定するための抑制でしかなかったのだ。
「今まで隠してたの?」
「気付かなかっただけだ。あるいは無意識に抑えていたのかもしれない。だけど――」
瞬間、脳裡にカルフィアで過ごした日々がよぎった。
活気に溢れた夏の街、向日葵のような女性。
毎日が発見に溢れていた。楽しかった。本当に楽しかったのだ。
「――だけど、これが僕にできることだから」
ゆっくりと歩み寄ったロウの手が模倣犯の胸に触れ、黒薔薇が揺れる。
鼓動が狂ったように乱打する。身を焦がす怒りと暗い歓喜に指先がちりちりと燃える。
両腕を喪った模倣犯はもう天罰を行使することはできない。神の裁きに抗する方法はない。
覚悟の時がきた。この瞬間の為に、これまで生きていたのだ。
だから――
「――投降しろ。罪を償うんだ」
だから、そう告げた。朽ちた教会の真ん中で、一言ずつ噛み締めるように告げた。
模倣犯の異なる両眼が微かに見開かれる。
戒めを解かれたアリシアもエメラルド色の目を開けて、ロウに小さく頷きを返した。
「貴方はそれでいい」と、そう認められたようで、僅かに裡に残った悔恨も拭われる気がした。
『僕は――模倣犯を捕まえます』
それがロウと呼ばれ、アリシアに助けられてこの場所に辿り着いたシオノ・ハチロウの覚悟だった。
偽善だった。わがままだった。無意味ですらあるかもしれない。今すぐ殺すべきだと本能が叫んでいる。
それでも、裁くべきは天罰ではなく、人間であるべきだと信じたのだ。
「どうせ死刑じゃない。今ここでおにーさんに殺されても何も変わらないよ?」
「それでも、お前にも懺悔する時間があるべきだ」
「……」
「答えは?」
絞り出すようなロウの声に模倣犯は顔を上げ、にやりと口元を歪めた。
その胸に咲いた黒薔薇だけが彼女を彩っている。
聞くまでもなく、ロウは答えがわかってしまった。
「イヤだね」
「…………そうか」
そう返答されることを望んでいたのかもしれない。
心の奥底でそう囁く声に蓋をして、ロウは模倣犯に触れた手に力を込めた。
掌越しに不思議と落ち着いた音色を奏でる少女の鼓動を感じた。
「ロウって言ったよね。おにーさんとの追いかけっこ、楽しかったよ」
「結局……お前は何をしたかったんだ?」
「さあね。オレは他者の権能を奪う権能を与えられた。だから、それを最大限に活用しただけさ」
歪んだ笑みのまま、模倣犯は毒の言葉を投げかける。
「理由もなく、動機もなく、ただ己に与えられた機能を行使しただけ。
答えてよ、おにーさん、天より人を罰する権能を与えられたモノ。これは“罪”なの?」
――オレとおにーさんに何の違いがあるの?
「ロウ、耳を貸しては駄目よ」
「大丈夫」
模倣犯から目を離さないまま、気遣うアリシアを手で制する。
問われたなら、答えなければならない。
『こんな力を持ってるのに――試してみたいと思わなかったの?』
ロウはまだあの日の問いに答えていないのだ。
だが、今なら答えられる。これまで過ごしてきた日々が答えを導いた。
「……模倣犯、人は誰しも他人を殺すだけの能力を持っている。人間なんて簡単に死ぬんだ。お前もよく知っているだろう」
石で打てば、腹を裂けば、首を締めれば。あらゆる方法によって人は死ぬ。人は殺せる。
権能など関係なく、人間には人間を殺せるだけの能力が備わっている。
人が人を殺すのだ。権能のない世界で14年を生きた塩野八郎はその事実を知っている。
「だけど、チカラがあることと、それを行使することは同じじゃない」
「……」
「お前は結局、与えられた権能を理由に好き放題した自分の罪から逃げただけだ」
互いの深淵を覗き込むように、ロウは真っ直ぐに模倣犯のオッドアイを睨みつけた。
「――――甘えるな。お前はたくさんの人を殺したんだ」
そうして、血を吐くような弾劾は過たず模倣犯の核心を貫いた。
「ククク……そうか。オレは逃げていたのか……」
「……」
刹那、模倣犯の顔に自嘲の笑みがよぎり、掻き消えた。
この少女は狂ってなどいない。自分のやったことをきちんと理解している。その事実を認識してロウは表情を歪めた。
それはきっと狂っていることよりも悲しいことだった。
「ああ、そうだ、ヒトは簡単に殺せる。だけど、オレは奪うモノ。この命ひとつ奪わせない」
「……なら、さよならだ、模倣犯」
「うん、じゃあね。おにーさんがこっち側に来るのを楽しみにしてるよ」
刹那、模倣犯の口内に炎が宿る。
ラーガンを焼いた燃える水の権能だ。少女はそれを己に向けて解き放った。
咄嗟にアリシアの手を引いて下がったロウの目の前で、たちまちに全身に燃え広がったその炎は数瞬と経たずに少女の全身を焼き尽くした。
灰は風に吹き散らされ、あとには床に焼き付いた影だけが残った。