2話:薔薇の法典
“法執行官”とはサルジェンヌ王国における司法職の中でも一等特殊な存在だ。
何しろ、彼らが諳んじる法は王国法ではなく正真正銘“神の記した法”なのだ。
神法の証たる“法典”を開き、罪を裁き、刑を執行する。その為に特権的な司法審査権の与えられた存在、それが法執行官なのだ。
「――法執行官には大きく分けて、各都市に駐在する高等執行官と地方を巡る下等執行官がいるわ。私は後者ね」
「ということはアリシアさんはずっと旅してるんですか。若い身空で大変ですね」
「貴方の方が年下でしょうに」
馬車の中、ロウの対面に座るアリシアはくすくすと忍び笑いを漏らした。
昨日はそのまま一泊し、朝になって移動を再開したその道中だ。アリシアの目的地、つまり今度の仕事現場の街まではもうすぐ着くのだという。
「本当はカルフィアの消失事件を優先したいのだけれど、こちらも仕事だから。貴方には不便をかけるわ」
「御役目ですから仕方ないでしょう。それに、貴女に捕まったのは僕にとっても都合がいいかもしれません」
言って、ロウは心中の動揺を隠して微笑んだ。
馬車の内部は前後に区切られ、今ロウ達が乗っている前部が常用部分、後部は犯人護送用の“檻”になっている。その構造上、前部も広いとは言えず、先程からロウは互いの爪先が触れるか触れないかといった距離でアリシアと向き合っていた。
微かに香る香水の匂い、呼吸に応じてゆるやかに起伏する胸、鈴の音のような凛とした声。
女性との交際経験はおろか二人きりで話したことすら殆どなかった少年にとって、五感すべてで異性を感じる密室はいっそ暴力的ですらあった。
先程から背中を流れる冷や汗が止まらない。表情に出さないのはせめてもの矜持だった。
「貴方の事情も詳しく聞きたいのだけれど、先に話すべき事を話しましょうか。
これが神の法を記した書――“法典”よ」
そんなロウの様子には気付かず、アリシアは膝上に置いていた書物を手にとって掲げた。
白魚のような繊細な指が持ち上げたのは薔薇を象った美麗な銀の装丁を施された分厚い本だ。
「――“薔薇の法典”。気をつけてね。所有者以外が触れると攻撃するから」
「は? じゃあ所有者じゃない人はどうやって中身を見ればいいんですか?」
「中身を見る必要はないの。法典自体が有罪か無罪かを判断するから」
“法典”とは、神より授けられたあらゆる法の記された書物である。
尤も、多くの法執行官が用いているのは“写本”であり、実際に神より賜った“原初法典”は教会が保管しているのだが。
法典はその機能として、当該事件における有罪無罪を判断できる。
ただし、どのくらいの罪があるか、何の罪があるかは判断できない。
有名な話として、犯行に使われた剣を犯人に売った鍛冶師が有罪と認定されたという話がある。法典は鍛冶師を『犯罪に関与した者』と判定したのだ。
神にとっては、あるいは全ての人が罪人なのかもしれない。
とはいえ、全人類を滅ぼす訳にもいかないので、法執行官が条件を指定し、“どこからが裁くべき罪なのか”判断する必要がある。
「ナルホド。しかし、民衆が法を知らないというのはいいんですかね?」
「抜け道を探されたら困るのではないかしら。抑止力としては私たち法執行官がいればいいし」
「支配するのに国民は無知なままの方が御しやすいとは言いますが……」
色々違うものなんだな、とロウは感嘆のため息を吐いた。
元の世界で神より賜った物となればすなわち聖遺物だ。それが写本とはいえ、ほいほいと持ちだされ、挙げ句に実務で用いられているのだ。驚くより他にない。
権能という超常能力のある世界で今さら何を驚いているのだと言われればその通りであるが、根本的な常識の部分に違いがあることは肝に銘じておかなければならないだろう。
「――お嬢様、もうすぐ目的地に到着します」
「わかったわ。ロウ、打ち合わせ通り、貴方は私の従者ということにしておくわよ、いいわね?」
「お手数をおかけします」
言って、ロウは頷きを返した。
格子窓の向こうには木柵に囲まれた街が近付いていた。
昼前だからか、各家の煙突からは炊事の煙が立ち上っている。
「ドーヴィス、主な産業は周辺の森を伐採しての林業。そこまで大きな街ではないわ。というか、ギリギリ街扱いで実質は村といったところね」
「どことなく暗い雰囲気がしますね」
「それはそうでしょう」
ロウの言葉にアリシアは微かに眉を顰めたまま応えた。
「――だって、領主が殺されたんですから」
◇
「執行官殿、遠いところをよくぞお出で下さいました」
早速、領主の屋敷を訪れたアリシア達を出迎えたのは茶色の長髪を垂らした二十代半ばの男だった。
激務故か目の下にはクマができているが、それを除けば美形に分類されるだろう。
「私は殺された領主セルリル・サーミリオンの息子でアラン・サーミリオンと申します。正式な領主が決まるまでの間、僭越ながら領主代行を仰せつかっております」
「アラン代行、この度はお悔やみ申し上げます」
「ありがとうございます。執行官殿に見送られるならば父も安心して泉下へと旅立てることでしょう」
定型通りのやりとりにアランはそっと目を伏せ、やや間を置いて元の表情に戻った。
演技臭さが鼻につく仕草だが、ここ数日で何度も繰り返したのだろうと思えば、それをどうこう言う気にはアリシアはなれなかった。
「申し訳ありませんが、ご連絡いただいた時には従者は1人とのことでしたので追加の部屋の準備はまだ整っておりません。どうか、我が家の食堂で暫しお待ちいただきとうございます」
「部屋は連絡通り2部屋で結構です。元よりこちらの連絡不備、彼は私と同室で寝泊まりします。また、食事も自前で用意しますので結構です」
「え? は、はあ、かしこまりました。でしたら――」
「すぐに職務に移りたいのですが、よろしいですか」
よろしいですかと言いながら、まるで決定事項を告げるかのようなアリシアの言葉にアランは目を白黒させた。
おそらくはもてなしの準備をしていたのだろう。ロウは平静を装ったまま心中で同情した。
それ以上に同室なる未知の概念に思考の8割方がマヒしていたが。
「到着されたばかりでお疲れではございませんか……?」
「お気遣いなく、慣れていますので。容疑者は捕えているのでしたね?」
「は、はい。地下の座敷牢に捕えております」
「結構。案内を1人つけてください。事件について聞き取りのできる者を希望します」
「かしこまりました。――“リュリ、来なさい!!”」
(……ん、何かの権能かな?)
アランは額に汗をかきつつ、声に惹かれるようにしてやってきたエルフの侍女に何事か言付けると一礼して去っていた。領主が死んでまだ一週間しか経っていないのだ。やるべきことは山積みだろう。
その領主代行の背中を見送りながらロウはこっそりとアリシアに耳打ちする。
「よかったんですか? 別にあんな風にすげなく断らなくても……」
「下手にもてなされると判断に私情が混じるわ。特に今回は容疑者も“身内”だもの。気を付けるに越したことはないわ」
「……」
鉄の仮面を被り、忠実に職務を執行せんとするアリシアにロウは何も言えなかった。
リュリと呼ばれていたその侍女は喪に服す意味合いか、黒い腕章を着けていた。
ロウはアリシアの三歩後ろについて、領主の屋敷と言う割には質素な装いの廊下を侍女に案内される。
控え目に周囲を見回しながら、少年は今回アリシアが担当する事件のあらましを思い返していた。
一週間前、ドーヴィス領主セルリル・サーミリオンが殺害された。
時刻は深夜、背中をナイフで一突きにされて即死だったという。
下手人はヴィーノという老人で前領主の弟、つまり、セルリルにとっては叔父にあたる人物だ。
深夜に屋敷を訪れたヴィーノはセルリルに玄関で出迎えられ、その場で犯行に及んだのだという。
犯行は複数の従者が目撃しており、ヴィーノはその場で自首し、今に至る。
「深夜にヴィーノ氏が訪れたことは誰も咎めなかったのかしら?」
前を行くアリシアが何気ない風を装ってリュリに尋ねる。
侍女は周囲を確認して耳目はないことを確認すると、若干声を潜めて話し始めた。
「ヴィーノ様は前領主の弟君にあらせられます。幼い頃からこの屋敷で暮らしておりました。後継者争いを避ける為、サーミリオンの姓は捨てておりますが、この屋敷の者にとっては今尚、主家であることに変わりありません」
「でしょうね。では、背中を突かれたと聞いていますが、どういう状況だったのですか?」
「はい、私やアラン様もその場におりました。領主様とヴィーノ様が歓迎の抱擁された際に、ヴィーノ様が手に持っていたナイフを突き立てたのです。背から心の臓を貫通しており、手当ての甲斐もむなしく……」
「ナイフを持っていた事に気付いた人はいなかった?」
「誰も。袖に隠されていたようで気付けませんでした」
「……そうですか。協力、感謝します」
アリシアが話を終えると同時、一行は地下へと続く階段の前に到着した。
◇
地下は薄暗く、どことなくじめじめとした空気が蔓延していた。
リュリが壁際に設置されていたランプに火を着けるとぼんやりと地下牢の全貌が見えるようになった。
ロウはほうと小さく息を吐いた。
分類としては座敷牢にあたるのか。おそらくは一族に問題のある人物が出た際に隔離しておくための場所なのだろう。地下室は鉄格子に隔てられていることを除けば牢とは思えないほど清潔で、人が生活するのに必要な設備が十分に揃った部屋だった。
そして、その部屋の中心に天井近くの小さな採光窓に向かって祈る老人の姿があった。
年は60歳かそこらだろう。この世界の人間の中では長寿の部類だ。
元からなかったのか、あるいはこの一週間で抜け落ちたのか、禿頭の老人は年齢を感じさせぬ筋骨隆々とした体を丸めるようにして注がれる陽光を浴びて一心に祈っていた。
アリシアは何も言わず、老人――ヴィーノが祈りを終えるのを待った。
「……失礼、お待たせしました。法執行官の方ですか?」
「如何にも。アリシア・ローゼスと申します。今度の事件を担当します」
言って、アリシアが“薔薇の法典”を掲げると、途端にヴィーノの皺に覆われた目が驚きに見開かれた。
リュリと共に脇に控えていたロウは老人の反応にアリシアが自身の想定以上に高い身分であることを察した。
一般に公開されていない法に携わる法執行官には、国の中枢部に近い貴族かそれに類する地位の者が就くのが当然の帰結だろうとは後で思い返して悟ったことだった。
「ローゼス!? なんと、まさかこのトシになって“薔薇”の法執行官にお会いできるとは……。できれば違う形でお会いしとうございました」
「私もそう思います。ですが、私は今、職務として此処にいます。その意味がおわかりですね?」
「……はい。嘘偽りなく真実を述べることをユーティス神に誓います」
「結構です。では、ヴィーノ氏、貴方は何故、甥のセルリル氏を殺害したのですか?」
アリシアの舌は躊躇なく核心に切り込んだ。
ロウの隣で目を伏せていたリュリが微かに肩を震わせるが、反論はない。
彼女もまたヴィーノが領主を刺す場面を目撃していたのだ。
「わかりません。あの日は酒も随分入っており、何故かセルリルの奴に会わないとと思い立って酒場を出たのは覚えているのですが……気付いた時にはもう……」
「動機はないということですか?」
「……いいえ。動機はあります」
ヴィーノはのろのろとした足取りで鉄格子越しに佇むアリシアの足元に跪き、まるで懺悔するかのように滔々と語りだした。
「20年前、兄が逝去する際のことです。生来病気がちだった兄は私に次期領主を任せると常々言っておりました。しかし、いざ遺言状が公開されてみれば――次期領主はセルリルを指名していたのです」
「遺言状が改竄されていたと?」
「わかりません。しかし、書状によって指名されたセルリルに正当性があるのは事実。私はサーミリオンの姓を捨て樵としてこの20年を過ごしてきました」
「……」
「その20年がすべて順風満帆であった訳ではありません。時には妻子にも苦労を掛けました。私は……私は、セルリルへの恨みが一片たりともないとは、とても……ああ、ユーティス神よ、私はなんということを……」
遂に嗚咽を漏らし始めたヴィーノをアリシアは努めて無表情を装って見下ろしていたが、これ以上の審問は無駄だと判断したのか、静かに踵を返した。
「一晩時間を置きましょう。明日、改めて審判を行います」
「……」
「人を付けてください。ヴィーノ氏が自死されないように」
「……かしこまりました」
丁寧に頭を下げた侍女の横を抜けてアリシアは階段を登って地下室を後にした。
ロウもまた無言でその後に続いて行く。が、見上げれば、階段の途中で足を止めたアリシアがその宝石のような色鮮やかな碧眼で此方を見ろしていた。
「不満そうな顔ね、ロウ」
「……ええ、まあ」
「いいわ。部屋に行きましょう」
凛と言い放ち、スカートを翻して階段を登っていく少女の背をロウは追いかける。
そういえば同室になるんだった、と思い出したのは部屋に着いてからだった。