2話:決意
太陽が南中を過ぎて徐々に西日へと変わっていく。
昼食も喉を通らず、かといってラーガンが単独で模倣犯に挑んだことに不満を隠さないアリシアと顔を突き合わせ続けるのも辛く、ロウは少女が借り受けた天幕の前でラーガンを待っていた。
そこに避難民のどよめきを押しのけるようにして、火傷に塗れた老執事が戻ってきた。
「ラーガンさん!?」
ふらつく巨体を受け止める。途端に、爛れた皮膚が裂けて噴き出した血がロウのジャケットを赤黒く染める。
ずしりとした重みを受け止めた拍子に老執事の懐からナイフが零れ、地面に触れて軽い音を立てた。
「ロウ様……?」
「そうです。しっかりしてください、ラーガンさん!!」
「申し訳ありません、ロウ様。権能を奪われました」
「後で聞きますから、早く治療を!!」
「この老いぼれ、不覚をとりました。しかし――」
そのとき、ラーガンがロウの腕を掴んだ。
負傷に反し、節くれだった指に宿る力は骨が軋むほど強かった。
「しかし、模倣犯が何故、この都市に留まっているのかわかりました。
――彼女の体は既に限界です。余命幾ばくもないでしょう」
「……え?」
そうして、ラーガンは手短に先の模倣犯との戦闘について語った。
ロウははじめ、何を言われたのか理解できなかった。
だが、徐々に理解の波動が伝わると、愕然とした想いが心の内に生じた。
このまま放っておけば、模倣犯は死ぬのか、と。
「希有な事例ではありますが、権能の行使に肉体が耐えられない場合があります。
たとえば、病を得て衰弱した体では肉体強化の権能が逆に負担となるのです」
「模倣犯はそれだと?」
「はい。彼女は複数の権能を同時に使用しておりましたが、そうしていなければ立っていることすら難しいのでしょう」
「それが更に肉体への負担となっているんですか。悪循環ですね」
だが、彼女の有する権能の中には天罰というとびきりの爆弾も含まれているのだ。肉体への負担はかなりのものだろう。
それはきっとつけ入る隙になりうる。なにより――
「彼女の権能は“奪う”ことであって“使いこなす”ことではない。――ロウ様の予想通りです」
それこそがラーガンに危険を冒してまで調べて貰ったことだった。
それさえわかれば思い残すことはなかった。
「ありがとうございます、ラーガンさん。これなら賭けにでられそうです」
「ロウ様」
顔をあげれば、常は柔和な微笑みを絶やさない老執事の顔が青白くも真剣な色に彩られていた。
「覚悟を決める時が来ました」
「……」
「相手は凶悪犯、しかもご友人の因縁の相手となれば、お嬢様は命を賭けるでしょう。そういう方なのです。お嬢様が生きるか死ぬかは、ロウ様次第です」
それこそがラーガンが命を賭けた理由だった。
ロウに勝たせるために、アリシアを死なせぬために、老執事は命を賭けたのだ。
「その言い方は卑怯ですよ、ラーガンさん」
「運命の輪は人間の決心など待ってはくれません。今が、その時……」
限界が訪れたのだろう。言葉を言い切るより先にラーガンは倒れた。
ロウは人を呼びながら、最後まで離されることのなかった腕を見下ろした。
「僕は――」
聞く者のいないその場所で、ロウは静かに己の心を決めた。
◇
血に濡れたジャケットを着替えながらロウは心中で考察を重ねていた。
伽藍魄離、権能を奪う権能。アリシアやそれとなく聞いたスピカも知らなかったことからして珍しい権能なのだろう。
あるいは奪った権能で強化しているのかもしれないが、しかし、元来から他者への高い強制力を持つことからして、天罰に近い域にあるものといえる。
模倣犯は他者から権能を奪い、それを同時に複数使うことができる。
発動は接触で、奪った権能の使用中でも権能の奪取は可能。次の一度の接触で決着をつけないとロウにも後がない可能性が高いだろう。
そして、問題は模倣犯がどこまで奪えるかにあった。
もしも、ロウ自身ですら確信の持てなかった“天罰・塩の柱”の本来の使い方を模倣犯が知って、使いこなしていたならば勝ち目はなかった。
だが、そうではなかった。ラーガンが命を賭してその情報を持ち帰ってくれた。
模倣犯の権能は“奪う”ことであって“使いこなす”ことではない。そこにつけいる隙がある。
だから、あとはロウがなすべきことをするだけだ。
「いってきます、ラーガンさん」
少年の手には先ほど零れ落ちたラーガンのナイフがあった。
柄に彼の血が沁み込んで赤黒く斑色になっているそれは戦闘用のナイフではない。手紙の封を切ったり雑事に使うような日常用のそれだ。
だが、それでも喉なりに刺せば人間のひとりは殺せるだろう。
ラーガンを自分と模倣犯の争いの最後の犠牲者にしたいと思う。
だが、ロウは勝つためにもうひとり命を賭けて貰わねばならない人がいた。
「準備はできた、ロウ?」
声と共に、ラーガンを看ていたアリシアが天幕から出てきた。
真紅の髪を後ろで括り、同色のドレスを纏い、銀薔薇装丁の“法典”を手にしたその姿は既に臨戦態勢だ。
目に涙はない。ただ引き結んだ唇に秘めた怒りを感じた。
「ラーガンさんは?」
「眠ったわ。鬼角族の強制休眠よ。命に別条はないけど一晩は起きられないでしょう」
「……そうですか」
とはいえ、起きたとしても全身に火傷を負ったラーガンが戦線に復帰するのは難しい。
他方、現状では5分の天罰権能の奪取も明日にはどうなっているかわからない。
ラーガンの献身にこたえるためにもやはり今日の内に決着をつけるべきだろう。
「アリシアさんもついて来られるんですか」
「逆よ、ロウ。私が行くの。行って、模倣犯の罪を神判する。だから、ついて来るのは貴方よ」
アリシアは毅然として言い切った。
そこには恐怖もある。気負いもある。しかし、なによりもそれらを凌駕する覚悟があった。
「危険ですよ?」
「韜晦の必要はないわ。元より貴方もそのつもりでいたのでしょう」
「……」
言葉もなかった。ロウは彼女が付いてこない可能性をハナから除外していた。
当然のことだったからだ。彼女は“名無し”だが、誇りある法執行官だ。ロウと出会う前からその身ひとつで犯人たちの前に立っていたのだ。相手が天罰の権能を持っているからといって、そのスタンスが変わる筈がない。
「それで、私は何をすればいいの?」
「おそらくは二度の突入作戦でそうしたように、集団で囲めば模倣犯は天罰を広範囲で発動して一網打尽にしてくるでしょう。彼女が天罰の権能を振りかざすのなら対抗できるのは僕だけです。
だけど、もしも僕が狂ってしまったら――僕を殺して下さい」
ロウはラーガンに返し損ねたナイフをアリシアに手渡した。
少女は一瞬怪訝な顔をしたが、少年の真剣な表情をみて全てを察した。
既に“天罰・塩の柱”には既に暴走の兆候がある。模倣犯を前にして平静を保つ自信はロウにはないのだ。
「僕は絶対に貴女を殺さない。そう誓います。たとえ狂ったとしても、それだけは己に守らせる。だから、カルフィアが再現されようとしたときは、お願いします」
「……確約はできないわ。私はあなたに死んでほしくない」
珍しく迷うような口ぶりで、アリシアは視線をロウの唇辺りに彷徨わせていたが、数瞬して意を決してまっすぐに少年を見返した。
西から差す橙色の陽光が少女の凛とした横顔を鮮烈に照らす。
「私は貴方を尊敬しているわ、ロウ」
「――――え?」
突然の告白に、数瞬、ロウの時間が止まった。
しかし、慌てて見返した少女の表情に照れはない。悲痛なほどに真剣な顔容は男女のそれとは到底思えなかった。
「私は貴方を尊敬する。貴方は天罰の権能に驕らず、己の責務を果たそうとしている。その姿勢は尊いものだわ」
「……」
「私は貴方に感謝する。貴方は“名無し”の私を見下しも哀れみもせず、真っ直ぐに私を見てくれた。それがどれだけ私を救ったのか貴方はきっと理解していないわ」
「アリシアさん……」
それは少女がはじめて吐露した弱音だった。
強固な鎧に隠した心の裡。“名無し”というレッテルを張られ、ひとりで生きていくことを強いられた少女の本音だった。
「誓うわ。命までは賭けてあげる。だから、どうか私にこれを使わせないで……」
「――――」
ふと少年の脳裡に走馬灯のように少女と会ってからの日々が回想される。
ひと月にも満たないその日々だったが、少年はひとつの確信を得ていた。
この人に出会えてよかった。
この人を信じて、よかった。
今、自分が一心に戦いに赴くことができるのは、この人が隣にいるからだ。
「いくわよ、ロウ。貴方も過去に決着をつけなさい」
「――はい」
真っ直ぐに見返すエメラルドの瞳の奥で炎が燃えている。
この炎を覚えている限り、自分は道を誤らない。そんな気がした。
10分後、ふたりはヘカリトスの総門を抜けて都市内部に突入した。