1話:模倣犯
その都市に辿り着いたとき、ロウは沈痛な空気というものを視覚でひしひしと感じた。
宗教都市“ヘカリトス”。
サルジェンヌ王国においてほぼ唯一の組織的な宗教であるユーティス神教の総本山。都市内にはいくつもの歴史的な建造物が保護され、年中を通して巡礼者や観光者が絶えない壮麗にして絢爛たる都市。
……であったのはつい先日までのこと。
今、都市は封鎖され、外壁周辺には無数の天幕が張られ、逃げ出てきた民が群れをなしている。
彼らは避難の順番待ちだという。オルドヴァナ他周辺都市に避難するにしても、ヘカリトスに居住していた20万人近い人が無秩序に避難すれば瞬く間に混乱のるつぼになるからだ。
彼らの顔にはこびりついたような疲労と困惑が見て取れる。先の見えない不安に肩を落として歩く様はロウの胸に鈍い痛みを生んだ。
アリシアの配下が領主にどこまで伝えたかはわからないが、『人間を塩に変える』と聞けば誰もがカルフィア消失事件を脳裡によぎらせるだろう。避難命令も当然のことといえる。
この期に及んでまだ模倣犯は都市の中に留まっている。
権能を奪われる疼きが最大音量でロウの脳味噌を揺らし、犯人の在処を声高に主張している。
アリシアの助けを借りて一直線に追いかけて尚、追いつけなかった模倣犯が今、都市の中にいる。
なぜ、とロウは思考に疑念のフィルターをかけずにはいられない。
「なぜ、模倣犯はこの都市に留まっている?」
ロウが考え得る可能性は大きくふたつ。
ここが目的地か、あるいはここから動けないかだ。
前者であるなら目的は明確だ。
大陸最大の宗教都市を天罰の権能で消し飛ばすというのはこれ以上ないテロ行為だ。
しかし、それならばなぜまだ行動を起こしていないのかが疑問となる。既に一度カルフィアを吹き飛ばしている模倣犯が人命に配慮するとも思えない。
後者であるなら目的はさらに細分化できる。
負傷や消耗で動けない可能性、ロウを罠に嵌める可能性、増援を待っている可能性も考えられる。
こちらの場合、アリシアが領主から突入の許可をもらい次第、都市に踏み込むべきだろう。
今回、ロウは交渉の場への同行を許可されなかった。天罰の権能が露見するおそれがあるからだ。
教会は天罰や神託を始めとする貴重な権能を保護している。最大の宗教都市はそのまま権能研究の最先端でもあるのだ。
「……クソ」
ただ待つことしかできない時間に、苛立ちが舌打ちとなって体外に放出される。
ロウの権能は刻々と奪われ続け、現時点でほぼ5割が敵の手中にある。これ以上奪われれば打ち負ける。
だが、行動を決定するには情報が足りない。せめて模倣犯の現状がわかれば推理のしようもあるのだが。
いっそ都市ごと塩の柱に還してしまった方が確実ではないかとすら思ったりもするが、総門に目を向ければ、途切れ途切れに脱出者がでてくるのが気にかかる。
おそらくまだいるであろう都市内に取り残された人々を巻き添えにする勇気も残虐性も、ロウは持ち合わせていなかった。
(とにかく――)
「とにかく都市に入ってみなければどうしようもない。そういうお顔をしてらっしゃいますな、ロウ様」
いつの間に隣に立っていたのか、心を読んだようなラーガンの声に、ロウは意識して横顔を取り繕った。
おそらくロウの演技などこの老執事はお見通しなのだろうが。
「アリシアさんの交渉は上手くいくでしょうか?」
「失敗することはないでしょう。容疑者を裁くのは法執行官の権利であり義務でございます。領主といえども止めることはできません。もちろん道義上、あるいは作戦遂行上の自制を要請されることはあるでしょうが……」
ラーガンはそこで一度言葉を切り、気遣わしげな視線をロウに向けた。
「既に突入作戦は二度失敗しています。ひとりでも戻ってきていれば対策の立てようもあったのでしょうが……」
「……誰も帰ってこなかったんですか」
「はい」
ロウは知らず奥歯を噛み締めていた。
慰めも誤魔化しもしないラーガンがありがたかった。でなければ今すぐとびだしていっていた。
この世界で天罰に対抗できるのはおそらく天罰だけだ。
あらゆる権能、あらゆる人間を強引に押さえつけ、ただそうなることを強要する。それが天罰の本質だからだ。
あとは模倣犯がどこまで使いこなしているかが問題となるが――。
ふと視界の端を真紅の髪がよぎったのを見て取ってロウは顔を上げた。
見れば、アリシアは常になく緊張した面持ちで純白の貫頭衣を纏った老人と相対していた。
柔和な顔つきと整えられた白髭が特徴的な老人だ。どことなく浮世離れしている雰囲気があって60代にも80代にもみえる。
ユーティス神教の総教主にあらせられます、とラーガンに耳打ちされてロウも納得がいった。
そうと意識すれば、たしかに避難民に紛れるようにして幾人かの護衛がみえる。教会の最高権力者が出歩いているというのも不思議な光景だが、考えてみれば今の不安が蔓延した状況こそ宗教が力を発揮する場面だろう。ある意味、宗教都市らしいといえばらしい。
風に乗って届く総教主の言葉は、心を落ち着けなさいとか、絶望してはなりませんといったありきたりなものだが、言う人が違えば感じ方も変わるものだ。慈愛を感じさせる微笑とよく通る声には言い知れない説得力と安心感がある。
「領主だけじゃなくて総教主にもお伺いを立てないといけないんですか?」
「お嬢様は幼いころに総教主様直々に洗礼を受けたご縁があります。初めてお会いする領主様よりも話を通しやすいのでしょう」
「そうなんですか」
少々意外な話だった。その割にアリシアは各地を訪れても教会に寄りつかないからだ。
やはり神の恩寵たる権能を有さない“名無し”であることが、彼女の足を教会に向けさせないのだろう。
むしろ、アリシアがそうと口にしたことはないが、彼女は神をこの世界の機能の一部とみなしている節がある。ロウが神と会ったときの話をしても衝撃を受けたようにはみえなかった。
そうしているうちに二人の交渉は上首尾に終わったようで、アリシアは恭しく一礼してその場を辞した。その足で領主の元へ行くのだろう。
その背を見送って、隣のラーガンが声量をおさえた問いを発した。
「確認いたしますが、ロウ様の権能の発動部位は掌ですね」
「そうですけど……ラーガンさん、まさかひとりで行かれる気ですか?」
「はい。模倣犯が何か仕掛けている可能性もあります。いくつ権能を持っているかもわかりません。まずはひと当てする必要があるでしょう」
数瞬、言葉に詰まった。それはロウも考えていたことだ。
だが、だからといってラーガンを捨て駒にしたくはなかった。
「幸い、私の部下も何人か残っております。お嬢様に不自由をかける心配はありません」
「危険です。何のために僕がここまで来たのかお忘れですか?」
「だからこそです」
断固とした声音で言い切るラーガンに対し、思わずロウはその顔を見上げた。
見上げた先、老執事はいつになく真剣な表情だった。皺の目立つ目元から、隠しようのない戦意が覗いている。
「我々の勝機は貴方です、ロウ様。故に我々は貴方の勝算を上げるためにあらゆる手段を講じる義務がある」
それは言外に、己が死ねばロウの戦意が高まることまでを計算に入れていることを告げていた。
「ですが、ご安心ください。何も勝算のない話ではありません。単純な話、模倣犯の残った腕を斬り落としてしまえば我々の勝利なのですから」
「止められませんか?」
「はい。ロウ様を勝たせるには誰かが行かねばなりません。であるなら、老いぼれから行くべきです」
「……」
これは止められない。ロウは理解した。ラーガンは既に己の役目を決めている。
むろん各個撃破される危険もある。しかし、究極的にはロウと模倣犯の勝負はどちらが先に天罰の権能を当てるかに収束する。その条件を整えるためにラーガンが単騎で行くのは不合理ではない。
「…………勝てないと思ったらすぐに退いてください」
「ロウ様」
「ひとつだけ、模倣犯についてどうしても知りたいことがあるんです。つまり――」
眉を下げたラーガンに対し、ロウは己の考えを告げた。
おそらくはそれこそが決着を左右する事柄だ。
もしも模倣犯の権能が“そう”ならば、もう都市ごと吹き飛ばすくらいしかロウに勝機はない。
ラーガンは思考するように数瞬目を閉じていたが、暫くして目を開け、腰を折って一礼した。
「承知いたしました。必ず情報を持ち帰ります。その間にロウ様も覚悟をお決めください」
「はい。どうか、ご武運を」
◇
ヘカリトスに潜入したラーガンは鼻をつく腐卵臭に微かに顔を顰めた。
古い建物が立ち並ぶ大通りにはそこかしこに塩の塊が鎮座し、いくつかは火にかけられている。
おそらく模倣犯はこれまで塩に還したあとで焼却することで証拠を隠滅していたのだろう。
そして、件の模倣犯は隠れるでもなく、ひと気のない大通りをふらついていた。
女、沈んだ紫紺色の髪、赤と緑のオッドアイ、隻腕。ロウから聞いていた模倣犯の容姿に合致することを確認して、ラーガンはジャケットの釦を外し、シャツの首元を緩めた。
罠がなくてもやるべきことは変わらない。
そのとき、模倣犯が振り向き、ラーガンを認識した。
「コソコソ嗅ぎまわってたのはアンタらか」
「左様でございます」
異装の少女は赤目を眇めるようにしてラーガンを睨み、小さく口元を歪めた。
「オレはまだやることがあるんでな。暫く大人しくしてよ」
「できない相談ですな」
肩幅でストライドをとり、ラーガンは静かに肉体を戦闘態勢に移行させた。
「もはや人間相手に使う日はこないだろうと思っておりましたが……」
両腕を胸前に構え、そして、拳を開く。
老執事の権能が発動する。全身の筋肉が巌のように盛り上がり、五指を揃えて伸ばした両手に鋼の色が宿る。
容疑者を殺さずに捕えるために学んだ拳闘を捨てて、ラーガンはかつての姿に立ち戻る。
「硬化? いや、鋭化との複合効果か。加えて額には鬼角族の角。クク、噂の“血染めの刃”に会えるとはね」
「貴様のような若造にも知られているとは面倒な話ですな」
「そう言うなよ。折角だからおじーさんの権能も奪ってあげるよ」
笑みのまま模倣犯が一歩踏み出す、と同時にラーガンはその懐に飛び込んだ。
警告もなく放たれた手刀が模倣犯の細首を刎ねんと走る。
瞬間、模倣犯の姿が消えた。
「ッ!?」
空を切った手刀が背後の建物を斜めに寸断する。
ずんと音を立てて崩れるそれに目もくれず、ラーガンは素早く背後に向き直る。
そこに立ち位置以外は先ほどと何も変わらない模倣犯の笑みがあった。
「1回死んだね、おじーさん」
「……」
(知覚加速、身体強化、他にも何か使っていますか)
複数の権能の同時使用による高速移動。ラーガンの数十年の修練をあざ笑うかのような速度だ。
だが、チグハグだ。ラーガンはそう感じた。まるで子供が身の丈に合わない凶器を振り回している印象を受ける。
(やはり模倣犯は――)
「おじーさんさ、コレ知ってるでしょ?」
模倣犯が小首を傾げて無邪気に囀る。
刹那、立場を変えた繰り返しのように模倣犯がラーガンの影を踏んだ。
「――“伽藍魄離・塩の柱”」
「!!」
瞬間、ラーガンは互いの視界を遮るように脱いだジャケットを投げつけた。
突き出された黄金の光にジャケットが触れて一瞬で塩の柱と化す。
だが、そうして作った一瞬の時間でラーガンは後退に成功していた。
「やっぱり知ってた」
にやりと模倣犯の口元が愉しげに三日月を象る。
ラーガンは構えを解かぬままじりとさらに一歩を退いた。
ちり、と音を立てて白い前髪がひと房だけ塩に変わり、ぱらぱらと透明な結晶が落ちる。
指先が掠っていたのだ。完全な天罰権能ならそれだけでトドメになっていただろう。まだ不完全、その事実がわかっただけでも収穫だ。
天罰・塩の柱の発動にはある条件がある。
模倣犯はそれを視認、対象の選択、接触による発動でクリアしている。
視認のプロセスを必要としないロウよりは一歩後れているといえるだろう。
そこから導き出される事実こそラーガンが、ロウが、欲していた情報だった。
(……頃合いか)
ラーガンは退却を決意した。戦闘開始から3分弱だが、これ以上は危険だと理性が判断した。
可能ならば模倣犯の残る左腕を切り落としてしまいたかったが、むこうもそれを承知しているのか、常に隻腕を守るように構えて隙を見せない。
さらにいえば、模倣犯が本調子であれば、ラーガンは既に死んでいただろう。
「逃げるの? みっともないよ、おじーさん」
答えず、ラーガンは模倣犯の顔に向けてナイフを投擲し、さらにそれを目くらましにして鋭く唾を吐きつけた。
本命は唾だ。“血染めの刃”、肉体および選択した物質を硬化、鋭化させる権能が、勢いよく飛ぶ唾に刃の硬度を与える。
「きったない切り札だね」
だが、ナイフを悠々と回避し、模倣犯は下手な鉄鎧すら貫く一撃を黄金の光を纏う掌で受けた。
即座に唾刃が塩に還る。
対して、掌は無傷だ。傷を負うよりも塩柱化の方が優先されたのだ。その問答無用さ加減はまぎれもなく天罰の権能の効果だろう。
「お返しだよ」
揶揄するような声と共に唾が吐きかけられる。
ラーガンは咄嗟に払おうとして、瞬間、唾に触れた手が燃え上がった。
「がッ……」
「燃える水はハジメテ?」
凄まじい勢いで延焼する炎は瞬く間にラーガンの全身に燃え広がった。
瞬間、老執事はシャツを切り裂いて脱ぎ捨てるとそのまま水路に飛び込んだ。
「あれ、逃げられちゃった。――だけど、半歩遅かったね」
何も浮きあがってくる様子のない水路を覗きこみながら、けらけらと嗤い続ける模倣犯の手に刃の輝きが宿る。
「“血染めの刃”、いただきだ」