5話:焦れの痛み
ようやく山間から太陽が顔を出し、オルドヴァナの街に光が差し込む。
住人達も活動を始め、各家からは朝食の香りとともにその煙突から煙を吐き出している。
「貴女の事件を横取りする形になってしまって悪かったわね、スピカ」
連行されるイジドールを見送って、ぽつりとアリシアは零した。
このオルドヴァナはスピカの管轄だ。正直なところ、アリシアの行動はあまり褒められたものではない。
だが、スピカは小さくかぶりを振って、アリシアの罪悪感を和らげるよう努めた。
「わたくしだけでは彼に辿り着かなかったでしょう。ですので、やはり貴女が神判するのが正しかったのだと思いますわ」
「スピカ……」
どこか元気のない様子のスピカは、手袋に包まれた己の手を見ろしていた。
頬を叩いた感触はまだ指先に残っていた。
「犯人に不必要な暴力を振るってしまいました。わたくしも未熟ですわ」
「けれど、貴女でなければ彼の記録を残すことはできなかった」
イジドールの狩猟術についての記録をスピカの黒い手帳は受け取っている。
彼は最後に自らの技術を後世に残すことを選んだのだ。
「ええ、彼は裁かれる。けれど、その誇りは私が連れていきます」
後悔を秘めてぎゅっと拳を握りしめ、スピカは顔を上げた。
やりきれない事件だった。しかし、法執行官は折れる訳にはいかない。これまでもこれからも、こうした事件は数限りなくあるのだから。
前を向いた同期を見遣って、アリシアは気遣わしげに告げた。
「貴女は法執行官に向いていないわ。スピカ・シャイニース、貴女は優し過ぎる」
「そっくりそのままお返ししますわ」
「私は貴女ほど犯人に感情移入しないわよ」
「本当に? 物を塩に変えるロウさんの権能、貴女が柄にもなく急ぐ理由、わたくしにも察しはつきましてよ」
「……」
表情が変わらなかったのは、おそらくは日頃の鉄面皮の賜物だろう。
知識に頼りがちな面のあるスピカだが、それ故にその脳裡に搭載された観察力と論理性は時に驚くほどの鋭さを見せる。
とはいえ、星の名を持つ少女はその発見をダシにする気はないようで、ただ堂々とした胸に手を重ねて悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「お礼を兼ねて、この気付きはわたくしの胸の裡に留めておきます」
「いいの?」
「事情があるのでしょう? でしたら、わたくしは何も言いません。それに……」
言葉を返すようですが、と一拍置いてスピカはアリシアを見返した。
燃えるような真紅の髪、理知の光を秘めたエメラルドの瞳。その奥にあるのは純粋すぎる魂だ。
「アリシア・ローゼス、わたくしも貴女が法執行官に向いているとは思えませんわ。
法執行官は疑うのが仕事です。ですが、貴女は――人を信じ過ぎています」
「……」
「いつか、その二律背反に貴女は押し潰されるでしょう」
「……“それでも”よ、スピカ」
曙光を受けて白く輝くアリシアは真っ直ぐにスピカを見返した。
自覚はある。しかし、その碧眼は揺らがなかった。
“薔薇の法典”に選ばれた時から、少女は諦めることをやめている。
「それでも、私は人を信じる。でなければ、“法典”はこの世の全ての人の罪を認めてしまうわ。
“法典”には『裁くべし』と書かれている。
――人が、人を裁くのよ、スピカ。私はそう信じている」
朝日に照らされた街の中で、少女の決意は燦然と輝いていた。
◇
「久しぶりだナ、兄ちゃん!!」
馬車に荷物を積み込み、出発の準備を整えていたロウにやや舌足らずな声がかけられた。
振り向くと、そこにいたのは前に立ち寄った村で冤罪を被せられた所をアリシアが拾った狼人族の子ども、ベオルンだった。
伝令員としてアリシアに雇われた狼の少女はまだ見習いだ。
少女の後ろに控えている人は平服だが、胸元に小さく薔薇の紋章が織り込まれている。おそらくはラーガンの配下、正式な伝令員だろう。
「初仕事サ。けど、まだ見習いだから一人じゃ配達させて貰えないんダ」
「そっか。ベオルンも頑張ってるんだね」
ロウは意識して笑みを浮かべると少女の頭を撫でた。
ベオルンは微かに目を細める。側頭部から突きでた耳が気持ち良さげにぴくぴくと震えている。
村で荒れていた頃とは対照的なその明るい様子は、今回の事件で摩耗したロウの精神を柔らかに癒した。
「っと、まだ仕事中だったね。それで何を配達してくれるの?」
「手紙ダ!!」
ベオルンは大事に抱えていた一通の手紙を差し出した。
封はされていない。こういう場合はロウも内容を確認していいことになっている。
内容は簡潔で、ロウでも読み解くことができた。
すなわち――
『ヘカリトスで模倣犯と思しき人物を捕捉。交戦するも二人を殺害され、残る一人は辛くも逃走に成功。
領主に通報し、現在、都市警邏が追跡を敢行中。急行されたし』
くしゃりと掴んでいた手紙の端が握り潰された。
ロウの顔から表情と名のつくものがすべて抜け落ちた。
「ありがとう、ベオルン」
「……ダイジョーブか、兄ちゃん? 鬼角みたいな顔になってるゾ」
見上げる狼の少女に返礼の笑みを浮かべるのに、ロウは少なからぬ努力を要した。
「ああ、大丈夫、大丈夫だよ。ちょっとアリシアさんのところに行ってくるね」
ベオルンは気遣わしげな表情をしていたが、それ以上は何も言わず幽鬼のような足取りのロウを見送った。
「……貴方の受けた神託が成就しそうね」
手紙を一瞥したアリシアは一言、そう言った。
スピカと別れ、馬車に戻ってくる所を丁度ロウは捕まえることができた。
「後始末はスピカに任せてきたからすぐ出られるわ。
急ぎましょう。“模倣犯”が貴方の権能を使いこなしているのなら、いつヘカリトスが消滅してもおかしくないわ」
「はい」
碧眼に怒りと焦燥を秘めてアリシアは手を差し出す。
ロウはその手を取ろうとして――不意に、動きを止めた。
視界に映った己の手から微かに黄金の光が漏れていたからだ。
「あ……」
手袋が音もなく塩に変わって消し飛び、風に吹かれて散っていく。
黒瞳が動揺に見開かれる。すぐに制御を取り戻し、素肌が露わになった手を振って光を消す。
なんで、という疑問にすぐには答えが出なかった。
模倣犯発見の報に昂ったが為の無意識の発動だろうと理性は言う。
奴をこの手で塩の柱に還す未来図への歓喜の現れだと本能が叫ぶ。
なによりそれは、本人ですら気付かなかった、憎悪の発露だった。
『復讐心を殺してはなりません』、かつてロウはラーガンにそう言われた。
殺そうとして殺しきれるものではなく、認めずにいればいずれ抑えきれなくなると。
その齟齬は精神と直結した機構である権能にまで及んでいたのだ。
「……すみません、アリシアさん」
習性としてひとまずロウは謝罪した。
殺しかけた相手に何を言っているのだと自分で自分に腹が立つ。
天罰の権能を秘めたその手はあまりに容易く人を殺してしまう。
それが、たとえ心を許した友であったとしても塩の柱に変えてしまう。
この手は凶器に相違ない――そんなことはわかっていた筈なのに。
「今は何も言わないわ」
だが、アリシアは構わずロウの手を取って歩き出した。
目を見開く少年を尻目に、引っ張る力は驚くほど力強い。
「貴方の旅が終わった時に話をしましょう。だから、今は顔を上げなさい」
「何の話をするんですか?」
「これまでのことと、これからのことよ」
「……楽しみにしています」
そのとき、彼女は“法典”を開くのだろうか。
ロウは僅かに憎悪を忘れて未来に思いを馳せた。
とはいえ、それは二人ともが生き残った場合の話だろう。
二人の間にそれ以上の会話はなく、馬車は一路、宗教都市ヘカリトスを目指す。
旅の終わりが近づいていた。